Litterae Universales / Scriptorium

「文学」の終焉、および来たるべき編集者について (石橋正孝「文学と文学ならざるもの―挿絵に見る近代文学の変容」を読む)

表象文化論学会が年1回発行している学術誌『表象』第3号(2009)に、たいへん興味を惹かれる論考が掲載されていた。もう10年以上も前であるので、著者はおそらく同テーマについて今ではよりいっそう探求考察を深めておられることと拝察するが、なにしろ私にとっては、「文学」という今やかなりいかがわしくなってしまった概念とそれにまつわる著作権がらみの権威成立事情とに関心を抱きはじめた当時とても印象深く勉強させてもらった貴重なテクストであり、今でも秘蔵的に大切にしている参考文献であるので、ここで改めて、敬意を以て引用しつつ熟読しておくことにする。このテクストはまず「編集者という職業」の話から始まるが、2009年のころちょうど私は、いわば「かかりつけ」の編集者をふたりほど相次いで失ったこともあって、紙媒体での著作刊行という慣習を基本的には捨て去って全面的に個人ウェブサイトに移行しようとしており、「文学」なる営為における「編集」という行為の位置づけについても、改めて考え直す必要に迫られていた。

1839年、その前年に『ポールとヴィルジニー』の豪華挿絵版を刊行したことで一躍その名を世に知らしめたフランスの出版社レオン・キュルメールが、『フランス産業博覧会中央審査委員の皆さまに宛てた、編集者という職業に関する覚書』と題する小冊子をまとめた。書籍の制作・販売に際して、コーディネーターである編集者が関与する多様な職種を列挙し、それぞれの分野においてこれまでに達成された技術的成果および今後に残された課題を概観した上で、キュルメールは、結論として次のように書いている。

要するに、「編集者(éditeur)」とは、一冊の書物の製作のために協働するすべての労働者と大衆の間の仲介者として、こうした働き手の仕事のいかなる細部に対しても不案内であってはならない。自身確かな見識をそなえ、大衆の好みに気を配る一方で、より洗練された趣味を有する真の芸術家たちが是認し、欲するところのものを、段階的譲歩の積み重ねによって、それと気づかれることなく世に受け容れさせるために、時として、自分自身の感覚を犠牲にして、最大多数の感覚を優先しなければならない。

この仕事は、たんなるメチエ以上のものである。それは、首尾よく実行することの困難な一個の芸術となった。幾多の労苦を伴うとはいえ、各瞬間にもたらされる知的喜びがそれを大幅に償ってくれる芸術となったのである。

これは、事実上、フランスにおける初の「編集者宣言」とでもいうべきテクストであった。キュルメールのいうような意味における編集者に相当する人物は、すでに18世紀から存在していた。しかし、そのような存在を指してéditeurという語を肯定的に用いたのは―そして自らそう自認したのは―彼が初めてだったのである。

以来、フランス語のéditeurに、多かれ少なかれ、格別の思い入れを抱く者は少なくなかったようだ。伝統的なタイプの出版社が続々と巨大複合企業グループの傘下に統合され、商業主義一色に染まってしまったアメリカの出版事情を切々と綴るアンドレ・シフレンの著『本のビジネス(The business of books)』―日本では『理想なき出版』というタイトルで柏書房から刊行されている―のフランス語版タイトルが『編集者なき出版(Edition sans éditeur)』となっているのは、その意味で象徴的といえるだろう。ここでこのタイトルが含意しているのは、第一義的には、資本主義化した出版が、市場原理から相対的に自由な主体によるコントロールの及ばない非人称的な運動と化した、という本文のメッセージであるが、同時に、インターネットに代表されるメディアテクノロジーの発達によって、万人が発信者となり、ということは、発信者がなんらかの形で特定できる(つまり、法的に責任を追及できる)場合には各人が自分自身の編集者となり、逆に、特定が不可能な場合にはいわば反編集者となって、いずれにしても、専業の編集者が不要になるという事態もまた、その射程には当然入っているだろう。

(p.64-65)

註釈によれば、柏書房『理想なき出版』(勝貴子・宮田昇訳)は2002年に出版されている。原書の初版は1999に出たようで、「インターネットに代表されるメディアテクノロジーの発達によって、万人が発信者とな」るという事態は、アメリカはいざ知らず日本ではまだまだ一般に認知されてはいなかったが、先端的な人々はむろん予測していたことだろう。2009年のころには、日本でも現在(2020年時点)いうところのSNSのうちTwitterが他に先駆けてようやく草の根に広まり大流行し、ブログやウェブサイトによる「発信」を手掛ける人も激増しつつあった。言論ポータルも盛んに構築され、読まれていた。ただし旧来の学術誌、特に文系のそれの本格的かつ全面的なウェブ移行の趨勢が一般的になるのはもう少し後のことであったと記憶する。

「資本主義化した出版が、市場原理から相対的に自由な主体によるコントロールの及ばない非人称的な運動と化した」という事態と、「インターネットに代表されるメディアテクノロジーの発達によって、万人が発信者となり(……)専業の編集者が不要になるという事態」とは、ひとまずは相互に逆のベクトルを持つ事態でもある。「万人が発信者となり」ブログやウェブサイトなどで思うままの文章を自在に公表することができるということは、すなわち、「市場原理から相対的に自由な主体」としてみずからの発信を一定程度みずから「コントロール」できるということを意味するからだ。「資本主義化した出版」の「商業主義一色に染まってしまった」状況とは要するに「売れる本しか出ない」「売れない本は出してもらえない」状況のことであると言ってよいだろうが、20世紀後半(の日本)におけるスタンダードな出版システムにおいては、ある出版企画が実現するかしないかが決定されるプロセスには必ず編集者ないしそれに代わる者、あるいはその雇用者である出版社の社長、などとの意向が強く反映するのが当然ながら通例であり、仮に、売れる売れないに関らず良い本は出すという果敢なポリシーの出版社があったとして、それならそれでよりいっそう強く、編集者なり社長なりの、今度は「芸術的」(とひとまず言っておこう)あるいは思想的な判断がそのプロセスに作用したのである。インターネット上に独自の場所を構えてそこで自分のテクストを発表するという手段を選択することは、場合によっては、こうした従来の出版プロセス自体を拒絶し、市場原理とともに「編集者」というものの介在をも同時に拒絶する態度でありえた(今でもありうる)。上でキュルメールなる「編集者」が掲げる、「自身確かな見識をそなえ、大衆の好みに気を配る一方で、より洗練された趣味を有する真の芸術家たちが是認し、欲するところのものを、段階的譲歩の積み重ねによって、それと気づかれることなく世に受け容れさせるために、時として、自分自身の感覚を犠牲にして、最大多数の感覚を優先しなければならない」というポリシーは、「編集者」と一緒に仕事をする限り、「著者」もまた当然それに付き従わねばならないものである。あるテクストをどのように練り上げていけば「良い本」になるかについて、編集者と著者とが心を一にして相携えて働くときには、その本はこの上なく幸せな本としてこの世に生まれることができるが、両者の考え方が大きく食い違ってしまえば、できあがった本はただただ互いの「譲歩の積み重ね」の不幸な痕跡でしかなくなる。その不幸ゆえに編集者と著者が悲しくも決裂したエピソードはおそらく文芸史上枚挙にいとまがないだろう。他方、「編集者」の側に対してはどうかといえば、「売れる本しか作らせてもらえない」ような商業主義のフィールドを離れて自らの思い描く編集営為に邁進しうる場を、インターネットは時に大いに提供したかもしれないにせよ、旧来の出版システムと「市場」から解放されることが著者に対して持ちえたであろうほどの意義は、おそらく編集者に対してはさほど持ち得なかったであろう。著者が「自分自身の編集者となる」ということは、「たんなるメチエ以上の」「首尾よく実行することの困難な一個の芸術」と称揚されるほどのプロフェッショナルな技量を、職業的編集者に替わって自らが獲得するということを意味するのではなく―そんなことは普通一般の著者にはまず不可能だから―むしろ自らのテクストが公開されるにあたり、そうしたプロフェッショナルな技量が介在してくれることを諦め、放擲するということ、そしてその犠牲と引き換えに自由を得ることを意味する。しかし仮に同様にインターネット上で編集者が「自分自身の著者となる」としても、それは単に、編集者が自分でテクストを書くこともするようになるという以上のことを意味しないだろう。それは紙媒体の時代においても(ポオがそうであったように)望みさえすれば十分以上に可能だったのであり、「市場原理から」のとりあえずの解放以上の、何かからのより画期的な解放を編集者にもたらすわけでもないだろう。むろんネット上にはネット上の、おそらくは市場以上にシビアな需給原理・競争原理が働いているのであり、解放といっても所詮は虎口を逃れて獅子の口に入るようなことにすぎないと思われるけれども。

この二重の意味における「編集者の不在」がフランスで深刻に受け止められている理由は、それが端的に「文学性」そのものの危機と認識されているからではないかと思われる。「編集」という創造的プロセスが出版から消滅しつつある(と実感されるようになった)段階に至って初めて、「編集者」が「文学性」を担保する存在としてにわかに浮上してきたのであって、近年のフランスにおける「編集者」に対する関心の高まりも、そのことと無関係ではないだろう。以上の想定が正しければ、その場合の「文学性」は、「著作権=著者の権利(droit d'auteur)」をその核心としていることにならざるをえない。キュルメールの定義にもあるように、「編集者」は、現実との折衝を通して他者の表現の独自性を社会に受け容れさせることによって、それを認めた自らの判断の正当性を社会から承認される欲望に動かされている。この欲望はまさしく表現のそれにほかならないが、「編集」の営みが表現の名に値するとすれば、それは、「著者」たる権利(=著作権を持つ権利)を他者に認める―稿料がその端的な表現であって、そうでない場合も、出版に伴う経済的リスクを負うという形をとる―ためになされるからなのだ。

(p.65)

「著者」たる権利(=著作権を持つ権利)を他者に認める」とは、平たくいえば、あなたの書いたものを本にしてウチで出版します、ウチで出版する本のあなたは著者として、一定の稿料および著作権料を受け取ることができます、と決める、ということであって、ウチも厳しいからこれこれだけしかお支払いできませんが、仮に全く売れなくても、あなたから賠償金を取ることはしませんよ、安心して良いテクストを書いてくださいねという取り決めをするということであるが、この取り決め、場合によっては明文化された契約書、そしてその契約から発生する稿料が、「編集」という営みが「表現の名に値するとすれば」その「表現」の最終的な形態だというのである。そしてその「表現」の「正当性」、すなわち、ある著者を選んでそのテクストを本に仕立てようという(時には社運を賭けた)決断が正しかったということをいつか「社会から承認される欲望」が編集者を突き動かしているのだ、と。こうした論を「編集者」という職掌の人びとがどういう思いを以て読むだろうかと思うと気が気でないところもあるけれども(『表象』にも編集者というものがいるはずである)、例えば「あの著者はオレが育てたんだ!」というような、よくドラマなどで編集者が言うセリフは、この種の欲望、と言って悪ければ誇りのようなもののありかた(と一般に思われているところのもの)を端的に言い表しているかもしれない。ただ、それを、編集営為という「表現」の行きつくところが稿料であるというふうに論じられると、なかなかに衝撃的なものがある。もっとも、こうした職掌は「編集者」よりもむしろ出版社の経営者のそれのようにも思えるが(後で登場するエッツェルという編集者もみずから出版社を営んでいた)、ここでは「編集者」は、狭義の「編集」にとどまらず出版に関してもろもろの決定権を持つ者、という含意を以て捉えられているとおぼしい。では、編集者がそのように著者に「認める」ところの「著作権」が、「文学性」なるものとどう関わっているというのだろうか。

したがって、「編集者」は、著作権なしにはありえない。しかし、その逆もまた真であって、「編集者」に代表される他者の承認なくして「著者」もありえない。事実、両者は、歴史的にもほぼ同時―七月王政期―に明確な輪郭を結んだのであった(キュルメールの「編集者宣言」は画竜点睛に当たる)。著作権は侵害される可能性が生じた瞬間に、いいかえれば、それが他者によってなんらかの価値があると認められ、「編集者」の介在の余地が発生した時点で、初めて問題になりうる。この限りにおいて、「編集者」を介さないテクストは、あくまで潜在的に著作物であるにすぎない。このように、経済的価値を発生させずには文学性が成立しない点にこそ、近代文学の本質がある。近代文学における「著者」は、王侯貴族の庇護の下にあったそれ以前の「文人」とは異なり、一定の知的自由と引き換えに、市場に向けて書かなければならなくなった。その結果、無限定の読者に読まれうるものでなければならないという文学の基本的要請との間に根本的な矛盾を抱えることになったのである。おそらく、近代文学の文学性とは、同時代の読者による最低限の支持と無限定な読者との間のこの弁証法のことなのであり、「著作権」はその定式化なのだ。

(p.65-66)

「著作権は、侵害される可能性が生じた瞬間に、いいかえれば、それが他者によってなんらかの価値があると認められ、「編集者」の介在の余地が発生した時点で、初めて問題になりうる」とある、このことは実は著作権に限らず、およそ権利というものにおしなべてあてはまる。常々思うことだが、権利は、基本的人権なるものをも含めて、それが奪われる(ないし「侵害される」)ことによって初めて事後的に成立すると言ってもいいのではあるまいか。誰も他人の権利を侵害しないような状況においては、権利などというものが存在するとする意義は何もないし、意義とともにあるのでなければ、そんなものはどこにもない、なぜならば、そもそもそんなものは観念としてしか存在しないからだ。そういう意味では権利は一種の貨幣だとも言える。貨幣は、それを以て何らかのものと交換可能であるという共通観念のもとに流通することによってはじめて貨幣として成立するのであり、流通とともにあるのでなければ、それは単なる紙切れであったりニッケルの塊りだったりするにすぎない。権利もそれと同じで、それを奪ったり奪われたり守ったりするという形で一種のやりとりが行われるというその機能を発揮しない限りは、権利というものとして成立しない、しかも紙やニッケルの塊のような物体に憑依することさえしないのであるから、単純に、文字通りどこにもないのである。ここでは「著作権」もまた、そのような権利の一種として考察されているのだが、やや理解が難しく思われるこの段落では、要するに語の定義が語られていると考えても構わないだろう。あなたのテクストをウチで本にしますよ、印税をお支払いします、ということになった時点で、「侵害される可能性」のある「著作権」が、その「著者」において成立し、同時に、「侵害される可能性」のある「著作権」を持つ者として「著者」が定義される。この場合の「著作権」侵害とは、その会社で本を出してもらう者として当然受け取る権利のある印税なり稿料なりを他人によって不当に奪取されるということを意味するだろう。この侵害の中には、例えば刊行されたその本をまるごとコピーしたものを大量に無料配布してしまったせいで誰もその本を買わなくなったためにその本は二度と再版されず、そうでなければ得られたであろう再版以降ぶんの印税を手にすることができなくなる、というような事態も含まれる。その一方で、その本の一部を不当に改竄されて他人の作品の中に使われるというようなことはおそらく含まれないだろう―ただしそのことが長い目で見てその本の売れ行きにマイナスの影響を与えるならば別だが。つまりここでいう「著作権」とは、言い換えれば、経済的利益独占の権利のことである。通常、著作権によって保護されるものは、経済的利益と名誉とであるが、純然たる名誉のほう、つまり「オリジナリティ」が誰に帰属するかという問題は、ここではそれ単独では考慮に入れられていない、あるいは、名誉の問題が経済的利益と全く切り離されてそれ単独で在るということは想定されていない。そう考えれば、「この限りにおいて、「編集者」を介さないテクストは、あくまで潜在的に著作物であるにすぎない」という一文が理解しやすくなる。「編集者を介さないテクスト」ももちろん、誰かがそれを書いたという意味では著作物であるだろうが、「この限りにおいて」、すなわち、契約の発効とともに一定の経済的利益を独占的に保証される権利、として「著作権」を考える限り、そしてそのような「著作権」を持つ者として「著者」を定義する限り、編集者を介さず誰とも契約締結していない書き手は、書き手ではあってもいまだ「著者」ではないということだ。そういう「潜在的」「著者」の書いたものにも、むろん倫理的には当然守られるべき何物かがあるだろうと考えられるが―例えばカフカが一生懸命に書き貯めた小説も、こっそり机の引き出しにしまい込んでいる間はそれらはいまだ「潜在的著作物」にとどまるし、遺族がそれを見つけて読んだとして別に何とも思わなければ、貨幣の例と同じでそれらの原稿は単に、薪がなくなったときに暖炉にくべれば燃えて熱を発する紙束にすぎないだろう。だがそれを友人マックス・ブロートが読んで実に面白いと思い、人にも読ませてみたいなどと思った時点で、「他者によってなんらかの価値があると認められ」たことになり、「出版」という可能性が揺曳しはじめ、「編集者が介在する余地が発生」する。要するに市場に出回る可能性/価値のあるなし、が、ある書き物における「著作権」のあるなし、またその書き手が「著者」として認められるか否かが決定されるのだが、ある書き物に対して、その可能性/価値があるかどうかを最終的に判断し認定するのが「編集者」だというわけである。「このように、経済的価値を発生させずには文学性が成立しない点にこそ、近代文学の本質がある」とはすなわち、「編集者」によってそのように認められた「著者」だけが「文学性」を担う資格があるとみなされるのが「近代文学」という場だということに他ならない。どんなに優れた小説でも詩でも、「潜在的著作物」である限り「文学作品」として認められない。「編集者」によって見出されて初めて、それらは「文学作品」となるということだ。

剽窃あるいは盗作というテーマは、ミステリドラマや推理小説でも非常にしばしば取り上げられてきた。有名作家が殺され、事件の真相を探っていくと、犯人はかつて自分の作品をその作家に盗作された青年だった、という設定はしごく珍しくないものである。その作家をかつて一躍有名にした代表作は、実は作家志望の若い学生が原稿を見てくれといって送ってきた作品をまるごとパクったものであり、精魂込めて書いた作品を盗まれて自身のデビューの機会を永遠に失って負のスパイラルに陥ってしまった青年が深く恨んでその作家をついに殺害するというパターンだが、殺害に至る前にたいがい一度はその青年は作家に直接談判に行き、盗作をなじり、ののしり、償いを求めることになっている、そのときに、なじられて不遜にも開き直った作家が吐くセリフにも一定のパターンがあり、そのひとつは、「おれがおまえの作品に日の目を見せてやったんだ」という類のものである。「あれは良い作品だ、傑作だ、そう思うだろう、え? だがおまえなんぞが後生大事に抱えていたって宝の持ち腐れだ、だからおれの名前で出してやったんだよ、おれなら、あれを世の中に活かしてやれるからだ、おれの名前で出すから傑作として広く読まれるんだ。あれは確かに傑作だが、おまえには所詮、才能がない、おまえじゃあ無理なんだよ!」そして激昂した青年に灰皿で殴り殺される。この典型的なセリフが言わんとするところは、すなわち「おれは「著者」として認められているが、おまえが「著者」としていつか認定される可能性など皆無なのだと思い知れ」ということである。ここでこの作家が犯した罪は、本来ならば「編集者」が掌握している権能、「著者」認定の権能を、根拠なく不遜にも自ら奮えると思い込み、実際に奮ってしまったことであると言えるかもしれない。

「王侯貴族の庇護の下にあったそれ以前の「文人」」の世界にも、盗作や剽窃は定めし多々あったに違いないが、剽窃をなじられた宮廷詩人が開き直って言うセリフはおそらく全く違うものになるだろう。彼ら「文人」とは異なり、「近代文学の「著者」は」「一定の知的自由と引き換えに、市場に向けて書かなければならなくなった」「結果、無限定の読者に読まれうるものでなければならないという文学の基本的要請との間に根本的な矛盾を抱えることになった」という点については、「文人」といえども、なるべく広く読まれるべきものを書こうとする方向性と、パトロンの意を迎えねばならないという方向性との間に多かれ少なかれ引き裂かれを覚えていただろう、ということを一旦は思う。だがおそらくは、「無限定の読者に読まれうるものでなければならない」「文学の基本的要請」というもの自体が、「文学」が「市場」へ出るとともに発生したということなのだろうし、翻って言うなら、そのような「基本的要請」を抱えるようになった「文学」こそが「近代文学」だということなのである。「文人」が「万人に広く読まれたい」と思うときの「万人」は、「無限定な読者」という意味ではあるまい。「文人」のいう「万人」とは結局のところ「こころざしある人」というような意味であり、決して「無限定」ではない。他方「市場」において「無限定な」読者というときそれは、「本を買ってくれる人ならば誰でもいい、なるべくたくさんの人に、買いたいと思ってもらいたい」ということを含意するだろう。「著者」自身は必ずしもそういう願望を持つわけではないだろうし、持ったとしてもそのための技量があるとも限らないが、その「要請」に応えることができなければ「文学」のフィールドに乗ることができないから、「要請」に応える部分を編集者が引き受ける、そのかわりに、著者を著者としていわば「任命」する権限もまた編集者の手に委ねられる。そしてこの「任命」のしるしとして「著者」に与えられるのが「著作権」に他ならない

「著者」にとって必要不可欠な矛盾を醸成する上で、「編集者」はなくてはならない存在である。この時、前者が「文学」を、後者が「経済」を―そして、検閲制度が存在し、宗教的権威が力を保っていた19世紀においては、「政治」および「宗教」を―中心的に代表することになるが、「編集者」も「文学場」に属する以上、建前としては、その外部の現実原理の圧力を伝達しているのであって、体現しているわけではない。経済および政治・宗教に対する「文学場」の相対的自律性は、文学ならざるものを内包し、それと対峙する身振りから成っている。裏を返せば、文学ならざるものとの関係において成立する文学それ自身は、根拠を欠いているといえるのではないか。その最たるものが「著作権」の根拠になっているオリジナリティで、戦後を中心に日本のマスコミを賑わせた「盗作」騒動を総覧する栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史―市場・メディア・著作権』(新潮社、2008年)を読むと、些細な疑惑をスキャンダルに仕立て上げるメディアの欲望の根底には「著作権」そのものの根本的な矛盾があり、「著作権」など嘘ではないか、と暴く欲望が日に陰に文学にはつきまとっているように思われてくる。それだけではなく、実はその欲望を必要としているのは文学の側であり、ロマン主義以降の文学というのは「盗作」が裏地になっていた文学である事実が搦め手から示されているような気さえしてくる。

「著者」と「編集者」が登場した1830年代とは、ロマン主義の最盛期に当たっている。「著者」の拠り所であるオリジナリティがロマン主義的理想の所産であることは論を俟たないが、この時期の出版業界は深刻な不況に陥っていたため、折しも勃興期にあったジャーナリズムに執筆の場を求めなければならなくなった作家たちの間で猖獗を極めた現象、それが剽窃であり、代筆であり、共同執筆であり、偽名であった。「文学場」の劣悪な状況を反映するこうした行為が、「著者」というステータスを獲得するための手段ともなっていた事実は、マリー=エーヴ・テランティの大著『モザイク―新聞と小説の間にあって作家であること(1829年~1836年)』が豊富な事例とともに詳細に跡づけている。平然と他人の作品の剽窃をしておきながら、自作が剽窃されると激昂したエドガー・アラン・ポオの矛盾は、近代文学の作家―特に小説家―に典型的な症例だったのである。

(p.66-67)

いわゆる世間さまからの「要請」の一方の代理人のようなものとしての「編集者」によって「任命」された「著者」がものするテクストが「文学性」のあるものとみなされる、という手続きが、「文学場」=文学フィールドの根幹を支える制度であるとすれば、「文学場」そのものは「絶対的に」は決して自律も自立もしていないわけであるが、「建前」としてはあくまでも、俗世間から屹立した独自の価値体系を呈示する場としてふるまう。しかしそれはあくまでも「建前」であって、「文学場」がひとえにこのような手続きの産物であるならば、そこに拠って立つ「文学」は、「それ自身」としては「根拠を欠いている」、すなわち、「文学性」(あるいは、文学の芸術性、と言ってもいい)なるもの自体がそもそも建前にすぎないということになり、その「文学性」の重大な根拠のひとつとなっている「オリジナリティ」をめぐって争われる「盗作」「剽窃」問題においても、実のところは「オリジナリティ」を奪い合っているのではなくて「著者」というステータスを奪い合っているにすぎず、つきつめていえば結局は世俗的利益を奪いあっているにすぎないだろうというわけである。ロマン主義とオリジナリティについてはまたやがて別稿において学ことにするが、「オリジナリティ」なるものがそもそも、諸「権利」と同じく、実体のない、と言って悪ければよくわからないものであるのだ。「「著作権」など嘘ではないか、と暴く欲望が日に陰に文学にはつきまとっている(……)実はその欲望を必要としているのは文学の側であり(……)」云々の箇所については、もう少し先まで読んでから改めて考えることにし、ひとまず続きを読む。ここからしばし「挿絵」の話となる。

そして、「編集者」が代表する「文学ならざるもの」の象徴が挿絵であった。レオン・キュルメールの「編集者宣言」の冒頭に「出版業は今日、新たな重要性を帯びるに至ったが、それは、挿絵本の導入以来、出版の世界に根づいた「編集者」という職業のお陰である」とあるように、éditeurがそもそもは挿絵本出版業者を指していたのは偶然ではない。写真製版が技術的に使用に耐える水準に達するのは19世紀末のことであり、18世紀から19世紀初頭においてイメージの複製技術の主流を占めていたのは、石版、銅版、鋼版だった。繊細な再現に優れていたこれらの技術に共通する問題点は、木版と違って凹版であったために、本文とは別に刷らなければならず、時間とコストが余計にかかったことである(それゆえ、一冊あたりに収録される挿絵数は多くない)。一方、「編集者」が出現した1830年半ばに急速に普及した木口木版は、従来の板目木版には不可能だった精緻な再現を可能にし、ここに挿絵本の黄金時代が幕を開ける。キュルメールが「編集者宣言」をした1839年に刊行を開始した『フランス人の自画像』は、こうして続々と生み出された「ロマン主義挿絵本」を代表する作品で、バルザックやデュマ、ゴーチエ等を含む複数の作家と挿絵画家が参加した集団制作本として、「編集者」のイニシアチヴを正当化したのであった。

挿絵なくして、キュルメールが「編集者」という新たな役割を自覚することはなかっただろう。近代文学は、こうしてその成立に当たって挿絵から少なからぬものを受けたにもかかわらず、それを抑圧することで自律性を達成することになる。近代文学が「文学ならざるもの」との間に取り結ぶ矛盾した関係は、挿絵にこそ露呈しているのだ。19世紀フランスの「文学場」の自立は、小説の覇権の確立と軌を一にしているが、この後者の過程で挿絵が果たした役割は決定的なものである。出自の定かではない卑しむべきジャンルとされてきた「小説」の地位が、18世紀において、ようやく向上の兆しを見せ始めたのは、読み物としての人気に釣り合う敬意ある扱いを、愛書家の珍重する挿絵版という形で受けた影響もあるのではないか、とクリストフ・マルタンは、18世紀の小説に付けられた挿絵を精選し、解説した著書の中で指摘している。さらに、マルタンの議論および分析の全体は、小説制作が挿絵に従属してしまうのではないかという一部の根強い警戒の念にもかかわらず、18世紀の小説作者が小説本文を補完する要素として挿絵の存在を自明視し、その制作に積極的に関与していた事実が小説の自律性という観念の成立に逆説的に寄与していた可能性をも示唆している。例えば、ルソーは自作『ヌーヴェル・エロイーズ』の挿絵を重視し、挿絵画家に細かい指示を与えていた。また、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌのように、ひとりの挿絵画家と組んで、その仕事を手取り足取り監督していた作家まで存在していた。こうしたことが可能であった背景には、小説がいわばせずにすませていることを挿絵に代行させるという前提があったからではないかというのである。一言でいえば、挿絵は描写の代わりとなっていたのであり、小説への描写の導入を挿絵が促したのではないか、という仮説をマルタンは提起する。小説には書かれていないが、その存在が暗黙の前提になっている要素を挿絵が垣間見せるのだとすれば、本文と挿絵に共通の指向対象としてひとつの自立した世界が存在し、少なくとも潜在的にはその構成要素すべてが言語化しうるはずだという信憑が構成されるに至るだろう。この観点から興味深い要素が登場人物の衣服である。18世紀の挿絵は、小説の舞台や時代背景に至って無頓着で、(……)対して、キュルメールが『ポールとヴィルジニー』の挿絵版で名を上げたことはすでに紹介したが、彼は事前に、小説の舞台となった土地やその時代の風俗を徹底的に調査したという。19世紀イギリスの小説家とその挿絵画家の軋轢はしばしば、小説本文にはあまり書かれていない衣装をめぐるものだったということも考え合わせると、小説が前提とするひとつの世界の一貫性と自律性が18世紀から19世紀に入って明らかに高まっている事情が窺える。

19世紀、木口木版による挿絵本の黄金時代に入ってもうひとつ変わったこと、それは、一作当たりの挿絵の数が飛躍的に増えたことであるが、個々の小説作品の成功とジャンル全体のプロモーションを後押しするという基本的な役割は変わらない。当初は古典に限定されていた挿絵は、『フランス人の自画像』等の集団制作本に中継されて、徐々に同時代の作家の小説にも進出していく。19世紀のいわゆる大作家は、ユゴーにしてもデュマにしても、バルザックにしてもゾラにしても、ほとんどの場合人気作家であって、ふんだんに挿絵が付けられることが珍しくなかった。その中にあって、ひときわ興味深い事例が、『海底二万里』『80日間世界一周』の作者ジュール・ヴェルヌとその編集者ピエール=ジュール・エッツェルの関係である。この二人は1862年に初めて出会い、以後、二人三脚的な共同作業を通して、数多くの冒険小説を出版し、それらは、地球の全表面の描写を目標に掲げる《驚異の旅》というシリーズにまとめられている。しかし、本来、挿絵入りシリーズに与えられた名前だった《驚異の旅》は、エッツェル版の挿絵なしにはそもそも書かれえなかったはずのものであり、挿絵はその不可分の要素をなしていた。1835年に悪漢小説の古典『ジル・ブラ―ス』の挿絵版を刊行して大当たりを取り、ロマン主義挿絵本ブームの口火を切ったジャン=バティスト・アレクサンドル・ポーランの元で丁稚として働き始めたエッツェルは、1840年には、『フランス人の自画像』をモデルに、風刺画家グランヴィルに挿絵を描かせた物語集『動物の公私生活情景』を刊行して斯界の注目を集めると共に、P=J・スタールという筆名に隠れて自らを執筆者の一人として起用した点で、キュルメールの提起した編集者モデルを一早く発展的に実践した人物であった。そのエッツェルが挿絵本出版者として編み出したノウハウを総動員し、編集者としての理想を実現した企画が《驚異の旅》だった。分冊による販売も含め、《驚異の旅》挿絵版の初版発行部数は2万部、分冊で買えば、挿絵なしの通常単行本と同じ値段(3フラン=現在の日本円で約3千円)で買えるという方式は、4スー版と軽蔑的に呼ばれた廉価版挿絵入り全集と基本原理が同じだが(ただ、《驚異の旅》は値段がほぼ二倍になっていて、質も各段に高い)、分冊がまとめられて有名なエッツェル版の装丁が施されると値段が倍に跳ね上がる仕掛けになっていた。装丁のこの象徴的不可価値を実現したのは自分たちの営業努力であるとエッツェルが考えたとしても不思議ではなく、実際、共作者としてヴェルヌの創作に積極的に介入していたエッツェルは、初期の出版契約では、《驚異の旅》挿絵版の利益を独占し、その半分に相当する通常単行本の利益をヴェルヌと折半する形を取っていた(エッツェルとヴェルヌの利益配分は、したがって、5対1となる)。ただ、エッツェルからこのことは口が裂けてもヴェルヌに面と向かってはいえない。いってしまったら、挿絵版の利益を折半しなければならなくなり、そうするとヴェルヌとエッツェルの共同作業のやり方自体が経済的に成り立たなくなっただろう。逆に、ヴェルヌも、エッツェルとのこうした関係を離れて書くというのはありえなかっただろうし、挿絵版の利益を折半したらエッツェルを共著者と認めなければならなくなる。お互いそれだけは避けたかったはずだ。かくして著者と編集者がお互いの象徴的な役割分担を守るという暗黙のルールが成立する。

ヴェルヌはまた、このシリーズを成り立たせるために、一年に通常単行本で2巻分の新作を書き続けなければならなかった。この分量は、毎年定期的に新作が刊行される挿絵版から逆算して決定されており、事実上、雑誌連載と通常単行本の後で最後に出る挿絵版が初版になっていた。最初から2万部刷られるものとして、挿絵と本文が一体になったものとして極めて具体的なイメージが決まっていたのである。いうまでもなく、まだ存在していない作品を2万部売らないといけないというのは大変なプレッシャーとなる。エッツェルの役割というのは、このプレッシャーをヴェルヌに伝えて、エッツェルが思うような挿絵と本文の一体性を実現することだった。そのために一番効果的な方法は、最後に販売されるという順序は変えずに、挿絵版を現実には最初に準備してしまうことだが(……)この手順は、出版社にとってやはりリスクの大きいものだったと見え、1871年の普仏戦争でエッツェル社が陥った経営危機が『八十日間世界一周』の大当たりで乗り切られた後、ようやく採用されたのである。同時に出版契約が更新され(……)軽々しい断定は慎まねばならないが、折半されていた通常単行本の利益がすべてヴェルヌに、挿絵版のそれはすべてエッツェルに行く計算になったのではないかと想定したくなる。ヴェルヌが、収入増と引き換えに、この契約が結ばれた時に完成していた『神秘の島』以前のすべての作品の挿絵版の権利を最終的に放棄させられるという代償を払わなければならなかった事実は、この分の利益をすでに独占し、実質的にエッツェルの所有物であったものが契約の上でも明記され、本文はヴェルヌ、挿絵はエッツェルという分割が確定したことを意味するのではないか。

(p.67-71)

《驚異の旅》出版をめぐるエッツェルとヴェルヌのこの極めて興味深い関係については、同じ石橋氏の著書『〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険 ジュール・ヴェルヌとピエール=ジュール・エッツェル』(左右社、2013)にまとめられているようである。読みたいが、今はあえてそれに手を出さずに、『表象』掲載の論考を読み進める。短い論考であるから全文を引用することも困難ではないし、細部も興味深いので全文引用したい気持ちがふつふつと湧くのではあるけれども、全文引用してしまうと、ひょっとしたら著者の将来の経済的利益を損なうようなことが幾ばくかないとも限らないので、あえて何カ所かに省略を入れた。また、註釈もここに引用はしないので、註釈込みで全文を読みたいむきには『表象』を入手するか、あるいは上記著書を購入することを勧める。

さてこのエッツェルとヴェルヌの関係は、一方では、月刊誌の刊行期日から逆算して締切が設けられ、その締切までになんとか脱稿すべく著者が齷齪し、そして大抵間に合わずに編集者がヤキモキするという、いつからか極めて人口に膾炙した麗しきステレオタイプの原型であるといえるだろうし、他方また、著作権と利益配分をめぐる編集者と著者の暗闘の極めて華麗なる事例であるともいえるだろうが、ここで問題にされているのは、そうしたステレオタイプの原型がここにあったということではなく、両者のこの華麗なる暗闘そのものにおいてこそ「文学場」は成立しているということである。原稿用紙を何枚も何十枚も無駄にしてはクシャクシャに丸めて投げ捨て、頭を掻きむしりながら「書けない……」と呻く著者VSなんとかしてくださいよ、その気になりゃ何だって書けるでしょう、今月号が出せなかったらもうシリーズは終わりなんだ、会社も潰れて一家離散だ、印税がなくなりゃアンタだって困るだろうと泣き落としにかかる編集者―「印税が何だ会社が何だ、俗物のガリガリ亡者め、痩せても枯れてもオレは作家だ、金輪際妥協なんかしたくないんだ!」「ああ、ああ、ご立派なキレイ事をいくら並べたって、インスピレーションもオマンマも降ってきやしないんだよ、世間知らずの坊ちゃん先生、そうやって無駄に屑籠の餌にしてるクソッタレ原稿用紙だって誰のおかげで買えてると思ってんだよ!」「うるせえこのタコ、失せろ出ていけ、原稿用紙なんぞ返してやら、ペンもだ、そら持ってけ二度と来るな、ペンがなくたって紙がなくたって、石に齧りついても傑作を書いてみせらあ」「へっ、傑作どころか歯が欠けるばっかりだろうぜ、え、そんときにまた泣きついてきたって知らねえからな!」―というような諍いは一見、「文学(性)」VS「文学ならざるもの」との果てしない闘い、「文学」が「…ならざるもの」に対して挑む果敢で英雄的な闘いに見えるし、聖人伝ならぬ作家伝においてはまさにそのような闘いの一環として時にコミカルに語られ愛されてもきたのだが、ここでの文脈に沿って考えるならば、「文学性」はべつだん、頭を掻きむしりながら作家が書く小説そのものにおいて厳然とあらかじめ存在するわけではなく、編集者の前で作家が頭をかきむしってみせるまさしくその「身振り」においてこそ保証されるのだということになる。身も蓋もない言い方をするならば、このような編集者VS著者の闘いそれ自体がそもそもマッチポンプであって、この闘いの「身振り」が顕示されることにおいて、著者が書く(であろう)ものにおける「文学性」なるものが、あたかもそのようなものが元来あるかのように、仮構されるのだ。

ヴェルヌ作品は、挿絵との関係において、「著者」と「編集者」の役割を生成過程で制度化し、「文学場」で進行していた事態を再演していた。ヴェルヌとエッツェルの文学史的に例を見ない共同作業を可能にしたメカニズムがそこにはあった。エッツェルは、本文と挿絵の一体性を作り出そうとし、ヴェルヌの作品が後世に残るとすれば、それはテクストが物質的条件から解放されるという通常の形ではなく、挿絵と一緒に、あるいは挿絵の助けで残るだろう、と考えていた。現在もヴェルヌが読まれている事実は、この考えの正しさを証明しているのはもちろん、近代における文学概念の再考をも促しているように思われる。文学の自律性は、挿絵の抑圧を俟って、しかもその抑圧の事実が忘れられた時に、初めて完成したといえるからである。

(p.71)

「作品が後世に残るとすれば、テクストが物質的条件から解放されるという通常の形ではなく(……)」という箇所には、若干の留保をつけておく必要がある。テクストが「物質的条件から解放される」形で「後世に残る」というのは、いわゆるピュアテクストないしシンプルテクストという考え方を指すだろうが、ピュアテクストとはつまり、ある作品が手書き原稿の形で完成されたとして、その手書き原稿が印刷に付されて単行本となっても、またその単行本がコピー綴じになっても、またやがて文庫版になっても、それら冊子に載っている「〇〇」という作品そのものには変化がない(はずだ)と考えられてきたところの、その無変化の部分のことであると言ってよいだろう。印刷形態・冊子形態あるいは組版デザイン、要するに「編集者」の管轄であるような部分がどうであろうと関係なく「作品は永遠だ」と唱えられるようなときに「永遠」だとみなされてきた「テクスト」のことを「ピュアテクスト」と呼んだりする、そういう考えかたがいつから「通常」になったのかは、それなりに考証の必要のあることである。石橋氏の他の著作をはじめ、書物史をめぐる多くの碩学たちの書物を多々読めばどこかにはそういうことが書いてあるに違いないが、おそらくそれほど新しい考えかたではない、古くからある考え方であったろうとは推察される。単純な話、そのような考え方がもし一切なかったならば、かつての信仰深い時代において聖書の筆写などということが盛んに行われたはずはないからである。それに対して、作品が「後世に残るとすれば」「挿絵と一緒に、あるいは挿絵の助けで残るだろう」と考えたエッツェルは、無言のうちに、「後世に残る」「文学性」すなわち文学的価値は「著者」の領域にだけではなく「編集者」の領域にもその多大な一端があると主張していたのであり、みずから「編集者」としてヴェルヌを「著者」に任命して、「その営為を文学性あるものと認める」儀礼として「著作権」を認定しながら、返す刀でその「著作権」の一端を自らの側に取り戻そうとする、そのような「身振り」を展開していたのである。そして例えばヴェルヌが「挿絵版の権利を最終的に放棄させられるという代償を払」うことで初めて「本文はヴェルヌ、挿絵はエッツェルという分割が確定した」とき、そこで確定した「分割」はおそらく、即物的な経済的利益の分割である以上に「著作権」と(いわば)「編集権」の分割なのであった。しかし「編集権」という語はいまだに耳慣れないものである。上の引用の最後にある、「文学の自律性は、挿絵の抑圧を俟って、しかもその抑圧の事実が忘れられた時に、初めて完成したといえる」という文言の中の「挿絵」は、(論考の最後に言及されるが)おそらく「編集」と呼び替えてもよいのだ。すなわち、「著作権」と「編集権」の分離分割は、エッツェルの活躍にも拘わらず最終的には「編集権」の抑圧につながり、この抑圧が、「著作権」をやがて固陋で生気のない、こわばったものにした。

挿絵の抑圧は、ある意味で文学史の裏舞台を担った《驚異の旅》とほぼ平行して表舞台で進んでいた。小説の自律性を強化する描写の重要性の高まりによって、多すぎる挿絵は次第に本文とトートロジーになっていくだけではない。小説がそれだけで評価されるべき価値を持つものだという社会的な了解が成立するに従って、挿絵は、原作との関係を抜きにそれだけで評価できないと同時に、原作の受容のされ方を決定してしまうような強い影響力を時として持ちうるという二重性ゆえに、次第に文学の世界から排斥されるようになる。(……)今日われわれが文学という語で漠然と了解する概念の内容はほとんどフロベールから来ているといっていいが、挿絵が一般的な趨勢に対する例外的に明確な意義を唱えたのも、やはり『ボヴァリー夫人』の作者であった。ヴェルヌとエッツェルが出会った1862年のことである。

断じて、私の目の黒いうちは、私の本に挿絵など付けさせない。なぜなら、最も美しい文学的描写が最低の挿絵に貪り食われてしまうからだ。一つの類型を絵筆が定着させてしまったら最後、それは一般性という性格、読者をして「それなら見たことがあるぞ」とか「そうに違いない」とかいわせる、無数の個物との間の一致を失ってしまう。挿絵に描かれた一人の女は要するに一人の女にしか似ていない。アイデアはそこで閉じてしまって完結し、文章など不要になる。文章で書かれた一人の女は千もの女を夢見させるというのに。それゆえ、ことは美学上の問題であって、私はきっぱりといかなる挿絵をも拒否する。(ジュール・デュプラン宛てギュスターブ・フロベール書簡、1862年6月12日)

ここには今日に至る挿絵否定論、ひいてはイメージ化一般に対する否定的感情の要素がほぼ出揃っているといえるだろう。最初に本文が挿絵に「貪り食われる」とあるが、これは読者の注意を挿絵が奪うことに対する作者の強い警戒心を表している。イメージの可視性がテクストの可読性を脅かすという関係にあるように、フロベールにおける可読性が極めて脆弱なのは、それが描写を筆頭に、知的努力(つまり積極的参加)を読者に要求するからである。フロベールのいう「アイデア」というのは、プラトン的な「イデア」とは異なり、一般性によって読者に働きかけるもので、そこには多分に不確定の要素が含まれている。読書行為論を練り上げたヴォルフガング・イーザーが文学における「空白」の重要性を強調している通り、そこにこそ読者の参加の余地があるということだ。そして、読者の参加は、読者の個別的な記憶、つまり、極めて個別具体的であると同時に、絶えず変動している多様性とその一般性が結びつくことで行われる。挿絵が問題になるのは、読者の側の多様性を凝集させる類型という一般性が、個別性に堕してしまうからだと要約できる。

(p.71-72)

キュルメールの「編集者宣言」に対してこちらはフロベールによる「(作家、という意味での)文学者宣言」であると言えようが、重要なことはたぶん、前者が1836年に打ち上げられてからおよそ30年後に後者がしたためられているということだ―いやむろん、後者は直接には「編集」を相手にもの申しているのではなくあくまでも「挿絵」に対してもの申しているのであって、両「宣言」はダイレクトに相対峙する位置づけにあるわけではないのだが、それでも、西洋における(あるいは、フランスにおける、と言うべきかもしれないが)「文学の自立性/自律性」獲得の運動は、やはり、自らの頭を押さえているものを撥ね退けて制度から脱却し、制度そのものを更新しようとする革命志向の独立運動として行われたのであるようだ。そして興味深いのは、「一般性という性格」「無数の個物との間の一致」あるいは「多分に不確定の要素が含まれている」などの文言から、冒頭のほうに出てきた「無限定の読者」という言葉がふたたび呼び出されるのを覚える点である。「読者の個別的な記憶、つまり、極めて個別具体的であると同時に、絶えず変動している多様性」と「読者に働きかける」「一般性」が「結びつくことで行われる」「読者の参加」が強く要請されるようになったこと自体が、出版の「資本主義化」、すなわちテクストが「市場」に出たことの結果だったのではないのだろうか。「フロベールのいう「アイデア」」と「プラトン的な「イデア」」の違いは、ひょっとしたらそのまま「近代文学の著者」と「文人」の違いと相似形なのかもしれないと思ったりする。「ことは美学的な問題であって」とフロベールは言うのだが、それもやはり本当のところは建前であって、ことは、むろん美学的な問題でもあったにせよ、同時にやはり本来的に市場の問題でもあったのである。

ただ、フロベール自身、具体的なイメージ―絵画や挿絵―から発想して描写を展開させることがあったように、19世紀には、文章とイメージの間にライヴァル関係があって、文学者はイメージ、特に絵画に深く魅惑され、それに対する嫉妬が創作の原動力となっていたケースが、ボードレールを初めとして、少なからずあった。逆にいえば、小説が文学として独立を勝ち取る際に、自身をイメージではないものとして強調する必要があったのは、イメージが最大のライヴァルだったからであり、両者が相似た美的体験の領域に関わっているという前提が暗に認められていたからだともいえる。両者は共有しているものがあり、その共有部分に強く働きかける作品が逆説的にも文学として独自性を発揮し、したがって同時にイメージ化の欲望を喚起するがゆえに、それは抑圧されなければならないのではないか。

文学の純粋化に対する作者の側のこうした欲望が社会的にも認知されたのは、フロベールを引き継いだ20世紀文学が言語にしかできない可能性の追求を押し進めていったことが大きいとはいえ、同時に、技術的進歩が果たした役割も当然ながら考慮する必要がある。挿絵が担っていたものは、漫画なり映画なりテレビなりといった他の視覚メディアに吸収されて、市場における活字メディアと視覚メディアの棲み分けが進んだのではないか。いずれにせよ、エンターテイメント小説も含めた文学全体から挿絵が完全に追放されたことが、その自律性完成を示す大きな指標のひとつであるのは間違いない。

(p.72-73)

イメージimage すなわち「視覚的な像」一般と、イメージ化imagenationすなわち原義における「想/創像」ということに関してはまた別稿を立てて学ぶ予定だが、ここでいう「イメージ」とはひとまずは、実際に目に見える形で描きあらわされた像、を指すようである。「絵画や挿絵」すなわち実際に視覚化された像があると、読者の脳裏における自在な「想/創像」を妨げる。しかしまた他方では、実際に視覚化された像が、個々人の脳裏における「想/創像」をより豊かに誘発することもしばしばであり、ロマン主義から自然主義あるいは写実主義への流れのなかで、克明に「像」を描き出すことに腐心する小説と絵画とが「最大のライヴァル」関係を結ぶに至ったのは不思議のないことのようだが、ここでもむしろ事の核心は、あらかじめ小説と絵画というライヴァルがあったのではなく、小説は絵画という遥か年長の先達の助けを借りて成長し、絵画の背中を見ながら「創像」力すなわち描写力を次第に蓄えるうちに、やがて絵画にとってあなどれぬライヴァルとなり、ついにはこれを蹴落として独り立ちせんとする、その目ざましいプロセスのほうにある。それは石橋氏の著書のタイトルにあるようにまさにひとつの「驚異の旅」でもあり「出版をめぐる冒険」の物語であるといえるのだろう。絵画の側からすれば、庇を貸して母屋を取られる、あるいはカッコウに巣をのっとられたムクドリ、あるいは、慈しみ育てた乾分から手ひどい裏切りを被ったような、索漠たるものがあったかもしれない。石橋氏のこの論考には書かれていないことで私が気になるのは、エッツェルの傘下にあった挿絵画家たちがどういう立ち位置でどういう仕事のしかたをしていたのか、挿絵が「抑圧」されてしまった後で彼らがどうなったのか、である。そういうことを調べて書いてくれている本は、これまたそれはそれできっと様々あるのだろうが―ゴーチエが「芸術のための芸術」を標語に唱え、美術アカデミーが絶大な力を奮う時代にあって、挿絵画家というものは決して地位の高い職業ではなかったし、よほど著名な人をのぞいては、一枚いくらの職人扱いであったのが、挿絵市場の縮小に伴って間違いなく大量失職したはずである。私事になるが、2000年代に入った直後に私が居を構えた町には運転免許場があって、自宅から歩いて5分のその免許場に面した道路沿いには、何十軒もの小さな写真屋が文字通り軒を連ねていた。ターゲットはむろん運転免許証用の写真を撮るために引きもきらず訪れる客たちである。ところが2010年になんなんとするころ、正確な年代は忘れたけれども、スマホなるものがだんだんと普及して、誰もが容易に「自撮り」で写真を作成できる時代が訪れると同時に、一夜にしてとは言わないまでも、あるとき本当にアッという間に、何十軒もあった写真店が一斉に掻き消えてしまったのだった。今やその痕跡すら残っていない。19世紀が暮れゆくころの挿絵画家たちに思いを馳せるたびに私はあれらの写真店のことを想起させられずにはいない。「挿絵が担っていたもの」はむろん小説本におけるそれだけではなく、新聞、雑誌、パンフレット、さまざまなメディアにおけるそれもあって、それぞれに大きな役割を果たしていたが、「文学場」から追放されるころには、雑誌や新聞や広告などの「場」においても挿絵の出番はどんどん少なくなっていった。「技術的進歩が果たした役割も当然ながら考慮する必要がある」のはむしろこちらの方面においてであって、要は、写真というものが発明されたからである。上のほうの引用にあるように「写真製版が技術的に使用に耐える水準に達するのは19世紀末」であったが、水準に達するやいなや、写真はすみやかに挿絵に取ってかわっていった―しかしそれはまた別の文脈の話になるだろう。「漫画なり映画なりテレビなりといった他の視覚メディア」と「文学」との関係はどうかといえば、それはそれでまた全く別の話に流れていくことになろうから、ここではそちらへは踏み込まず、「編集者」の話に戻ろう。

こうした挿絵の抑圧の延長線上に、「編集者」の抑圧=消滅があるといえば、強弁にすぎるだろう。しかしながら、この自律性が制度として自明であるかのように受け取られる時、それがそもそも「文学ならざるもの」という「他なるもの」との緊張関係の上に成り立っていたことが忘れられる。おそらく文学の衰退はそこから始まるのであって、同様に、「編集者」抜きで自律した「著作権」は、「他なるもの」との関係を失って、単なる「所有権」になり、経済原理に抵抗する力を奪われる。それは、既得権として、惰性的に保守される制度でしかなく、現状のまま今後も維持されうるとはとても思えない。〈文学〉のメタモルフォーゼが今後ありえ、あるいは現に進行しつつあるとすれば、「他なるもの」との関係をなんらかの形で回復することでしかありえないからである。

(p.73)

必ずしも「強弁にすぎる」とは思わない。エッツェルとヴェルヌの話は、「挿絵と文学の関係」を語るエピソードであると同時に、「編集者と著者」の関係を語るエピソードでもあるからである。「文学の純粋化」への「作者の側の」「欲望」は、つきつめて言えばピュアテクストへの志向であり、テクストをして、他の何物にも拠ることなく屹立せしめたいという欲望、すなわちテクストに介入しようとする「他なるもの」を一切排せんとする欲求であろうから、その欲望は、ひとり挿絵を拒絶するにとどまらず、「他なるもの」の全て、そして、「他なるもの」を以てテクストに介入しようとするあらゆる営為をも拒絶するベクトルを持っているはずであり、その「他なるもの」には、究極的には、組版、印刷、ページレイアウト、ブックデザイン、さらには販促プラン等々、「編集者」の職掌に属するあらゆる営為、「市場」と「文学」を橋渡しするあらゆる営為が含まれる。そのことは必然的に、「編集者」による「任命」、「著作権」付与の儀礼契約そのものを拒絶することへと向かうだろう。この「欲望」がすなわち、「日に陰に文学に」「つきまとっているように思われ」るというところの「「著作権」など嘘ではないか、と暴く欲望」に他ならなかったのであり、みずからが親のくびきを断ち切って独立するために「文学の側」こそが「その欲望を必要として」いたということなのだ。その欲望に駆り立てられて独立宣言をし、「編集者」をも、「編集者」による承認儀式をも果敢に振り捨てるとき、それはしかし逆説的に、この論考で述べられてきた意味における「文学」の放棄に他ならない。それでも社会慣習としての著作権は相変わらず残るときに、それはすでに「単なる「所有権」」、「既得権として、惰性的に保守される制度でしか」ないというのは、まことに首肯されることであり、ヴェルヌとエッツェルがさんざんやりあっていた頃、「著作権」とは「経済原理に抵抗する身振り」において「文学」を成立せしめるための装置であったものが、「抵抗」のパンチを受け止めるサンドバッグあるいはジムトレーナーの役割を果たしてくれていた「編集者」がいなくなれば、単に経済原理に便乗して所得を得るための道具にすぎなくなる―まあ実際に、おおよそそのようなことになっていると言ってもおそらく過言ではないだろう。あたかも、文学は「他なるもの」から屹立して独自の「文学性」という価値を持つがゆえに、それを生産する者は当然報酬を約束される、かのように語られ、そのような意味で「著作権」が理解されひたすら利用されるとき、「おそらく文学の衰退はそこから始まる」というのだが、そうであればその「衰退」はとうの昔に始まっているのであろう。

以前、「かかりつけ」の編集者とやはりミステリの話をしていて、今時どういう動機の殺人事件にすれば面白く斬新なミステリができるだろうかという下らない話になったことがあった。あれこれとアイディアを語り合ううちに私が「最高の追悼文が書きたいという理由で、尊敬する知己を殺す文章家の話」はどうかと言うと、「それならむしろ」と編集者は答えた、「最高の追悼文を担当作家に書かせるために、その作家が敬愛する人を殺す編集者の話のほうがもっと面白い」と。私は手をうって満腔の賛意を表明した、そして、いつかきっとそういうミステリを書こうと思っていたのだが。そんな可憐な編集者が今の世のどこになお生き残っているだろうか。

かくいう私自身、すでに「編集者」への未練を断ち切って、ウェブ上においてみずからの編集者を兼ねる振舞いに出でて久しい。私の(潜在的な)「著作権」が、「他なるものとの緊張関係を失って、単なる所有権にな」ったりすることを回避するには、どうしたらよいだろうか。「他なるもの」すなわち、世俗のあまたの要請を私のテクストにつきつけながら、つきつけることでテクストを育ててくれるもの、そして、私のテクストにおいてではなく、つきつけられたそれに対して抵抗の身振りがなされることにおいて「文学性」が成立する、そのようなものは果たして何かといえば、「文章VS挿絵」という文脈で考えるならばひとまずそれは疑いもなく、「先達」であるところの紙の書物であるわけである。小説が挿絵に憧れ、挿絵によって育てられてやがてそれから離脱するように、テクストは紙の本から次第に離脱していこうとするのだろう。しかしながら、それだけであればその先に待つのはやはり「衰退」でしかないとすれば? 今や「広い道」となってしまったウェブ公開という安易な道を選んで「衰退」をたどることを潔しとしないなら、どこかの隘路を探して辿るほかはない。狭き道の先にこそ、「編集者」に代わる新たな「他なるもの」の代理人が待ち受けてくれているかもしれないのだ。世の中の「無限定の読者」の要請をきりもなく伝達してよこし、テクストに制約をかけ妥協を強い、それに抵抗しつつ結局は妥協するその繰り返しにおいて生産されようとするテクストに形を与えることで、それを世の中に在らしめ、そうすることで、それが世の中に在ってよいという承認を事後的にであれ与えてくれる権能者、それはおそらく、他ならぬコンピュータ・プログラムであり、プログラミング言語であり、サーバーであり、通信環境である。コンピュータがあり、OSがはたらき、幾多のアプリケーションが作動し、スクリプトを読み込み、HTML+CSSを読み取って「ページ」とその上のテクストを表示してくれる、かたやサーバーがあり、「無限定の」ユーザーからウェブサイトへのアクセスを可能にする。コンピュータの生産という至極物理的な段階を含め、一連のプロセスにわずかでもバグがあれば、どんなに立派なテクストを書こうともそれが読者の目の前に表示されることはないのであり、PCを整えたりサーバーを借りたりするにもいちいちそれなりの費用がかかるということもひっくるめて、ひとり屹立しようという欲望になお突き動かされずにはいないテクストに対して、ままならぬ世間の要請をつきつけてくるこれらのプロセスの総体が、新たなる「編集者」の職掌に当たるのだ。ウェブ上にテクストを公開するにあたり私が自分自身の編集者になる、ということがあるとすれば、それは単にテクスト自体の良しあしを測ることを意味するのではなく、これらのプロセスの全体といわずとも多くの部分をみずから掌握するということを意味する。それはとても困難なことだろうし、そうして自分で自分を「任命」したとしてその印として私が獲得するものが「著作権」でないとすれば何なのかは、現時点ではあまりよくはわからない。私はプログラミング言語を操ることはできないが、せめてHTMLは自分で書きたいし最低限のページ制御くらいはこなしたいと思って努力するのは、その努力の代償として自らのテクストに「文学性」を仮構したいためなのだろうか? あるいはまた翻って考えるに、世にいうウェブデザイナーという職種の人びとが全て「編集者」に代わる者かといえば、おそらく決してそうではない。通常ウェブデザイナーは、テクストを生産し公開したいと考える書き手の側がクライアントとなって仕事を依頼あるいは雇用するものであって、いかなる意味においても、クライアントを何かに「任命」する権能を持ちはしないからである。他方ウェブ雑誌というものはむろんあり、それを編集する編集者というものがむろんあるが、その職掌は旧来の編集者と何ら変わりがないのが普通である。旧来の「編集者」に代わる者としては、私にはやはり上記のような非人称的な「プロセス」自体しか思いつかないのだが、思うに、私がこのサイトにおいて表示画面には私の名を出さず、HTMLファイルにのみ署名しているのは、「衰退」が何らかのかたちで乗り越えられていくとすればその際にキイとなるのは表示されるテクストではなく、それを表示するために読み込まれるファイル、及びその読み込みのほうだという予感があるからである。いずれは、非人称的プロセスに仮想の人称性を伴ったところのAI編集者のようなものが登場するのかもしれないけれども、それがどのような権能を持つことになるのか、その権能によって保証を与えられるものが果たしてなお「文学性」という言葉で言い表されるようなものなのかどうか、今はまだわからない。だが、石橋氏が最後にそこだけ特別に〈〉でくくっている〈文学〉とは、きっと、今はまだ具体的にどういうものかわからないところの、そのようなものであるに違いないと思うのである。

2020.10.15

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