Litterae Universales / Imagologia

映像の「真実」について(1)―疑え、而して後に受け止めよ

2015年に何かのテレビドキュメンタリーでやっていた話だが、近年では FBI に入るとまず「映像を信用するな」という心得を叩きこまれるそうである。監視カメラ等で撮影された映像を見て、例えば虐待があったかどうか、ある人が何かを盗んだかどうか、安易に断定してはならない、と―映像に真実が映っているという保証は全くないのだから、と。

それはむろん、画質の高低や機材の調子、データの不具合などによって映り具合が相当におかしなことになる場合があるから、という純然とテクニカルな問題でありもしようけれども、画像処理テクノロジーがこれほどまでに進展して、ほとんど「なんでも」できると言いたくなるくらい、一般人がそこらのカメラを使ってさえ、撮影時にすでに様々な好みの演出・修正を施せるようになった現代に至ってなお、「写真は真を写す」というお題目を高らかに唱えてやまぬ人が絶えない中で、FBI のこの方針は、まことに当を得てほのぼのと心安まるものだといえるだろう……むろん、一枚の写真を見て、そこに写っている馴染みの人の見慣れぬ表情に、普段気づかずにいたその人の本質的性格をまざまざと見る気がしてハッとする瞬間というようなものはしばしば経験されることだし、またそのような瞬間がしばしば小説や随筆にある種の感動をもって書き記されていたりもする。他方、有名なマレーの高速度写真が走る馬の脚つきをはじめてはっきりと捉えてくれたように、通常肉眼では定かに捉えがたいものごとの一瞬の様相を、肉眼で捉えうる形に固定して見せてくれるという機能を写真はむろん持っている。だがそうしたことども以てして、写真は「真を写す」と唱えることは、不可能ではないかもしれないがやはり誇張、ないし過大評価ではなかろうかとひとまず疑う必要がある。そもそも、一瞬で過ぎ去ってしまうがゆえに肉眼では捉えきれない様相を、じっと眺めていられる形に固定して見せるということ自体が、極めて不自然な人為の所業ではあるまいか。馬がギャロップするとき四本の脚はこのような形になっている、ということが一枚の写真の上に示されるとき、そこにうつしだされているものが、通常人間の目にはうつらないものであるなら、それが「真」の様相であると果たして言えるのかどうか、それはあくまでも「真」なるものの定義如何による。馬は確かにそのような足運びで走るのだろうということを疑うわけでは毛頭ないが、馬が「事実」そのような走りかたをするのだとしても、そのことを以てして「写真は真を写す」と称する、そもそも「写真」と称するということに対しては、なお常に警戒を怠るべきではないだろう。「真なるもの」、あるいは「真実」、これらの語はとてもすみやかにロマン化されやすいものだし、実際に長らくロマン化され続けて今に至っているものだ。「真実」なる語をロマン化すること自体を否定する気はなく、それはむしろ必要だと―何にとってだか―思ってはいるのだけれども、メディアとそれにおける伝達をめぐってこの語が使われるときには、大いに用心しなければならないだろう。

ドキュメンタリーなるジャンル概念が生まれたのは1930年代だといわれる。偉大にして簡便なるウィキによれば(最終閲覧2015年4月)、このころ「イギリスの記録映画作家グリアスンらが提唱した「英国ドキュメンタリー映画運動」など、映画のもつ教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図をもった映画製作が隆盛した。現代のドキュメンタリーという用語はこの運動が発祥とされる」のだそうで、「ドキュメンタリーとは、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品のことを指す」という。「記録映像、記録映画とも言われ、テレビ番組として放送する場合もある。文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。個別の作品についてはさまざまな手法がとられており、演出された要素を含むなどフィクションとの境界があいまいな作品もある。」

ここから、「ドキュメンタリー」の定義の肝要な部分だけを抜き出してみると、こうである。

「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」

この定義にはポイントが二つある。ひとつは、「編集してまとめた」という部分、つまり、「演出を加えることなくありのままに記録した映像作品」ではなく「演出を加えることなくありのままに記録した素材映像、を、編集してまとめた映像作品」と定義してある点である。「編集してまとめ」る、すなわち、切り貼りしてつないで一本の映画なり番組なりにする、というのは、徹頭徹尾人為的な操作であって、徹頭徹尾演出的営為以外のなにものでもない。「ありのままに編集した作品」などというものは原理的にありえないし、編集ないし編集的操作を全く行わない映像作品というものもありえない。なぜならひとつには、作品であるからには、どこかで始まり、どこかで終わるからだし、もうひとつには、カメラで撮るからには、何を撮ろうともそれは四角い(ないしは場合によっては丸い)フレームに切り取られた形で撮られるからだ。どの方角へカメラを向けてどのように四角く切り取るかを決める時点でそれは人為的操作だし、「カット!」でカメラを止めればそれもまた人為的操作である―こんなことは言うまでもないことで、上の定義において「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」というフレーズがあくまでも「素材映像」にかかっていて、「編集してまとめた映像作品」にかかっているのではないのは、正確であり、まっとうなことであるといえる。そしてもうひとつのポイントは、もちろんこの「ありのまま」という語であり、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」というフレーズ自体である。

フィクションとドキュメンタリーの境界があいまいだというのも別に今に始まったことでもないが、両者の境界があいまいだというのは要するに「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」というのが具体的にどういうことをさすのかが本質的にあいまいだということに他ならない。海に乗り出す小舟を撮りたいからちょっとその小舟に乗って漕ぎ出してくれと依頼して、乗り出していく小舟にまっすぐカメラを向けてその様子を撮影したら、それはすでに演出なのかどうか―リュミエールの作品のほとんどは実は「やらせ」だったと言えるのかどうかとか。村の人が集会をやっているところへカメラを持っていき、ひとりが三味線を弾いて語っているのを撮らせてもらいましたというときに、撮られている人が、撮られているとわかっていて撮られているならばそれは「ありのまま」ではないのではないか、とか、それなら盗み撮りすれば「ありのまま」なのかとか。そもそも白黒で撮ったらそれはありのままではないだろうとか、いや逆に、色というものはあくまでも主観的なものであるからカラーよりモノクロのほうがはるかにありのままに近いはずだとか(「はるかにありのままに近い」とはいったいどういうことだろう?)。飽きることなく繰り返されるそういう議論はいったいなぜ必要なのだろうか、いつから写真なり映像なりに人は「ありのまま」の「真実」などを期待するようになったのだろうか。肖像写真がはじめて登場したころには、何十秒も露光しなくてはならなかった時点で決して「ありのまま」の肖像など撮れはしなかったのだし、当初から、見栄えのよい肖像写真を「つくる」ために当時の技術で可能な限りの様々な「画像処理」が施されるのは珍しいことでも何でもなかったのに、いつのころからか、おそらくは「決定的瞬間」とかそのようなものが撮れるまでに技術が進展した時点あたりからでもあろうか、「ありのままの」あるいは「赤裸々な」「真実」なる言葉が写真に伴って流通するようになった、それが今ではまたコンピュータによる画像処理技術の進展につれて、ある意味で初心に戻りつつあるのかもしれない、つまり、フォトグラフィーはフォトグラフィーであり、picture の一種であって、「写真」とも「真実」とも必ずしも関係がないかもしれない、と。そこにありありとうつっているものは、すなわちそこにありありとうつっているものである、そういう意味では、うつっているのは確かに真実には違いない―しかしひとまずそれ以上のものではない、と。

上の動画を教室でうつし、「何がうつっていましたか」と問うてコメントペーパーを書いてもらうと、多くの人が、「高校か中学の運動会」「つなひきの様子」「たぶん保護者の誰かがとったファミリービデオと思われる」「子供の成長のドキュメンタリー的な何か」というようなことを書いてくれる。それは実際には間違ってはいない。事実、保護者のひとりがとった高校の運動会のヴィデオであるには違いない。しかし私がそう断言できるのは、この動画ファイルを入手するにあたって撮影事情を聞き知っているからであって、この動画それ自体に例えば「保護者のひとりが記録した、自分の息子が参加している高校運動会の記録映像」というような情報が含まれているわけではない。これを見て「運動会」だとか「つなひき」だとか思うのは、そう思う人が、これまでにおそらく似たような「運動会」の光景を実際にあるいは映像上で見たことがあり、それらの光景の視聴覚的記憶に「運動会」ないし「つなひき」という言語タグがつけられて脳内に格納されている、それが、この動画を見たときに自動的に検索され関連づけられて引き出されてくるからにすぎないだろう。「運動会」「つなひき」という語を知っていても、それらの光景を実際にも映像上でも一度も見たことがなければ、上の動画を見て「運動会だ」とは思わないはずであるのは、りんごというものを見たことがない人がりんごの映像を見て「りんごだ」と思わないであろうのと同じである。「ドキュメンタリー的な」「ファミリービデオ」というのも、そのようなものがだいたいどのようなものであるのかについてのデータが脳内にすでにあるがゆえに、上の動画がそうした文言に関連づけられるにすぎないのだ。……こうしたことは映像の詮索というよりコトバの詮索にすぎないというなら、措いておくとしてもよいが、しかしながらこの動画はひょっとしたら、何かのフィクション・ドラマ映画を作ろうとしているアマチュア映画監督があるワンシーンのためにエキストラを集めてしつらえた運動会の場面を、演出上の工夫をこらしてあえて荒い画質でブレた撮り方をしているのかもしれない、とほとんど誰も思わないらしいのは不思議なことではあるまいか、もし実際にそういう動画であっても何ら不思議はないはずであるが。あるいは、そういうフィクション場面を撮影しようとして準備段階でリハーサルをしている最中に間違ってヴィデオカメラのスイッチが押されてしまった結果の産物でないとなぜ言えるのだろうか。それは決して誰にも断言できないことのはずである。

一方で、「撮影者の意図がよくわからない」「自分の子供を撮ったのかもしれないが下手だと思う」というようなコメントもしばしば見受ける。それはまことにもっともな感想といえるかもしれない、実のところこの動画は、確かに、上記のように本来ある保護者が自分の子供を撮りたくて撮ったものであるのだが、保護者席からトラックを隔てて遠く離れた応援席で応援しているわが子を撮るのに、安価なカメラで最大限望遠にしつつも、あまりに遠いために、そして応援席の生徒たちはみな同じ揃いのシャツを着ているために、どれがわが子なのかよくわからないままに適当な見当で撮った結果、あとで見たらわが子は結局写っていなかった、というしろものであるのだった。だからこれが「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録」したヴィデオであることは確かだし、上に述べた撮影経緯は、経緯としては「ありのままの真実」に違いない。しかし、それではこの動画そのものに「うつっている」「真実」とは―もしそういうものがうつっているとすれば―いったい何だろうか。当の撮影者にしてみれば、撮影を終えたあとでこの動画から得たものはまずもっておそらく、わが子が映っていなかったという失望以外の何物でもなかっただろう。そんな失望などはあくまでも撮影者の個人的な受け止めかたの問題にすぎなくて、その人の「わが子」がそこに映っていないということこそが真実である、その限りにおいてこの映像には真実が映っているなどという言説を展開したとして、そのような言説には単に真実と事実の混同があるのみである。撮影者の失望と、映像の真実とは、何か関係があるのか、それとも全く関係がないのか。

映像が「映っている」すなわちprojectされたものだという点では、鏡や水面に映る像や、陽光によって投げられた影法師と、今でも何の変わりもないだろう。それはマテリアルとして存在する/した何物かがどこかへ、何らかの手段で投影された像なのであって、投影手段がいかに精密なものになろうとも、像は像である。影法師のように、伸びたり縮んだり、ある部分がぼやけたり強調されたりすることを100パーセント回避することは、ブルーレイだろうとその先の次世代高等テクノロジーだろうと決してかなわない。平面に投影され音声が別立てである限り「ありのまま」でないことは自明だが、立体ホログラフィになってその「内部」にスピーカーが内蔵されるようになりでもしたらいっそう「ありのまま」に近づくというものでも別段ないだろう。いかなる高精細カメラで撮影した映像であっても、子供たちが踏んで遊ぶ影法師と本質的には同じものであり、それらの投影像は、投影されたもとのもの(被写体)に対してアナロジカルな関係にある。被写体において「真実」なるものがあるとするならば、その「真実」もまた被写体とともに投影され、もとの「真実」に対してアナロジカルな関係性にある「真実」が投影像にも含まれることになるだろう―例えば―「真実」とは何か今の私にはわからず、わからないままに書いているのだが―ある人がある日この上もなく幸福であったとして、その人のそのときの様子を撮影したならば、その映像には、彼が抱いていたこの上ない幸福が投影されたところの幸福が含まれることになるだろう(「含まれる」とはしかしどういう意味だろう?)、その時その人が歩いていた地面に投げられていた影法師にも彼の幸福が投影されていたであろうのと同じように。しかしこの幸福もまたアナロジカルなものであって、彼自身が感じていた幸福がありのままにそこに投影されてあるわけではない。仮にそうだとして私たちはそれをいかにして見て取ることができようか。むしろよく語られるのは逆の例である、つまり、誰もが善良な人間だと思っていた隣人の影法師なり鏡像なりをあるときふっと見たら悪魔の姿をしていた、というような物語がしばしば、「真を写す」ものとしての映像に関して語られるのだが、これは「真を写す」どころか「真実を暴く」役割を投影像に期待している物語であって、まさしく、投影像というものが持つ伸び縮みの特性、中でも増幅機能とでもいうべき特性に着目した物語であるといえるだろう。同種の物語は今でも、例えば誰かヤリ玉に挙げたい人間の写真を選ぶときはなるべく「うつりの悪い」、いやらしく不潔で極悪に見える写真を選んで「フレームアップ」したり、逆に結婚披露宴で配る写真にはなるべく「うつりの良い」ものを選んだりという行為の中に生き続けているのであるが、同じ人物が一方では「うつりが悪」く他方では「うつりが良」いような場合に、そこに投影されているその人の真実とは何ですかと問われ、「なあに、どっちも真実なんですよ」と答えるのは簡単である。しかし、「悪い」うつりと「良い」うつりの間には無数の階梯とヴァリエーションがありうるのであり、「なあに、どれも真実なんですよ」という答えは結局、真実とは定めがたいものであるという定義上の曖昧さをひたすらズームアップする作用しか持たないだろう。被写体における真実なるものがいかなるものであるのかは相変わらずわからないが、そのようなものがあるとしたらその真実は、投影像においてもいかなる形においてであれ投影されてありうる、と言えるのみである。

しかしながら、映像における真実というものがあるとした場合、それは上記のように被写体からアナロジカルに継承される形で投影されたものに限られるわけではないだろう。なぜなら投影像は、被写体にはなかった、投影像ならではの特性をも持ち合わせているからである。すなわち、それが映像であるということ、「ありのまま」では決してないという特性自体に由来する真実というものもあるであろう。例えばキリスト教思想の世界では、人間の魂は神に対してアナロジカルな存在であり、神そのものであるところの理性が人間の魂にもその似姿 image として投影されているということになっているのであるが、人間は神と違って肉体を持つという特性があるゆえに、悩んだり苦しんだりするはめになっている(「神にはない特性が人間にある、という言い方をすると神学的には大いに問題なのであるけれどもここでは措く)。この地上の人間の苦悩は、教義上は「真実のものではない」、かりそめのものにすぎない等と教えられたりするのであるが、実際に悩み苦しむ人間にとってはこの苦悩もまた真実のそれなのだとするならば、ちょうどそのようにして、本来被写体にはなかった真実が映像には新たに付与されていると考えられるわけである。四角いフレームに切り取られ、始めと終わりがあり、いろいろに編集され、場合によってはエフェクトを加えられもし、そもそも光の当たり具合によっていろいろな写りかた・映りかたをしてしまう投影像は、そういうものであるがゆえにこその真実を持つだろう。真実を持つ、真実がある―どういう言い方をしても判然としないので、「それが真実を持つとかそこに真実があるとか言われたりしてもおかしくないような何かしらの特性」のことを「真実性」と呼ぶことにしたいと思うが、その真実性は、地面がデコボコであったり階段があったりすればそれに沿って形態を変幻させる影法師が持つ真実性と同等なものであり、影法師のそれと同様に、被写体が持っていた真実性との相違をおのずから示しもするだろう。写真草創期に、多くの人が写真を撮られるのを嫌がったというのは知られた話である。「魂を抜かれる」などといって―それは迷信だということになっているけれども、実のところ私などは今でも、写真を撮られると若干の魂が抜かれるような気がしている。影法師を踏まれると死んでしまうとか、逆に死んで幽霊になると影はなくなるとか、そういう考えはどこからくるのか、生きた人間は、トンと一足軽く踏まれたくらいで死ぬことはまずないのに。今はどうか知らぬがしばらく前までは、「人の写真を踏んだりまたいだりしてはいけません」という躾が一般に行われていて、これは、「寝ている人の頭をまたいではいけません」というのと連動していた(印刷物全般をまたいではいけないという躾ともこれは連動していたが、この件はここでは措く。また、「親をまたぐな」というのもあったがこれはまた別系統であろうかと考えられる)。またいだり踏んだりしてはいけない何物か、いわば人間の、個人の尊厳のようなものが写真には投影されている、しかも、部分的にではなく全的に投影されているとみなされていたということだろうし、踏むと死ぬという影法師に至っては、その人の生の根幹のようなものが、いわば、肉体という防御装甲をまとうことのない剥き出しの形でそこに投影されているとみなされていたのであろう。今では「迷信」ともされるそうした態度はおそらく、映像特有の真実性に対して人間が向き合うときの、ひとつの真摯な形であったのだ。

上の動画を見るたびに私は、いい運動会だなあと思うのである。それが「真実」なるものと何か関係があるのかどうかはわからない。ただ、いい運動会だなあと思い、何度見ても飽きることがない、そのためむしろなるべくあまり始終見ないようにしている。見るたびに、いい運動会だなあと改めて、新たに思いたいからである。実際にこれが撮影されたときのナマの運動会を見に行ったとして、そして「いい運動会だなあ」と思ったとして、今この動画を見るたびに思うような思いかたで思ったかどうかは大いに疑問である、というよりも、ほぼ全く異なる思いかたであっただろうことは疑いがない。いい運動会だ、本当に生き生きした少年たちの一コマだなどと思いながらこの動画を見ることと、この動画のもつ真実性なるものがどういう関係にあるのかは、それでもなおやはり全く判然としないのであるが、いずれにせよ、この動画において存在を措定されうるところの真実性は、被写体から継承されたものと映像特有のものとが不可思議に配合されたものであり、その配分比がどのようであるか、どのような形で配合されているのか、それを俄かに測り知ることは難しい。そのような真実性がそこにあるかもしれない映像を前にして、そこから私が何かしらのものを受け取り、それを見失いたくなく、何度でも同じ映像を見直してそのつどそれを受け取り、それが何か大切なものであるかのように保持していたいと思うようなもの、それをロマンチックに「真実」と呼んでみることにしてもよい。

この動画に見るような「運動会」は実際にはどこにもなかっただろう。このように四角い枠に切り取られて、このような音声とリズムとをを伴いつつこのようにブレながら生徒たちの赤いマッスが激しく運動する前を、同じく赤い雲のようなものがこのような距離でザアッと目ざましくよぎっていく、ほんの数分にも満たない時間の中にその「運動会」の全てがあるような、そういうものとしての運動会は、この映像においてしか、あったことはないだろう。映像は決して現実の複製ではない。その真実は、その映像だけのものだ。

2015.5.3 / 最終更新;2020.05.12

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