Litterae Universales / Scriptorium

普遍言語への見果てぬ夢 (J.ノウルソン『英仏普遍言語計画』に基づく)

1 概観―身につまされる話から、汎知の言語をめざすに至る

litterae universalesというのをあえて日本語に訳せば、さだめし「普遍文字列」とでもなるだろう。普遍学といえば、デカルトが提起してライプニッツが実践したということにおおよそなっているらしいが、それかあらぬか17世紀には、「普遍○○」というタイトルの本が山のように出回った。長く待たれていたアタナシウス・キルヒャー『普遍音楽 musica universalis』の邦訳が2013年に出たときの嬉しさはなお私の記憶に新しいが、これなども当時汎ヨーロッパ的に隆盛を極めていた「世界総覧」ムーヴメントの大いなる一環であるといえる。

「普遍言語」は通常lingua universalis と書かれることが多く、これに対すればlitterae universalesはまさしく「普遍文字」、英語にすれば universal charactersになる。普遍文字を用いた普遍言語の開発、それは当時、世界中のあらゆる事象を記述しようとするにあたり誰もが共通して用いることのできる記述様式の開発プロジェクト、として広く取り組まれていたテーマなのであった。ユニヴァーサルに通用する人工言語を開発したいという思いは現在にも脈々と受け継がれていて、有名なエスペラントにしても、知る人ぞ知る「ロジバン」にしても、世界中の誰もが、母国語が何であるかに関わりなく容易に修得して用いることのできる共通言語を作りたいという意図のもとに開発され、今なおシンパの人々によって絶えず改良がくわえられている。だが、ジェイムス・ノウルソン『英仏普遍言語計画』(浜口稔訳、工作舎、1993)によれば、17世紀から18世紀にかけて数々試みられた人工言語構築の根本にある論理も「主張も、比較的近年に作成された諸言語の主張とは似ても似つかぬもの」(p.12)であったという。この本の序文にはこうある―「わたしが望むのは、17世紀と18世紀の観念史に関心を寄せる読者が、当時の学者らが重視し没頭していた事柄と普遍言語との関係を、とりわけ知識の進歩を何よりも重視し心傾けていた事実と普遍言語との関係を、まず第一に考察しようと試みる書物は興味深くも妥当なものだと考えていただくようになることである」(p.15)。まさしくその望みの通り、私は一読してこの書物が「興味深くも妥当なもの」だと考えてしまったので、しばらくこの本の記述に従って、17世紀の普遍的人工言語開発という見果てぬ夢がどのように見られ、どのように雨散霧消していったかについて学ぶ緒としたいと思う。

さて16世紀から17世紀にかけてこの種の人工言語開発プロジェクトが西欧でことさら盛んになっていった理由として、ノウルソンは以下のようなことどもを挙げている(第1章)

  1. 地理上の発見・大航海時代を経て、非ヨーロッパ圏の人々と交流する必要に迫られ、「ヨーロッパlitteratura共同体」の共通語であるラテン語だけでは済まないという感覚が広く持たれるようになった。
  2. 時同じくして、イエズス会を初めとする各派教会勢力が盛んに東洋へ出張して精力的な布教活動を展開しており、伝道の必要性からも、易しい共通言語があるといいという願望が強く持たれた。
  3. 「バベルの呪いの解除」への希求。宗教改革前後からの教会分断をのりこえて再度教会を再統合し、(太古の)宗教的調和を回復したいという願望が持たれていた。
  4. 当時の哲学において盛んに議論されていた命名論からの展開。アダムが最初にものの名前をつけたときには、神からの贈り物としての「名前」と、その名前をもらった事物の本質とは、互いにしっくりと調和していたはずであるのに、現在はものの本質と名前の対応がいい加減でごちゃごちゃになってしまっている、という認識から、ものにも事象にも、改めて本質に対応した名をつけ、ものごとを正しく混乱なく語るための言葉とそのシステムが必要だ、と考える人が多くおり、諸科学の進展につれて、この必要が増していった。
  5. ラテン語以外のさまざまな「土地言葉」(=各国言語、ヴァナキュラー)での学術活動が盛んになってきていたことのひとつの弊害として、国境横断的・領域横断的に(グローバルに)文の活動を行うためには、ラテン語と自国語のみならず他の言語もいろいろ学ばなくてはいけなくなってきた。
  6. ラテン語自体が古くて語彙・語法も少なくて不便だという感覚がひろまった。
  7. 中国語(漢字)との衝撃的な出会いによって、アルファベット言語とは全く違う共通言語がありうるのではないかという展望が開かれた。

これらのことはむろん個々別々に生じていたのではなく、同時に複合的な相互作用を以て生じていたし、ひとつひとつの項目においても種々さまざまな議論があったようである。これらの要因の中で2020年の私たちにとって最も卑近なレベルでわかりやすいのはおそらく5.および6.であろう。そもそもなにゆえに「土地言葉」が興隆に至ったのかについてはここでは措くとして、ともかくも英語だのドイツ語だのフランス語だのという、今でいうところの「各国言語」でものを書く人が増えてきたことによって、およそ学者たる者、ラテン語さえ習得しておけばいつでも互いの書き物を読み合い議論することができるという麗しい学術共同体のありかたが危機に瀕しつつあったのである。例えばフランシス・ベーコンの『学問の進歩』とセルヴァンテスの『ドン・キホーテ』は同じ1605年に刊行されているが、前者は、英語で書かれた初めての本格的学術著作だといわれ、後者は近代小説の祖とされるスペイン語の著作である。評判の『ドン・キホーテ』を読みたければスペイン語を学ばねばならず、ベーコン師の学問論にさっそく触れたければ英語を学ばねばならず、学ぶ余裕がない場合には誰かが自国語なりラテン語なりに翻訳してくれるのを待つ他はなかったに違いないが、そうしたことは、このころにようやく頻々と生じるに至った、西洋としては比較的新しい現象であったのだ。

この広がりゆく問題へのひとつの可能な解決策は、当然ながら、学者は自国語とは別に数ヵ国語を習得していなくてはならない、というものであった。ところが、英国と大陸における教育の実情は古典語教育にしっかり根ざしたものであったので、実際的な解決を与えるためには、グラマー・スクールやコレージュや大学の大規模な教育改革が必要だったのである。現状に見る限り、とりわけ英国においては、個人教師や「大陸巡遊旅行」(1670年まではそういう言い方はなかった)は、当時の外国語に関する実際的な知識を獲得する唯一の手段であった。フランス人、スペイン人、イタリア人はお互いの言語に比較的親しんでいたが、英語に関する知識はこれらの国々ではまれであったし、ラテン語以外のいかなる言語によっても情報交換ができるくらい十分に数ヵ国語に熟達した科学者や学者は、ほとんどいなかったのである。ハートリブやハークやオルデンバーグのような国際派の「情報宣伝者」が17世紀中葉にかくも重要な役割を担うことができたのは、いくつか理由があるが、語学ができたことがその理由のひとつであったのだ。

とはいえ、複数言語の修得が、意思疎通の問題に対する非現実的なだけでなく歓迎すべからざる解決のように思われたのは、学校や大学のかたくなな古典的伝統だけのせいではなかった。17世紀の科学会は、その主要な特徴のひとつとして、「語」よりも「物」に重きをおく傾向にあったからである。そのような観点からすれば、ひとつではなく、ふたつ、三つ、それ以上の言語の習得に時間を費やさざるをえなくなるような解決を受け入れるなど、もってのほかであったのだ。

土地言葉の台頭によって生じた問題への二番目の解決は、実際普通に行われていたことだったが、はじめに土地言葉で書かれた本をラテン語になおしてから再出版することであった。そういうわけで、三つだけ有名な例を挙げるなら、ロバート・ボイルの諸著作、ロイヤル・ソサエティの『フィロソフィカル・トランザクション』、デカルトの『哲学原理』はすべて、ラテン語に翻訳されてから出版されたのである。サミュエル・ハートリブの当時未刊行の『日記』には、あまり有名でない土地言葉で初出版する著作の翻訳計画についてのおびただしい言及がある。先に引用したハーク宛の手紙のなかで、メルセンヌは、値打ちがあるならなんであれ「キリスト教ヨーロッパ言語共栄圏、すなわちラテン語圏」へと翻訳する使命をおびた15人から20人から成るアカデミーの施設を各王国に作ることを夢見た。ラテン語による再出版により、いくらかなりともその問題は解決されるようになったが、同時に新たな困難と不便をもたらした。すなわち、ある地域で知識が驚くべき速度で前進していると明らかに感じられても、さまざまな土地言葉で出版されたものを適切に把握しておくことがますます困難になるように思われ、重要な研究が看過されたり、最初の版が出て数年たってからようやく出版されたりしたのである。かくして翻訳や再出版は、かなりわずらわしい間に合わせ作業でしかないと思う人たちもいたのである。

その当時ヨーロッパの土地言葉のどれもが、ラテン語に代わる国際語としての地位に至るなど到底ありえないことのように思われたので―フランスにしても、17世紀の終わりになるまでこの栄に浴そうという正式の主張はしなかった―習得も使用も容易で、さらに規則的で、現存するどの言語よりも物質的実在の世界に酷似した完全に新しい人工的普遍言語を構築するという魅惑的な可能性が残っていたのである。

(p.48-50)

およそ海外の文物科学等を研究対象とし、各種文献を参照するような学術営為においては「とにかく原文を読めなければ話にならない」という現在の「常識」はこのあたりに端を発するとおぼしく、「ふたつ、三つ、それ以上の言語の習得に時間を費や」すことが当時の碩学諸氏にとってもそれなりに大変なことであったらしいと知るのは、いくばくかほのぼのと心休まることではある。今や(2020年時点)ありとあらゆる論文やら著書やらを英語で書け書け、グローバル言語で発信せよとの圧力が無暗やたらに強まっているのは、16-17世紀に起こっていた上のようなムーヴメントの今更ながらの揺り戻しという一面もあるのかもしれない。むろん英語であれ何であれ学術共通グローバル言語があれば便利には違いなかろうが、そういう「実際的な解決」が効を奏するためには「グラマー・スクールやコレージュや大学の大規模な教育改革が必要」であることもまた現代とそっくりであるのがいかにも身につまされる。そして、英語で発信せよと言われてもそうそう対応できない者のために「翻訳施設」でも作ろうかという流れがこれまた当時の顰に倣うともなく生じる一方、それもまた「かなりわずらわしい間に合わせ作業でしかないと思う人たちもい」るのもやはり確かであって、かくいう私もその一人であるのだが、かといって英語を自在に書きこなせるように修練したいという気もさらさらないのは、所詮英語といえども「土地言葉」のひとつにすぎず、「ラテン語に代わる国際語としての地位」に遅ればせながら取って代わるに値する、他言語に比べて特段に「普遍言語」たるにふさわしい性質を備えた優良言語だとも思わないからである。学術グローバル言語として英語と「ロジバン」とどちらかを選べと言われたら私はためらわずロジバンを選ぶだろう。ロジバンが果たして「習得も使用も容易で、さらに規則的で、現存するどの言語よりも物質的実在の世界に酷似した完全に新しい人工的普遍言語」になりうるかどうかはまことに怪しいにせよ、そこには少なくとも理念的に、わずかながら「魅惑的な可能性」がなお秘められているだろうからである。

ところが、普遍的文字の構想に好意的な雰囲気作りをしていくうえで、土地言葉の台頭以上に重要な要因がもうひとつあった。すなわち、言語一般への不満、とりわけ言語計画が盛んであった科学者や学者の世界を特徴づけていたラテン語という現存する国際語への不満が起こっていたのである。

16世紀から17世紀の初頭にかけて、ラテン語へ向けられていた批判は、ほとんどが例外なく、言語そのものではなく、主としてその言語の教育法にかかわるものであった。わずらわしくて、どちらかというと不首尾に終わる言語の習得に、あまりにも多くの時間が費やされているという議論が、ひんぱんに為されていたのである。こうした状況への非難は、たいていは直接文法家に向けられていた。その結果、その古典語をもっと効率よく教えるためのさまざまな方法が新たに提案されたのだった。エラスムスやビべスからこのかた、これら提案された改革は、たいていは「実際的な文法」へ向けて強調されたものであった。すなわち文法は、古典的作家の作品における言語研究への手短な初歩として教示するだけでよい。言語は会話や作文に用いるべきである。それは古代の言語で表現されていた「堅固なる物」に到達する手段として役立つべきである(……)といった勧告は(……)強調されていたことである。

はじめのうち、ラテン語教育のもっとも効率よい方法を見つけ出そうという関心の高まりは、ヨーロッパにおけるラテン語の地位を固めることでしかないように思われた。一方、努力を要し時間のかかる形式文法の学者の方法に苛立ちが募っていったのは、古代語が秘めていた知識へすみやかに近づこうという関心が大きくなっていたことの証左であったのだ。

(p.50-51)

ついでのことに、身につまされる話をもう少しだけ続けるならば、「わずらわしくて、どちらかというと不首尾に終わる言語の習得に、あまりにも多くの時間が費やされているという議論が、ひんぱんに為されて」いることもまた現代に通じる。ただしその批判は「古典語」へ向けてではなく、いわゆる語学教育というもの全般に対してここ十数年の間に徐々に強まりながら向けられてきたものであって、英語をも含めた外国語を「もっと効率よく教えるためのさまざまな方法が新たに提案」され、どしどしと実施されつつある現在である。「実際的な」語学教育へ向けて「強調され」ている改革とは、「文法を教える授業」をやめて四技能(読む・書く・話す・聴く)をまんべんなく習得させる授業へ転換せよというものであり、特に日本では、「読めても書けない、聴けない、話せない日本人」というステレオタイプから国民を脱却させるべく、上のほうのお歴々が涙ぐましい鞭をふるって教員どもを叱咤激励してやまぬ今日なのであった。それはそれでまことにもっともな努力である。授業の最初から最後まで教師が生徒に背を向けて何か文例を黒板に書きながらぶつぶつと説明をつぶやき続けるような授業では生徒が寝ないほうがおかしく、いかなる言語であれそれで習得できるはずがないだろう。こうした語学授業改革の努力は、一見、語学学習の重要性が現在いやましに強く認識されてきていることを示すようにも見える。しかしその一方、「努力を要し時間のかかる形式文法の」授業に対して「苛立ちが募って」きたのは、「各言語が秘めて」いる「知識へすみやかに近づこうという関心た大きくなって」いることの「証左」ではおそらく決してないところが、現代における語学改革の問題が17世紀のそれとは「似ても似つかぬもの」であるひとつの所以かと思われる。少なくとも日本における狂騒的とすら言っていいこの「語学改革」の最も主要な動機は、要するに、読むばかりで流暢な対話ができなければ各分野の国際競争を勝ち抜けない、自分の意見を「発信」しつつ「コミュニケーション」できなければ、他人の文ばかりいくら読めても役に立たず、置いていかれるばかりだというところにある。何でもすらすらと読める力をつけた上で毎日不断に読んでいさえすれば、現地へ行くなりしていざ必要に迫られるとなれば自然と会話もできるようになるものだと昔から言われてきたし、それは事実であると思うが、とはいえ、いざとなれば自然に喋れる程度にまで何でもすらすらと読めるようになるためには少なくとも数年は没入的に「読みかた」を学んで抜きんでた読解力を養う必要があるから、それではいかにも非効率的だ、読む以前に喋れ、というわけである。そういう意味では、「言語は会話や作文に用いるべきである」ということは文字通りにとれば現代の語学改革にも当てはまるかもしれないが、英語であれフランス語であれ中国語であれ、それが習得されたあかつきにはそれぞれの「言語で表現されている「堅固なる物」に到達する手段として役立つべきである」とは、現代では別に考えられてはいないようである。「言語で表現されている「堅固なる物」に到達する」とはどういうことなのか。最初に引用した部分の中に、「17世紀の科学会は、その主要な特徴のひとつとして、「語」よりも「物」に重きをおく傾向にあった」とあるが、これは平明に言えば例えば「りんご」という語よりも、その語によって指示される実物の、触れて食べられるりんご、に重きを置いていたということであり、言語というものを考えるときに、その言語によって世界をいかに記述するかよりも、記述されるべき世界はどのようなものであるか、に主眼が置かれていたということである。事物を指し示す言語よりも、言語によって指示される事物のほうがはるかに「堅固なる」ものとして、それこそが「堅固なる」ものであるとして考えられており、その堅固なる事物の世界に関する「知識」へ「すみやかに近づく」ためにこそ言語は学ばれねばならないというのだった。そしてその「知識」の獲得と共有への焦慮が一方ではラテン語習得の効率化をはからせ、一方では、誰もがいっそう容易にこの「知識」へ「近づく」ことができるようになるための共通言語の開発を夢見させたということなのだが、この希求のエネルギーを支えていたのはむろん、その「堅固なる」事物の世界はただひとつであり、真実その世界のことを知るならばその真実の知識もまたひとつであるはずだという信頼、あるいは信仰に他ならなかった。どんな土地でどんな言語を話している人々にとっても、本来、「世界」は同じひとつのものであるはずであって、単にそれを表象する道具としての言語が(バベル以降、遺憾にも)ばらばらに異なっているにすぎない、という、今から見れば極めて楽観的とも思える世界観があったのである。

17世紀中葉、コメニウスが提案した重要な言語改革は、語と、語の表示物とをもっと緊密に結びつけ、世界についての知識を獲得する手段として最初からラテン語を利用しようと、この展開をさらに推し進めたものであった。たとえば、彼はこんなふうに書いている。

とりわけ若いときの言語研究は、物の研究と結びついているべきである。すなわち、客観的世界と言語世界に精通すること、つまりは事実についての知識と、事実を表現する力とは、共に前進していくことになるのである。われわれが作り上げようとしているのは人間なのであって、オウムではないからである。……以上のことから、まず第一に、語は指示対象と切り離して学ばれるべきではないことが帰結する。それというのも、物はばらばらに存在するのではなく、また語なしでは理解されるものではなく、両方とも存在して、共に役割を果たすからである。

(……)コメニウスの教科書は実際、伝統的な文献学的訓練と新しい実験科学の要求を折衷する実際的方法を達成しようという努力であった。中世の学問言語は保持されるが、新しい使われ方をする。かくして「物の研究」は「語の研究」を手段にして可能になるのであって、両者の表向きの対立などないのである。

ラテン語はコメニウスの提案した教程に残っていたが、ひとつにはそれが(古代の知識についての百科全書が編纂されるときまで)古代の学問への鍵を提供したからであり、またひとつには現存する唯一の国際語としての役割を担っていたからである。ところがコメニウスは、ラテン語が後者の役割を担う理想的言語であるとは、考えてもいなかったのだ。ほかにもっとよい言語が見つからないうちは、現存する土地言葉よりはむしろラテン語を用いるべきであるとする点で、コメニウスはビべスと意見を同じくしていた。しかし、東の新世界、西の新世界の人びとと容易に意思疎通をはかる必要性を感じつつ、コメニウスは、ラテン語の使用はヨーロッパ人にはたいへんに好都合であるが、国際語の名に値する言語に備わっているべき完全性には欠けていると、異論を唱えたのであった。コメニウスにとって、ラテン語はいくつかの重要な点で欠陥があった(……)コメニウスは、先に論じた積極的な理由はもちろんであるが、こうした不完全性に対する反動として、人工の言語、すなわち「絶対的に新しく、絶対的にやさしく、絶対的に合理的な」人工言語が整備されることを心待ちにしていた。

(p.51-53。強調原文、以下同)

この「絶対的に合理的な」言語はまた「汎知の言語、普遍的な光の媒体」(p.23)とも言い換えられるようであり、ノウルソンによれば「コメニウスのいう汎知とは、「〈人間的全知〉の唯一の包括的体系」、つまりは神のもとで、われわれが知り、話し、操ることのできる万物を体系化したもの、と説明されるはずである。真に汎知の言語を定式化し、一般的に採用してはじめて、「今や粉々に砕け散った人類の連邦が復元され、単一の言語は世界に撮り戻され、神の栄光がまことに輝かしき方法により増大する」というのが、コメニウスの信念であった」という。上の引用で「先に論じた積極的な理由」とはこのあたりのことを指すだろうが、このように「汎知」とか、「神の栄光が増大する」などの語句が示唆する神秘主義的な考えかたが、当時の言語運動の「近代とは似ても似つかぬ」要素だったかというとしかし格別にそういうわけではなく、「言語計画者ら大多数の目的は、方向も熱意もコメニウスとは違ったものであった」(以下p.24)。彼らの目的は上の2.や3.の項目にあるように時に「地上のすべての国が通商を確立し〈キリスト教の信仰〉を植えつけるための一般的な道具」を獲得することであったり、時に「野蛮な国々を文明化」することであったりし、そうした目的の俗っぽさからいえば、現代においてしばしば大学が「世界ランキングにおける自身の位置を上昇させるために」英語発信力をひたすら高めようと齷齪するのとたいして変わらないかもしれないのだが、「それでも彼らの表向きの宗教的動機は科学的な目的に劣らず真摯なものであった、と考えなくてはならない。その科学的な目的については、とりわけ聖職者の多くが就いていた職分と、いわゆる科学的研究の宗教的特性なるもの、その両方の観点から、すなわち自然の世界は、多くの人にとって〈聖なる造物主〉の御業のさらなる顕現にほかならず、聖書という作品とは別に読み解かれるべき第二の書であるという観点から」この本のそこここで「考察」されており、それを見るに、諸学者それぞれの動機がどうあれ、普遍言語計画そのものを真摯に追及してゆくうちにおのずから、原初の一なる言語を理想とする一派も、新しい合理的な言語を開発しようとする一派も、どこそこ似たような腹案へとたどりつくらしいのであった。前者のまなざしははるかな過去の失われた理想へ向かい、後者のまなざしは過去の伝統を振り捨てて新しい未来へ向かっていた、という言い方もできるかもしれないが、両者のまなざしは至るところで混ざりあい、ないまぜになっていたらしい様相が、微に入り細を穿ったノウルソンの克明な、毛細血管を丁寧にたどるような迷宮的記述からたいへんよく伺われる。「両陣営とも関連のある路線を走っていることを意識してはいたが、志はかなり違っていた。それにもかかわらず、指示対象の本質の何がしかを伝える名から成る言語がかつて存在したという理想は、たとえその影響が否定的なものであっても、彼ら自身が意識していたよりもはるかに大きな影響を与えたかもしれないのである」(p.27)。両陣営、といっても碩学諸氏がすっぱりとふたつの陣営に分かれていたわけではなく、上に列挙したような個々の動機についても学者たちの間にはかなりの温度差があり、「自然の世界」なるものを純然と「科学的探究」の対象としようとするにせよ「〈聖なる造物主〉の御業の顕現」として捉えようとするにせよ、その「世界」がひとつのものであるという考えに変わりはなかった。無数の個別の事象が複合的に関連しあって形作っているところの、一なる世界を、いかなる民族であれ人間は共有しているのだという考え、そしてその「世界」をいかに記述するのが最も正しく適切であるか、その記述手段を、諸事物の本性本質に照らして綿密に開発しようという具体的なミッション自体は同じであったのである。近代の言語論と「似ても似つかぬ」様相はまずもってここにあるだろう。カント以前、ヒューム以前のこの時代にあっては、「物自体」が厳然として「堅固な」存在として疑われることなく認められていたのであり、世界は人間の認知と言語による文節とによって初めて個々人において成立する/ものや概念はそれ自体がまずあるのではなく、言語化によって初めてそのような枠組みのものとして認知される、というようなモダンな考えかたはまだおよそ知られていなかったのである。あくまでも「物」が先にあり、物の名前は、その物に貼られるラベルである。りんごやコップというような「事物」のみならず、「善」「正義」「徳」というような概念においてさえ根本的にそのように考えられていた。このラベリングがごちゃごちゃになっているのはよくないから、整理して、わかりやすく覚えやすく、使いやすくしよう―それが、ごく平明にいえば当時の「言語計画者」たちが共通に抱いていた抱負であった。

例えば、英語話者が「sun」と呼ぶものと漢字文化圏の者がしばしば「陽」と名づけているものは同じものである、sun = 陽、であって、このイコール部分をつないでいるのは「実物の」太陽である、そしてあらゆる単語に関してこの等式は(本来)成り立ちうるはずだという信仰があったわけで、それは無邪気な信仰としか言いようのないもののようではあっても、それなしでは異言語コミュニケーションがそもそも成り立ちようのないところの不可欠な信仰ではあっただろうし、今もある。実際にはむろんそれほど簡単なことではなく、ひとむかし前には有名な話として、西洋の子供はsunの絵を描くときとりあえず黄色いマルを描くが、日本の子供はお日様の絵を描くときにはとりあえず赤いマルを描く、というのがあった。今でもそうなのかどうかはわからないが、要するに西洋の子が考えるsun と、日本の子が考える「お日様」とは、それなりにけっこう別のものである(あった)らしいということなのだが、それでも「sun」と「陽」ないし「日」、「moon」と「月」が少なくとも一定程度便利な程度には互いに交換可能であることは確かだし、17世紀当時の言語計画者たちにとっては、sun と陽の微妙な差異よりも、それらの語が互いに交換可能である、がんばればコミュニケート可能である、ということのほうがまず大切なこと、どころか事態の根幹を支える理念であった。そして、こうした「微妙な差異」こそがバベルの呪いなのであるからそれらを綺麗に払拭しさえすれば、事物と言葉とがすんなりと一対一対応し、その対応が誰にとっても一目でわかるようになるだろう、堅固なる世界のただひとつの真正な事実を、ただひとつの真正な言語が指し示すという楽園的な言語状況をふたたび取り戻すことができるだろう、そうなれば翻って、混乱を極めているこの世界そのものも、よりいっそう堅固なものになるだろう

ノウルソンによれば、この網羅的一対一対応を工夫しようとするにあたり英仏の普遍言語学者にとって大きなヒントになったもののひとつが漢字である。16世紀に中国や極東に渡った宣教師たちが、漢字という表記システムについての報告を多くヨーロッパにもたらし、それが西洋のlitteratorたちに大きな衝撃を与えた。ひとつひとつのモノやイミに、ひとつひとつの漢字が対応している! しかも、音がわからなくてもこの視覚的記号を共有していればコミュニケーションできる! フランシス・ベーコンはその『学問の進歩』で、「文字や語ではなく物や概念を表現する真正の文字を用いる中国人」(p.30)に言及しているという。この「真正の文字」real character、真正文字という言葉は当時この言語計画の関係者の間では共通タームとなっていたとおぼしいが、「文字や語ではなく物や概念を表現する」とは、例えば「あめ」あるいは「アメ」というカナ表記は、直接にはあくまでも「あめ」と発音される「語」を指し示すにとどまる(したがってこの表記からだけでは、雨なのか飴なのか判別できない)が、「雨」という字は、「あめ」と発音される「語」というものを経由することなく直接に、空から時折大量に水滴の群れが振ってくるその現象を指し示す、ということであって、すなわち、文字が、「語」を媒介とすることなく直接に「物」と関係を取り結んでいるというのであり、これをre-alすなわち「もの‐っぽい」と称したのであるといえよう。こうした漢字のありかた(と当時理解された)が西洋のlitteratorたちにもたらした衝撃のひとつはすなわち、「必ずしも音声を経由しなくても言語とその表記は成立する」という「発見」に他ならない。いかに書記言語が洗練されて印刷も黙読も盛んになって「目の文化」全盛のように見えても、西洋はやはり根本のところで音声中心主義・耳の文化主義だったということを西洋自体が自認した瞬間であっただろう。こうした漢字理解そのものには多少の、あるいは多大な誤解があるだろうにせよ、その理解なり誤解なりが、アルファベットとは全く別の原理を用いたところで文字と物との一対一対応が工夫可能であるのかもしれないという新たな発想と期待をもたらしたことは確かだろう。そうしてあらゆる事物に、あらゆる概念に、またあらゆる事物どうし概念どうしの関係性などにも、固有で誤解しようのない、パッと見てわかる簡単な記号を振り当てていって、その記号群すなわち文字列をもって世界を網羅的に記述できるようにしようという、なんとも壮大な試みが汎ヨーロッパ的研究課題として大々的に取り組まれていたのだった。

2 楽園の言語、その事例、そして夢はどうなったか

上記のようにこの一対一対応は、例えば地上の全人類にとって太陽は同じひとつの太陽であるというような事物のレベルにおいてのみならず、抽象概念の理解のレベルにおいても適用がもくろまれた。たとえば「善」という概念があるとして、それと the good が指し示す概念は本来同じものであるはずということになるが、

(……)人は感覚を通して同じ概念を受け取るので、人と人のあいだから生じる違いは、概念そのものというよりはむしろ、概念に適用される語に由来するものである(……)この観点によると、万人が共有する概念は、人間理性を統合することで得られる。これは前世紀のネオ・プラトニズムに端を発し、デカルト主義的思想における地位によって、いっそうの権威と重要性を与えられた信念であった。一方、諸観念の起源に関する研究が基本的にアリストテレス的であろうがプラトン的であろうが、観念は誰にとっても同じであるというのは、広く容認されていたことであったのである。かくしてフーゴの示唆するところでは、万人に同意されるべき共通の記号を手段にして、これら普遍的な記号を満足なかたちで表現するにはどうしたらよいのか、それが問題となったのである。もしこれが実現すれば、そのときには万人がお互いの観念を理解し合うようになることが自信たっぷりに期待されていたし、言葉の諍いもなくなるであろうと(もちろん今となっては、ひどく太平楽な楽観に思われるが)主張されたのであった。ジョン・ウィルキンズは、この推論をさらに明快に表現して、こう書いた。「人間は概して同じ〈理性の原理〉で同意に達するのであるから、同じ内的概念もしくは事物の理解においても、同じように合意する。……それゆえ、もし同じような表現の方法あるいは方式があまねく受け入れられることになれば、同じ概念をもつ点では変わりないのであるから、そのときにはわれわれは、すべてに不幸な結末をもたらした、かの〈言葉の混乱〉という〈呪い〉から解き放たれることになるであろう」

(p.31-32)

「普遍的な記号を満足なかたちで表現」することが可能になれば「万人がお互いの観念を理解しあう」ようになり「言葉の諍いもなくなるであろう」というのが最終的に「ひどく太平楽な楽観」に思えるのは、ひとつには、「人と人のあいだから生じる違い」はそもそも「概念そのもの」の違いに由来するのだろうということが今やおおむね明らかになってしまっているからでもあるが、そうでなくとも、諸概念、すなわち、例えば具体的な事物に関する概念から高度に抽象的な概念まで、あまねく「合意」するにはどれだけの煩雑な手続きが必要になるかを考えてみただけでも、タスク処理という意味でそもそもこうした企図が「太平楽な楽観」であることは一目瞭然のように思われる。例えば「梅の実」は英語ではpflaumeだが、「あんず」も「すもも」も多くの場合pflaumeであるというときに、この「混乱」を整理して「合意」するためには、英語のpflaumeが指し示す事物の性質と「梅」「あんず」「すもも」がそれぞれ指し示す事物の性質を詳細に整理して分別し、どこからどこまでを「〇◎△」とするか、議論して決定しなくてはならないだろうし、その同じ作業を、知られた全言語間でやらねばならないだろう。ラテン語のvirtusと中国語の「徳」がそれぞれ指し示すものが互いにズレているとすれば、どこをどう調整すれば、正しく「∴▼△」と表記できるような概念になるのか。いやそれは「概念」自体が個々に異なると考えるから調整が必要だなどと思うのであり、あからじめvirtus=徳、だと考えていればそのような面倒は生じないのかもしれないが、いずれにせよ、「∴▼△」というような表記を、従来virtusという語で言い表されていたものごとに「正しく」re-alに当てるにはどうすればいいかを考える際には、そもそもラテン語のvirtusとはいかなるもので、いかなる要素から成り立っている概念であるかを「正しく」理解しなくてはならないわけだし、manという最も基盤的であろう語にしても、それが指し示すものは、animalが指し示すものとどう異なっているのかを「正しく」把握しなくてはならないだろう。ひとくちにいえば、「真正の」文字表記や文法システムすなわち言い換えれば、全世界の構成要素を正確に着々とラベリングするための秩序だった平易なシステム、を考案するに先立って、この世界がそもそもどういう要素からどういう秩序を以て成り立っているのか、そのあまねき構成要素のあまねき分類整理が必要とされるはずであり、それだけを考えてみても、そんなことがおよそ可能だと考えること自体「太平楽」であろうと直感的に思わざるをえないことは確かだ。上の引用で名前の挙がっているデカルトは、「普遍学」の提唱者として知られながらも、人工普遍言語の開発そのものに対しては自身は一定の冷めた距離を置いていたようである。

1629年11月メルセンヌが送ってきた普遍言語の趣意書を批判したデカルトは、普遍言語というのは、その趣意書に略述されていた不十分な体系よりもっと哲学的な路線に沿って定式化できることを提案した。そのような哲学的言語は観念の厳密な分析と秩序だった分類をもとにしている必要があるだろう、というのが、デカルトの提起するところであったのだ。「いわばそれは」と彼は書いている。「数のなかに、当然のごとく歴然たる体系がひとつあるように、すべての思考のなかに、人間精神に存在しうる唯一の秩序を確立することなのです」。

そのうえ複合概念は、単純で明確な構成要素へと分析される必要があるし、さまざまな要素間の関係もしっかりと確立されなくてはならなかった。デカルト自ら、こうした言語の構築がうまくいくのは、「真の哲学」の進歩の完全な確立、それ次第で決まることを指摘したのである。「それといいますのも」と、彼は以下のように書いている。

真の哲学なくしては、人間思考のすべてを、明快かつ単純になるように識別するだけでなく、ひとつひとつを数え上げ、順序よく配置することができないからです。わたしの考えでは、それができさえすれば、よき知識を達成するための最高の秘訣が手に入ることになるのです。そして、もし人間の想像力のなかの単純観念がなんであるか、人間の思考すべてを織りなす単純観念とはなんであるかが明確に説明され、さらにはそれが万人の承諾を得られるならば、理解しやすく、発音しやすく、書きやすい不変の普遍言語を、しかも実に明確に事物全体を表示してくれるため、まちがいを犯すことがなくなるような、判断の補助ともなる原則を、わたしはあえて希望したく思うのです。

デカルトは、その新言語が依拠する科学の発展に本質的で詳細な観念的分析を施すことは、理論的には十分に可能であると信じていた。とはいうものの、明らかにこれは、第一秩序の哲学的達成を実現することを意味していた。さらに彼はこう論じている。たとえこの哲学的言語が実際に構成されたところで、一般には受け入れられないだろう、なぜならば「それは事物の秩序の大きな改編を前提にし、しかも世界全体がまさに地上の楽園にならなくてはならないわけで、そんなものは、要するに、せいぜい物語の国で提案するものでしかない」からである。

しかし、デカルトに続く思想家たちは、この最後の判断を、哲学的原理をもとにした普遍言語の全体的な構想を無効にするものとして受け入れようとは思わなかった。メルセンヌ自身、デカルトが自分宛に寄こしてきた手紙の見解に目を通したあと、その問題をさらに詳しく考察し、多くの文通仲間と意見を交わし、『普遍的調和』(1636)のなかで、自前の普遍言語の提案を略述したのであった。

(p.100-101)

「語」よりも「物」が重視されるということは、すなわち、「語」の整理に「物」の整理が先立つということを意味する。上のほうに記したように、世界をいかに記述すべきか、という問いに、記述されるべき世界はいかなるものか、という問いが先行するのであり、平易で秩序正しい記述方法を考案するためには、この世界そのものの秩序、それが基づいているところの「理logos」自体を全面的に明らかにするという「第一秩序の哲学的達成」という大々的なミッションが立ちはだかるわけなのであった。そして、それが仮に哲学的に達成されたとしても、現実の世の中は表面的には限りなく乱れ乱れて「第一秩序」がどこに潜んでいるのやら「哲学的」ミッションを介さなければおよそ誰にもわからないようなごった煮状態で営まれているのであり、人間が日々使用している自然言語は、自然発生的なその乱脈に沿うようにこそ乱脈に構成されているのであるから、第一秩序に基づいた完全に普遍的な「哲学的言語」がよしんば開発されたとしても、その言語を用いて支障なく日常生活を送れるようになるためには、まず世の中のほうが、もっと秩序正しく営まれるようにならなくてはならないだろう。楽園の言語は、楽園でしか使えない―それはまことにもっともな指摘であるにもかかわらず、誰も言うことをきかなかったというのは、要するに、そういう実際的な正論にあってさっさと諦めてしまうにはこの言語計画というプロジェクトが当時の学者一同にとって単純に面白すぎたのではないかという気がしなくもない。

(……)この問題を真剣に考えていた著名な思想家らが―デカルト、ベレスク、ガッサンディ、メルセンヌ、コメニウス、ニュートン、ボイル、ウィルキンズ、ウォード、ベティ、ウォリス、レイ、ウィラビー、キルヒャー、ライプニッツといった綺羅星のごとき名前を列挙できるが―真正の文字を多様な言語圏の人びとと意思疎通をはかるための単なる代替手段とみなしていただけであったなら、それをもう一度考えなおしたことだろう。新しい文字はやがて、多くの重要な点において、現存するどの言語よりも秀でたものとみなされるようになっていたからである。たいていはそれは、より単純で、より簡潔で、より規則的なので、修得も記憶も使用も容易であると讃えられていた。話し言葉となれば、ほかの言語よりも調和がとれているとまでいわれていたし、17世紀後半にもなると、自然世界をより直接に映し出すと説明されるようになっていた。のちの学者らは、真正の文字の共通の書字としての優越性を念頭に入れながら、実際にその「語」を組み合わせることで、自然の事物の多種多様な特質や、諸特質間の関係を、緻密に映し出す普遍的文字を提供しようとしていた。こういう次第で、言語は知識獲得のための手段というだけでなく、それぞれの「語」が指示対象の緻密な記述をもたらすので、それ自体が知識そのものとなる手段であったのだ。さらには、ライプニッツをはじめ18世紀の哲学者のなかには、記号の組み合わせを通して、われわれの諸観念のもっとも深遠で複雑な結びつきを表現する普遍的文字を作り上げ、その新しい文字を分析と発見の道具にしようと企てていた者がいた。

(p.20)

普遍文字の開発に関してヒントになったのは漢字だけではなく、種々の暗号、そしてむろんアラビア数字(算用数字)と数式および数式記号もまた大きな手がかりのひとつであった。上に列挙してある人名の中にさりげなくニュートンが混ざっているが、デカルトやライプニッツ、あるいはウォリス、メルセンヌなどの人びとも数学者としての重要な一面を持っており、ライプニッツは今でも用いられている微分積分の記号を提唱した人である。1716年に彼が亡くなるころから、18世紀にはいわゆる自然科学の発達が著しく、ニュートンなどにおいてもまだ「自然哲学」という融合態を残していた自然科学と哲学、さらにいえば今謂う人文学とが次第に明瞭に分岐していくことになるが、それを思うとこの人工普遍言語開発プロジェクトは、いまだ未分化な自然科学と人文学とがなお互いに深く重なりあっていた時期に華々しく打ち上げられた最初で最後の協同作業の、名残の花火であったかもしれない。学術の世界もまた原理的になお「ひとつ」であったのである。

ところで、上のほうの引用にもすでに登場したジョン・ウィルキンズという人とその言語計画は、ノウルソンの書中かなりの頻度で登場する。この人の名はむしろボルヘスの短編エッセイ「ジョン・ウィルキンズの分析言語」においてより広く知られているかもしれない。ボルヘスはこのエッセイで、ウィルキンズの言語計画がいかに荒唐無稽で最終的に無効なものかを揶揄しているのだが、そうした揶揄の対象になるだけ、つまりウィルキンズの言語計画は当時としては「成功したもの」(p.143)であり、20世紀に至っても忘れられずに一定のインパクトを持っていたということなのだろう。彼のもっとも有名な『真正の文字と哲学的言語に向けての試論』(1868)をノウルソンがとりあげて「吟味」している箇所を、少し長いが下に引用する。

ジョン・ウィルキンズ(1614-72)はロイヤル・ソサエティ設立期の会員のひとりであり、初代書記長であり、『試論』を出版する前には数々の祈祷と説教に関する論稿だけでなく、とりわけ魅力的な『月世界の発見』(1638年出版)に代表される数多くの科学啓蒙書の著者でもあった。真正の文字の可能性に寄せたウィルキンズの関心は、先に見たように、普遍的文字がすでに「真正の学問」の進歩にかなり貢献するものとして称揚されていた『マーキュリー、あるいは秘密にして迅速なる使者』という、意思疎通に関する初期の仕事にまで遡る積年の主題であった。セス・ウォード(1617-89)が1649年オックスフォード大学の天文学の教授になり、ウィルキンズが監督官をしていたウォドハム・コレッジのフェロー・コモナーとなったとき、普遍的文字がふたりの「日々の身近な会話」の話題のひとつになっていたとしても、驚くにはあたらない。ウィルキンズによれば、ウォードはすぐにこの主題についてひとかどのものであるところを見せつけた。そしてウォードとの会話が機縁となって、チェスターの未来の主教ウィルキンズは、普遍的文字が人類にとり真に有益なものとなるには、「ある特定の言語に従った語の〈辞書〉」ではなく、「事物の本質」と人間が所有している共通の概念とをもとにして築かれる必要があることを、しっかりと認識するようになったのである。

そのような計画を準備する機会は、1657年以後、ジョージ・ダルガーノが着手しつつあった普遍的文字の計画を機に、ウィルキンズがもたらしたものであった。ウィルキンズはダルガーノのために「実質の表、あるいはいくつかの〈見出し語〉のもとで分解される自然の事物の種」を作成することを申し出たが、その表は「〈範囲〉があまりに大きすぎるし、自分ならもっと簡単で容易な方法を用いて主要な〈語根〉を余すところなく十分に提供する構想がある」と考えていたダルガーノによって、結局は拒絶されたのだった。この拒絶のあと、ウィルキンズはウォードとともに精緻化したと思われる方針に沿って研究を続けたのであるが、万物を本源的な関係に従って数え上げ定義することがあまりにも困難で労力を費やすことがわかったので、ロイヤル・ソサエティ一派の同僚や友人のなかから身近にいるものの手助けを要請することになった。それを受けて、ウィルキンズが従うよう依頼した計画の条件が厳しかったにもかかわらず、ジョン・レイは植物表覧を作成することを説得され、フランシス・ウィラビーは動物部門の材料を収集し、サミュエル・ビーブスは航海術の用語で手助けをし、『試論』そのものに即した語の辞書に全面的な責任を負ったウィリアム・ロイド博士(セント・アサフの主教)は、ウィルキンズを全般にわたって援助したのであった。

(……)この『試論』の「科学的な」部分を、ウィルキンズ自ら「ここに立案された事物の偉大な基礎づけ」であると記したし、「ロイヤル・ソサエティへの献呈書簡」のなかで、この分類体系が真正の知識の進歩にとっていかに重要だと考えているかを表明している。彼の説明によれば、その表覧は「〈ソサエティ〉の偉大なる目標である〈自然〉の知識を多いに増進し容易にする」ことになっていた。これらの表覧は、なかの分類場所すべてが「ひとつひとつの事物の性質の記述」に寄与するように考案されていた。そしてウィルキンズの哲学的言語が学問の進歩に重要な役割をはたすと考えられていたのは、まさしくその言語が事物を数え上げ定義したからなのである。ウィルキンズは以下のようにも主張している。すなわち、真正の文字と哲学的言語が国際的に採用されようがされまいが、

それでもわたしは、大いなる自信を込めてこのように断言する。ここに提案される〈表覧〉へと事物や概念をすべて分解することは(思惑通り完全になされたのであるが)、世界にいまだもたらされたことのない真の〈知識〉達成のため、もっとも簡潔で平明な方法であることがわかるであろう。さらに付け加えるなら、(現在あるがままの)当該の〈表覧〉は、事物の知識のなかへ人間を導き入れ訓練するために、わたしが知っているほかのいかなる方法よりも、はるかにすぐれた、容易な道だと思われるのである。

ウィルキンズのもうひとつの希望は、『試論』のなかに表示されている表覧、あるいはのちにロイヤル・ソサエティによって改訂されることになる表覧は、ソサエティが少し以前に取り上げていた〈博物学〉のコレクションを整理するためのすばらしい方法を提供する、というものであった。事実『試論』が刊行される前に、ロバート・フックが、かつて試みられた自然物のもっとも今日的かつ厳密な分類構想の一環として、ウィルキンズが確立した種々の区分にもとづいて〈貯蔵庫〉なるものの整理を初めていたのである。

(p.144-146)

「事物の本質」に基づいて、それらの事物を「数え上げ」「分類」し「定義」して「見出し語」のもとに一覧に供するという営為は、「ある特定の言語に従った語の〈辞書〉」に留まることを潔しとせず、「真正の知識の進歩にとって」重要な「分類体系」として「自然の事物の種」どうしの秩序だった相互関連性を提示しようとなればなるほど、言語計画というよりはむしろミュージアム的な世界総覧の試みに限りなく近づいていく。ウィルキンズのみならず、上に列挙されている「綺羅星のごとき」人々のうちキルヒャーやライプニッツをはじめ多くの人々はもともとその活動が博物学の領域にも広くわたっていた。森羅万象の殿堂、パンデモニウムとしてミュージアムを建設しようとすることと、普遍言語を構築しようとすることとは、その根底に同一の性質を秘めており、同一の状況のなかで、同一の人びとによってこもごもに営まれていた営為なのだった。17世紀に至って前者のミュージアムという制度が絶対王政の権威に奉仕するようになってゆくにつれて、奔放で荒唐無稽な、純粋に学術的な心躍る挑戦という側面を、後者の普遍言語計画がすみやかに受け継いでいったのだ、などとひょっとしたら言えるのかもしれない。膨大な「見出し語」とその定義の一覧表は宛然、展示物を欠いたカタログのごとくである。言い方を変えるならば、ミュージアムの営みにおいて、実際にモノを収集することよりもむしろカタログを作成することに徐々に比重が置かれるようになっていったその軌跡と、言語計画の軌跡とは、文字通り軌を一にしているのでもあっただろう。

ウィルキンズの表覧では、事物と観念はまず第一に、非常に一般的な総称的区分に従って範疇化されている。これらのは「超越的範疇」(一般的、複合した関係、行為の関係)、自然世界において顕著な分岐をもとにした区分(たとえば、石、金属、薬草、灌木、樹木、魚、鳥、獣)、さらには、たとえば、量という共通の要因で関係づけられる区分(大きさ、空間、広さ)で構成されている。この計画がその後の展開と実施のなかで、いかに複雑なものになっていくとしても、書かれた記号(真正の文字)と発音される音群(哲学的言語)の体系をこれらの哲学的表覧に適用する方法は、基本的には非常に単純なのである。それぞれのは、特定の子音と母音、それに対応する書かれた文字‐記号をひとつひとつ付与されているので、また文字と言語の双方が規則正しく展開するよう意図されているので、次から次へと移行していき、ほかの関係すると結びつけられるのである。たとえば、薬草、灌木、樹木などの植物全体を含むを表示する音は、a、e、i、oのどれかひとつをあとに従えたGを頭出しの文字にしている。同様に、鳥や獣や魚はすべて、同じような順序で同じ母音をあとに従えたZを頭出しの文字にしている。さらにはまた、真正の文字では、薬草と灌木と樹木もまた、似たような書かれた記号〔筆者註=ここにはいわゆる「絵文字」のような記号が書かれているが、それを図版化してここに載せるよりも、むしろ例えば→このようなサイトを見ると、ウィルキンズがどのような「文字」を提案していたかについてざっとした感触がよく得られる〕で表示される。かくしては、体系的に組織された一連の基本的な文字や表意文字で表示されることになる。

続いて差異は、B、D、G、P、T、C、Z、S、Nなどの子音を哲学的言語のの文字に付加することによって表現される。それゆえ、エマリーの例を挙げるなら、Diは石の基本的な総称記号であり、それにその属の最初の差異をなすB(Dib)を加えるなら、最初の差異に従って分類された石、すなわち、いわゆる石を指すことになる。こうして種は多くの母音や二重母音のひとつを付け加えることによって示される。たとえば、Dibaは、もっと厳密には「ごつごつした」石、すなわち世間でいう目の粗い石を指示することになる。

真正の文字は、基本的な総称記号になんらかの一筆を加えることで同じように推し進められ、それが文字の左側に位置づけられたときには、九つの差異のうちのひとつを示し、右側に位置づけられると特定の種を示すことになっている。加えて、一定の数の鈎や輪の記号は、類似性あるいは対立、形容詞や副詞、能動態・受動態、複数、などを示すために、その文字に付け加えられることになる。こうして音と筆記文字を変異させると、さらに具体的な対象や観念へとつながっていく。この過程は非常に厄介なものであるが、ウィルキンズからすればどこまでも組織的なものであったし、自ら読者にいっていることだが、語をできるだけ簡明に保ち、修得しやすく、口調よく、同時にお互い同士区別しやすいという、もちろん彼自身解決したとは到底いえない決定的問題にかかわっていた。しかし、そのような範疇指定の手順のおもな長所は、語(文字であろうが言語〔筆者註=ここでいう「言語」は、音声として発語された語、の謂であろうと思われる〕であろうが)が意味する対象あるいは観念を定義し、またほかの関連する事物や対立する事物との関係を確立したことであるように思われたのであった。

(……)20世紀という有利な地点から振り返ってみると、ウィルキンズの(さらには、ダルガーノの)分類は、必然的に不完全で不十分なものであった。要するに、彼らの網がアリストテレスの論理範疇の改訂版にすぎないところを見ても、まずほかにやりようはなかったのである。そのうえ、科学的知識が自然世界の理解を進展させ躍進するにつれて、相次ぐ記号の変化をたやすく許容するような具合に、言語が構築されるとは思われなかった。(……)さらには、自然界の対象の包括的な記述の探索は、確かに、言語を不可能なまでに扱いにくく、まったく非実際的なものにした。最後に、毎日の会話、あるいは普通の学問的な情報交換においてすら、人間が哲学的言語を織り成すことになる記号や音の精緻な組み合わせに取り組むようになると期待したところで、ほとんど無駄であった。もちろん、これら基本的な欠点は、現代の文献学者ならまちがいなく訂正できる言語学的欠陥よりもはるかに深刻なものであった。それにもかかわらず、確かに言語としては破綻してはいても、これらの哲学的言語は関心を引かずにはおかなかったし、影響力もまったくないというわけではなかったのである。とりわけウィルキンズの『試論』は、出版以来、主として観念の分類という目ざましい特質のゆえに、多くの著作家や思想家の耳目を引きつけたのであった。

(p.146-149)

3世紀ほども隔ててボルヘスもまたそのように「耳目を引きつけ」られたひとりであったろうし、「多くの著作家や思想家」たちの後塵を拝しつつ私自身もやはり耳目をひきつけられずにはいない。普遍言語計画そのものの気宇壮大さもさることながら、当代の碩学たちが組んずほぐれつしながらそれぞれの関わりかたでこのプロジェクトに参与していた、おそらく、参与しようとしなかった者もまた、あえて参与しないという形で参与していたほどのそれは一大プロジェクトであって、ノウルソンの本を読むと、初期近代における汎西欧学術共同体の生き生きとした運動性の片鱗がまざまざと見てとられる気がして、そこにこそ耳目を引きつけられるのである。この本は、翻訳はかなり読みにくい日本語で、時々接続詞や文末の語用があやしく、毛細血管的文脈をたどるのがしばしば困難であるけれども、それでも、普遍言語とそのプロジェクトに関する研究書が今やいろいろある中で、最初に読むものとしてはこの本を人にも勧めたく思うのであった。上の引用箇所に引き続いて、こうした世界総覧的普遍言語と、「記憶術」および「結合術」との関連が語られるので、そこも読みたく思うが、記憶術や結合術に関してはまた別の書物をも参照しながら学ぶほうがよさそうに思うから、その関連のことについては別稿に譲ることにし、ここではノウルソンの本の後半から、18世紀に至ってこの壮麗なプロジェクトの最後のころの議論を少々引いておく。ウィルキンズは英国における言語計画の一方を牽引した人であったが、大陸は大陸で独自の言語計画を様々に展開させており、『百科全書』の編纂がはじまるころになってもまだこのムーヴメントは大いに生きていた。とはいえ、上の引用の最後に述べられているような、この企画が持つ根本的な問題点は、当然ながら次第に誰の目にも明らかになっていった。

まず第一に、科学と哲学の要求を満たすべく明確に構築された言語を利用できるものは、科学者と哲学者ぐらいなものだ(……)分析的言語を構築し採用することで、少数の学者とほかの人びととのあいだの溝はますます広がることになる。ド・ジェランドーとデステュット・ド・トラシーは双方ともここでエルヴェシウスの教育上の展望を取り上げながら、将来の人類の進歩はひとつには広範囲にわたる知識の普及次第で決まると考え、言語を意思疎通の方法というだけでなく教育の手段とみなしていた。「言語は」とド・ジェランドーは書いている。「学者同士の単なる意思疎通の手段ではなくて、無学な者を教育し真実の喜びに誘うための道具とならなくてはならない」。したがって、日常言語とは違う哲学的言語の創設は、知識を進展させるというよりは後退させ、結局は未来の人類の発展にとって非常に有害なものになるといってよかったわけである。デステュット・ド・トラシーの言葉を借りるなら、「以上の理由から、純粋に学問的な普遍言語の実用性は、その普遍言語が約に立たないと不都合が出て意味を失ってしまうし、普遍的言語が知識の進歩を停滞させないと仮定しても、結果的には必然的に不都合なことが集中して煮詰まってしまうのである。それは、知識に極端な不利益をもたらすもうひとつの要因となる、とわたしは信じているのである」。

厳密な分析的言語の創設に対する二番目の反論は、文学に及ぼす影響にかかわるものであった。新しいい言語は、厳格であると同時に、規則正しく、整然として、厳密なまでに形式的なものになるので、ランスランが論じるところによれば、文学、なかんずく詩の用法にはほとんど適していなかった。「耳に心地よく、すばらしい独創的な作文により想像力を攪拌するために作られたのではなまったくないが、すべての事物を念入りに描写し、あらゆる分野の観念を正確に分析するために作られたこの言語は、詩的で文学的な作品にはまず不向きな、厳格で、整然とした、規律正しい歩みを見せることであろう」。(……)

ところが、イデオローグたちのなかには、ランスランとは違って、文学と科学という個別分野に厳密な差異を認めない人たちもいた。詩人と哲学者の希望が異なっていることを認めながらも、ド・ジェランドーは文学と科学に密接な関係を見てとっていた。このふたつの完全なる区別は、両分野にとって有害であると信じていたのだ。「同時に二重の用法を運命づけられ、哲学者と同じく文学者の道具にもなるはずであり、そのいずれの役にも立つわれわれ人間の言語は、双方からのさまざまな要求に従うのであって、哲学的な完全性のみに与したり、人間の想像力のみに追随したりはしないのである」。(……)デステュット・ド・トラシーは、象徴や紋章へのわれわれの嗜好を論じるなかで、隠喩の主題をめぐって若干きびしい発言をしているにもかかわらず、包括的で「完全な」言語の特質を記す段になって、かなり異なった見解をとっていた。彼の主張によれば、この言語は、響きがよく、調和に満ち、表現力に富み、「詩や音楽や弁論に好都合であり、そして人間の欲求すべてに、さらには人間の喜びすべてに応じることになる〔はずである〕」。したがって、哲学者、科学者、詩人を一度に満足させる言語を作るのでなければ、哲学者と科学者だけの要求にかなう言語を導入しようとしても、哲学、科学、文学にとっては不幸な結末になるであろう。

(p.270-271)

楽園の言語は、楽園でしか使えない。議論は結局、1世紀前にデカルトがすでに見切っていたところへ、巡り巡って落ち着くほかはなかったであろう。世界中の誰もが容易に習得でき、容易に意思疎通でき、世界の本質をダイレクトに記述することができ、そこから翻って世界の成り立ちを誰もが用意に学ぶことのできる言語、それが仮にいつか十全に構築されえたとしても、できあがったしろものはむしろ逆に、言語社会のよりいっそうの分断を招くことになるだろうというのが、汎西洋学術共同体を待ち受けていた皮肉であった。そしてその結果、

完全な言語など達成不可能な理想であるし、現存の言語を改革する作業は困難で遅々として進まなかったため、現在使っている語をもっと適切に用いるという面白味のない可能性が残ったのであった。

(p.299)

18世紀半ばの『百科全書』を極点として、こうした世界総覧の営為は、壮大な学術協同プロジェクトという形で試みられることは次第に稀になり、むしろ個別の哲学や文学の中で仮想的に行われるようになっていったのではないかと考えられるのだが(あるいはオリンピックや万国博覧会のような国際的「イベント」として)、それはつまり、見果てぬ夢の種子は親樹が枯れても広く散布されて今なおそこここに埋伏されているということを意味する。「絶対的に新しく、絶対的にやさしく、絶対的に合理的な」汎知の人工言語、「普遍的な光の媒体」―その夢は2020年の現在、どこにどのように揺曳しているだろうか。浅薄な直感に頼って安易な答えを見出そうとする前に、ノウルソンがこの本で心ならずも多くを「除外する羽目になってしまった」(p.15)という「コメニウスとライプニッツの研究」について、また別稿でしばし学んでみようと思う。

2020.10.04

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