Litterae Universales / Imagologia

「声のタブー」と身体性の問題に関する頭出し

映像の視聴において、目と耳は、常にばらばらである―映像がディスプレイなりスクリーンなりに映し出され、音声がスピーカーから出るという仕組みである限り、いかなる「映像」においても、映像と音声は根本的にばらばらである、という話は、大学で映像文化論を開講するようになって以来少しずつではあれ言及してきた話題だった。およそ2002年前後だろうか。ばらばらだから、どうだ、というのかは、しかし私にはなかなかに手の余る問題であったので、よき参考文献もがなとあれこれ探すのだが、この問題を正面からきちんと扱ってくれている文献はなきに等しかった。もっとも、もともと映像論畑の出身でもない私はこの領域に関わって浅く、文献探索も得手ではないから、単に浅学ゆえに肝心な文献を知らずにいるのか、あるいは海外では実はいろいろあるのかもしれないなどと思いながら、とりあえずは手探りで自己流の考察を進めていくより他にどうにもしようのない感じであった。

ところが2007年の5月だったか、東京大学情報学環主催のとあるシンポジウムに赴いた際、基調講演で驚くようなことを耳にした。講演者のひとりは蓮實重彦氏で、私は面識はないし御授業を受けたこともないけれども、伝えきくところによれば学生にある映画のオープニングか何かを見せて「何が映っているか?」と質問なされ、学生が何だかんだと答えていたら「違う! 何を見ているんだきみたちは! 字が映っているだろう字が、タイトルが!」と―少し違うかもしれないがそのようなことをのたまったというので、我が意を得たりと私は氏を大いなる先達として常々ひそかに尊敬してきたし、今もしている、その蓮實さんの講演のテーマが、声のタブー、というようなものだった。もともとは別のテーマが予定されていたのだそうだが、氏は登壇後間もなく、「実は今日は予定とは異なる話をしたいと思う」むねを言い出され、「これまで自分は五十年間にわたって無数の映画を見続け、考察を続けてきたが、この期に及んで全く新たな認識を得た。全く新しい、恐るべきことを思いついてしまったので、それを、今日この講演の場で、予定していた話に代えてお話しようと思う」というようなことをおっしゃった(まるでマイスター・エックハルトのようではないか?)。初めて人前で披露する話なのだとも言われるから、私はぞくぞくして耳を傾けた。「映画は本質的に音声を持ったことはないのです」と蓮實さんは言われた。「音声的知覚と視覚的知覚の人為的同調」がはじめて行われたのは実は五十年代であって、要するにそこでトーキーが本格的に導入され、映画に音声がついているのが当たり前のことになったのだが、それでも本質的には映画は音声を持ったことは一度もなくて、「あらゆる映画は今なおサイレント映画の一形態にすぎない」というのだった。今でも、目と耳はばらばらなのであると。

私は耳を疑った。そんな当たり前のことが、蓮實さんともあろうひとが「新しく得た認識」「恐るべき思いつき」だとは! 俄かには信じがたいので、ともあれ「全く新しい認識」云々というのは蓮實さん一流のパフォーマティヴな物言いにすぎず、もとから当然のように温めていた問題意識をここで改めて満を持して展開しようということに違いないと思わずにいられなかったが、よりよく考えてみるならばやはりあの言葉はそれにとどまらず、氏ご自身を含めた映画論者たち、あるいは映画批評・評論のフィールドを牛耳る人たちが、これまでこの音と映像の乖離・統合の本質的な仕組みについて公の場で考察・言及することがあまりに少なかったことに対する、一種の自己批判を籠めて言われたものでもあろうと思う。実際、映画なり映像全般における音の役割は常に過小評価されてきた。映像における音一般についてのまとまった考察を読もうと思えば、日本語では(2015年の現在時点から見て)ほんの二、三年前までとりあえず、すでに古典的名著となって久しいミシェル・シオン『映画にとって音とはなにか』でも読み返しておくしかないような状況で、それでも近頃ようやく音声に関する考察が少しずつ盛んになってきているそうであるのはまことに重畳の至りながら、遅きに失する次第というか、蓮實氏のこの講演とそれに続く著作が日本におけるそうした音声研究の俄かな見直しと流行へつながったというのであれば至って慶賀でありつつ、あまりにも右へ倣えの風潮がむしろ情けないと言うべきなのかもしれないけれども、ともあれ遅まきであろうと何であろうと、見直されないよりははるかにましである。

20世紀とは視覚と聴覚のテクノロジー的な葛藤が顕在化した時代である、とシンポジウムで氏は言われたが、どういうことかというと、録画技術、つまりカメラというものが発明されて瞬く間に普及した時代と、録音技術が普及した時代との間には大きなひらきがある。最初の録音技術、グラモフォンというものの発明自体は、映画のそれとほぼ同時期だが、静止画・動画を問わずカメラとその利用があっという間に一般に普及したのに対して、蓄音器とその利用は長らくプロフェッショナルな領域にとどまり、つまり一部のプロが独占する技術にとどまり、一般に普及して誰もが様々なものを録音するようになったのはようやく戦後だった。しかも、カメラは最初、肖像写真を撮るところからはじまったし、写真というものは当初から人をしのぶよすがとして用いられてきたけれども、音声のほうは、人の声を記録してその人のよすがとするよりは、音楽の演奏を記録再生するためにもっぱら用いられてきた―それはいったいどういうことだろうか、と。氏によれはそこには、「あらゆる者が声の複製に携わったりしてはならない」というイデオロギーが隠れていたのだということだった。人の声の複製というのは本来タブーに触れる行為で、今でもそのタブーは残っているのだと―映像、つまり人の姿をカメラで複製することはタブーでなかったからあっという間に普及したけれども、人の声を蓄音器で複製することはタブーに触れる行為だった、なぜならば声は姿形に比べてはるかに人の身体に密着したものである、むしろ「声は身体そのものだ」から、とそのようなことを講演において氏は言われたのだが、声が「身体に密着したもの」であるとか「身体そのもの」であるというのは果たしてどういうことなのだろうか。このとき語られた話の概要は、『ゴダール・マネ・フーコー 思考と感性をめぐる断片的な考察』(NTT出版、2008)という本の中の「Ⅳ 声と文字」の章にまとめられているが、この著作においても、声が「身体そのもの」だというのがどういうことか、それほどわかりやすく具体的に書かれているわけではない。

この論考の中で氏は、フリードリヒ・キットラー『グラモフォン、フィルム、タイプライター』を「ある意味では二〇世紀を「非=歴史」化するかのごとき」「粗雑な」視線を持つものとして批判する(ちなみに当該シンポジウム基調講演のもう一人の講演者は他ならぬこのキットラー氏だった)。「映像」の民主的普及(無声映画)と「音声」のそれ(トーキー)の間の「三〇年という時間的な偏差」をキットラーは「とるにたらぬ誤差としてほとんど無視せざるをえな」くなっていて、そのため「二〇世紀に向けられた視線が、いかにも抽象的」になっているという。「とはいえ(……)その時間的な偏差に、間接的ながら言及している」箇所として氏はキットラー同書から「声は、映像に対して優位にあるとの認識」が示されている部分をいくつか挙げ、「声が具現化する身体性はイメージによる再現とはくらべようもなく高いという彼の指摘はひとまず正しいものだといえる」という。キットラー氏の視線が「粗雑」であるかどうかをここで検討するつもりはなく、純然とこの、「声が具現化する」あるいは「イメージによって再現」される「身体性」とはどういうものなのかが気になるのである。

(……)人類はいまなおこうしたかたちで録音術を充分に活用していない。実際、数世代前の祖先の写真なら誰の家にも残されていようが、彼ら(や彼女ら)がいったいどのような声で、またどのような抑揚で、いかなる言葉を話したのかを知るために、人々が「スピーチ・マシーン」(やその発展形態のさまざまな装置)の助けをかりることはまずないからである。誰もが等しくマラルメの肖像写真を見ることができるのに、その声を聞くことはできないという状況は、今日にいたるもなお維持されている。そのことの歴史性に目を向けてみなければならない。

ここで見落としてならぬのは、この現実が、逆説的に声の優位を立証しているということだ。つまり、声は、イメージと異なり、まさに身体そのものであるがゆえに、かえって触れがたい領域に身を隠しつづけているのである。映画など誰にも撮れるが、あらゆる者が等しく声の再現にかかわってはならない。あからさまに明言されることのないその暗黙の禁止が、二〇世紀の歴史を複雑に染めあげているのである。(……)/ /(……)複製技術による映像の再現と音声のそれとは、異なる比重で人類の思考と感性とを騒がせていたのであり、そのことが、メディアの複製技術的な存在形態にある種の歪みをもたらすことになる。その歪みに過渡的でありながらも無には還元しえぬ無声映画という現象が位置しているのである。

二〇世紀は、トーキーよりも、むしろサイレント映画を持ってしまったことで記憶されるべき時代なのだ。つまり、ある人影を複製のイメージとして目にすることが、その声の複製を耳にすることにくらべて遥かに容易であり、かつまたそれが広く容認された一時期のまぎれもない存在が、二〇世紀を二〇世紀たらしめているのである。詩人ステファヌ・マラルメの声を誰ひとり聞くことができないのは、その歴史的な事実と無縁ではない。それは、聞いてはならぬものにほかならず、その禁忌にはテクノロジーもさからえなかったのだ。

(p.166-169)

上の引用で途中省略した部分では、デリダと現象学について触れられている。「「自己への現前」においてしか声は声でないという初期デリダが批判した「現前の形而上学」につらなる何かが、無意識的にではあるが、音としては響かぬその禁止の声の背後に鈍くこだましているように見える」とあり、続いて「実際、「私が話すとき、この操作の現象学的本質には、私は私が話している時間において私を聞く、ということが属している」(『声と現象』高橋充訳、理想社、146-147頁)という現実は、録音装置による声の再生を、声にはふさわしからぬ事態として揺るがせかねないのである」とあり、そして「声の「自己への現前」という現象は、プラトン以来の西欧社会に特有のイデオロギーにほかならぬ「現前の形而上学」として、エディソンによる録音術の発明にもかかわらず、声の複製技術による再現にはしたたかに抵抗するしかなかったのである。文字は、そして本質的にはそれに類するコピーにほかならぬ世界の視覚的な再現は、「現前の形而上学」においては初めから二義的な役割を演じることしかできず、であるがゆえに、普遍化された模造品として容認されたにすぎない」とある。この論考において「声は身体そのもの」であると言われるその根拠ないし説明は、このあたりの現象学的な「声の現前」という話をもって代替されているとおぼしく、その代替説明の内実は、この「声の現前」という話なかんずくフッサール、デリダのあたりの「声の形而上学」に関してよく勉強しない限りわからないようになっているのであるが、この部分に関してはやがて別稿を立てるので、今は深く立ち入らないこととし、ここではもう少し形而下的なレベルで上の問題を考えてみたい。

講演のときには「現前の形而上学」の難しい話はあまりされず、「プラトン以来の西欧社会に特有のイデオロギー」に関しては、より平明な話がなされていた。すなわち、この問題は西洋において声というものにずっと一貫して与えられてきた位置づけと関連があるという話で、声というものは一回性のものであり、発せられたらすぐに消えてしまう再現不可能なものであるという観念が、声というものに、個人のアイデンティティの座としての位置づけを強固に与えてきたという経緯がある、というようなお話だった。私が声を発するとき、それはそのときそこに確かにいる私によって発せられる声以外ではないということが、そのまま、そこに私がいるということの証しとして機能していたのだが、それが、声が複製ないし再現可能になってしまえば、声はたちまちその自己同定機能を失い、ひるがえって個人はそのアイデンティティを失ってしまう、それゆえ声の複製はタブーだったのであると―そのようにわかりやすく噛み砕いた話がなされていたように記憶している。こういう、声というものが最終的にひとの、出力する個人のアイデンティティの座であるという思想の根は、たどっていけばむろん言うまでもなく、人間が出力できるのは音声のみであるという例の事情に逢着するだろうし、その音声すなわち声によって出力される主なものが言語であるという事情も伴いつつ、「声」と「人権」という二つの抽象概念の癒着の根幹を養う古い土壌をそこに見出すことができるだろう。また、声が「個人のアイデンティティの座」であるということに関して言うなら、『オリエンタル・エレジー』について考察したように、少なくとも映像+音声でできた「複製」において「個人のアイデンティティ」を保証するのは映像でなく音声のほうであることは疑いない。映像だけでは一人の同じ人物とは思えないかもしれないさまざまな人物のショットの連なりも、声の同一性によって、ひとつの統合的人格を持った人物がさまざまに映しだされたものとしてまとめあげられる。他方、長回しの画面上にずっとひとりの男がいて、その男がずっと喋り続けている様子つまりは口をあけしめしている様子がずっと映っているとして、その映像につけられた音声が―声が、例えば五秒ごととか十秒ごととかあるいはランダムに色々な声に変化するとした場合、声は様々だけれども映像のほうがずっとひとりの男を映しているからこの男はある同一性を持ったひとりの男である、という確信が果たして持てるかどうかは大いに疑問である。その確信はおそらく持てなくて、むしろ、その男が多重人格であるかのような、すなわち確たる自己同一性を確保できていない男であるかのような印象を得るだろう。そのことは、多くの映画やアニメで多重人格のキャラを表現するのに、別人格が出ると声が変わるという演出が用いられてきたことを想起してみてもわかる。声が保証する同一性は、姿かたちが保証する同一性よりもはるかに強固であると考えられる、ただしこの強固な同一性のことを果たして「身体」ないし「身体性」と呼んでいいのかどうか、そこはやや慎重に考えてみなくてはならないだろう。

『オリエンタル・エレジー』は(いちおう)実写映画だが、これがアニメーションであった場合、さまざまな「絵」を続けて映すことによって動く男なり女なり何らかのキャラクターに、単なるよくできた木偶であることを超えた何がしかの「生身(なまみ)」性を付与するものがあるとしたら、それは声優が当てる声であろうことは容易に推測できる。このことは特に日本製リミテッド・アニメのキャラたちを観察することで明瞭に見てとれる(この件についてもやがて何らかの別稿を立てることになるだろう)し、ジャパニメーション業界において声優の地位がむやみに高いことも、「声」がキャラに与えるこの「生身性」と深い関係があるに違いないが、アニメにおいて、本来はただの動く絵にすぎないものに声が付与する強固に同一的な「生身」性のことを「身体性」と呼び、この「身体性」をもっぱら担うところの声こそがアニメキャラの「身体そのもの」である、と考えるとする。その場合、アニメキャラにおいて「絵」として描かれている視覚的な姿形は実は「身体」ではなく、それはむしろ「身体そのもの」である声が宿る外郭のようなものにすぎないのだ、ということになるだろう。それはそれでとても納得できる考えかたではある。そうすると実写の場合もしかし同じことがいえるだろう、つまり実写―もともと被写体のあった映像であっても、原理的には一枚一枚の静止画を連続して映すことによって動くという仕組みに今でも違いはないのだから、その一枚一枚の「シャシン」がいかに「実物」に「生き写し」であったとしても、画像は画像であり、そこにある視覚的な姿形は実は「身体」ではなくて、その絵の連続に当てられている声のほうこそがそのキャラクター―人物の「身体そのもの」であるのだということになる。このことに私自身はさして異論を覚えない。なぜなら、声と姿形とがもともと同じ被写体に発するものであったとしても、映写される時点では映像と声はそれぞれプロジェクターとスピーカーとから、ばらばらに分かれた形で出るのであり、その点、アニメーションと実写で何ひとつ変わるところはないからである。すなわち、実写映像もまたアニメーションの一種にすぎず、「あらゆる映画はアニメーションの一形態にすぎない」と考えるならば、その限りにおいては少なくとも、「声は身体そのもの」であるという論に納得できる。

このように考えることは、しかし翻って、実写映像における姿形、「視覚的なイメージ」は、セルに描いた絵と本質的に何の変わりもないと考えることに他ならない。すなわちそれはそもそも「複製」でも何でもないと考えることに他ならない。実際、写真が生身の人間の姿形の「複製」であるという(誤った)考えはいったいどこに端を発したのだろうか? もともとモノクロであり、しかも二次元である時点でそれは決して生身の人間の姿形の複製でないことは誰の目にも明らかであるし、長い露光を必要とした初期のプリミティヴな写真においては、それがそもそも「生き写し」であるかどうかすら一般にはおよそ判断しがたい、およそ困惑的な「人影」が呈されていただろう。「複製芸術」として写真や映画をとらえるときそれはあくまでも、写真や映画そのものが複製可能であるという意味だと私は考えていたし今も考えているがそれは誤った考えだとでもいうのだろうか。少なくとも厳密な意味で映像は実物の姿形の複製などではありえないし、一般にそう考えられてもいなかっただろうことは、鏡の中の像と入れ替わったり、鏡像や画像が「抜け出して」くる類の話があくまでも「幻想譚」として語られ書かれ続けてきたことにおいてむしろ逆説的にこれまた容易に推測できるのである。「現前の形而上学」を俟たずとも、映像はずっと「普遍化された模造品として容認されてきたにすぎない」ことは明らかである、それは複製でも再現でも何でもないのだ。映像における問題はむしろ、それが複製でも再現でもないにも関わらずあたかも再現であると見紛うばかりであるところにあるだろう。肖像権をめぐる諸問題の根幹にあるのは、自己が複製される危険などではなく、複製ではないものが複製であるかのように流通することに他なるまいと考えている(むろん「顔バレ」が生じる程度には「生き写し」でありうるから、余計に話がややこしくなるのだが)。ただし今後、3D映像が洗練され主流になってくるとまたこの点は異なる様相を呈するかもしれないが、少なくとも二次元の平面上に映像が閉ざされている間は、複製ないし再現ということが映像の流通を妨げる要素にならなかったのは至極当然であるといえる、それは単によくできた(あるいは不出来な)肖像画、そしてそれが動くようになったものにすぎなかったのだから。

では声の録音のほうはどうだろうか。撮影された姿形と、録音された声とを比較して、後者のほうがはるかに人のようである、もしくは、後者のみが「身体そのもの」であると言えるとすればその違いはどこからくるのだろうか。これはおそらく技術的な問題であり、前者があくまでも―フィルムとヴィデオでは形式が様々に異なるとはいえ―原理的には一秒何枚の静止画の連なりとしてしか人間の出力運動を記録できないのに対して、録音のほうは、人間が出力する音声の波形をそのまま、すなわち振動を振動として、運動として記録するものだということと関わっている。しかしさらにいえば録音装置は、人間が発声するに伴って口頭付近の、あるいはその近辺の空気が振動する、その振動を記録するのであって、声帯の振動をそのまま記録するのではないから、厳密にいえばそこで記録されるものは、人間の営為というよりその場の空気の振動に他ならない。そして録音した「声」を「再生」するときそこで再生されるものは、まずもって、かつて人が発声行為を行ったその場で振動した空気のその振動であり、再生時に振動する空気はかつてそこにあった空気とは別の空気であるけれども、振動そのものは「再現」される、あるいは近似的に再現されると言ってほぼ間違いはないだろうと思う。そしてそのとき再現される空気の振動の聴覚的な様態を「声」と呼ぶのであれば、そこで「声」が「再現」されるといってもよかろう。「現前の形而上学」において問題になるのは「己の声を己自身が聞く」という局面であるようなのだが、録音された声のこうした「再現」においては、したがってむろんこの局面は関わってこない(あるいは、関わってこないという形で深刻な関係があるというべきか)。再現されるのはあくまでも、発声した人の身体からすでに外化されたところの声にすぎない。録音された声がまるで自分の声のようでないというよく知られた現象はこれに起因するわけで、すなわち声の「再現」ないし「複製」において発声者のみはそこからあらかじめ疎外される仕組みがある。逆にいえば、発声者が疎外されるということを除けば、声―他者が聞くところの―は確かに録音再生技術によってきわめて近似的に複製・再現されると言うことは可能であるだろう。そこで複製再生されるのはあくまでも上記のような意味での「声」であって、人間の身体ではない。これをして「身体の複製」であるとし、かつ、生身においてさえ声こそが「身体そのもの」であると言うとするならば、それはまた全く別の話、撮影・録音技術がどうこう以前の、人間という存在の持つ身体、その「現前」とアイデンティティをめぐる話になるだろうから、その点はこのたびは措いておくとすれば、要するに映像も音声も、それを視聴するときにあたかも「その人がそこにいるかのような」気になる効果をもたらすことは確かであるだろうが、音声が再現される場合には、その人がそこにいてその声を発したならば生じるであろうところの物理現象に近似した物理現象がその空間において事実発生するのに対して、映像においてはそうではない、ということである。そういう形而下的な意味では、映像と異なり声は確かに「現前」する、あるいは「現前」を再現することができるといえなくはない。ただしその「現前」から声の主のそれは除外されてしまう、それゆえに声の複製が強い「タブー」であったということは大いに考えられることである。

ところで、視覚的な姿形がどこかに引きうつされたものを一般に「像」と呼ぶのだが、音声に関してこの「像」にあたる言葉はないのだろうか? あえていえば「こだま」でもあろうかと思うが、像 Image という言葉のおそるべき流布度にくらべて「こだま」という語の使用範囲は極めて限られている。当然といえば当然であるが、こだまというものが、発した声による振動が遠い山並から跳ね返ってきてもう一度空気を近似的に震わせることによって聞こえる音声であるならば、録音した声の再生はそれと同じようなものであるから、「複製技術」全盛時代に imago に対して echo という語がそれなりに流布してもよさそうなものである(ある限定された領域では妙に流布しているとはいえそれは特定の思想的文脈におけるジャーゴンとしてにすぎない)。私はむしろ、映像技術の流布と録音技術の流布の間の時間差よりも、「映像」論の隆盛と「音声」論のそれとの間の時間差のほうにこそ、音声にまつわる「タブー」の存在を強く感じとる。いやそれは「タブー」というほどのものでもないのかもしれないが。上の引用にある、「二〇世紀は、トーキーよりも、むしろサイレント映画を持ってしまったことで記憶されるべき時代なのだ。つまり、ある人影を複製のイメージとして目にすることが、その声の複製を耳にすることにくらべて遥かに容易であり、かつまたそれが広く容認された一時期のまぎれもない存在が、二〇世紀を二〇世紀たらしめているのである」という言葉はおそらく正しい。「ある人影を複製のイメージとして目にすること」が「声の複製を耳にすることにくらべて」容易だったという言葉使いはとても慎重である。ひとの姿形を画面上に見ることは、あくまでもそのひとの「人影」を「複製のイメージとして」見ることであって、そのひとの姿かたちの「複製を見る」ことではなかったのであり、にもかかわらずそれを複製「のイメージとして」見ることに狂奔したのが二〇世紀だったということなのだ。そこに「声の複製を耳にする」ことが伴えば、必然的に、映像のほうはもともと「複製」ではないこと、あくまでもそれは複製「のイメージとして」見えているにすぎないことが相対的にあからさまになる。「映画は今なおサイレント映画の一形態」であるどころか「アニメーションの一形態」にすぎないことが暴露される。映像論の文脈において秘匿されなければならなかったことがあるとすれば、それは、声が身体そのものでありその録音が身体の複製であることなどではひとまずなく、むしろ、映像が身体の複製では全くないということのほうだったのだろう。上記引用の続きにこうある―「だが、模造品でしかないはずの無声映画は、リアルなものの模造というにとどまらず、いわば模造されたもののリアルさともいうべきものを、未知の体験として人類の感性に提示したのである。その事実を見落とすと、二〇世紀の歴史は語りえないものとなる」。まさにその通りでもあるだろう。その「事実」をいったいどうやって「見落と」しうるのかがむしろわからないくらいのものであるけれども、実際にそうしたことがしばしば見落とされてきたであろうことは、世間、ひいては映画批評業界における「リアル」あるいは「リアリティ」といった言葉の無反省な氾濫に見てとることができる。上の引用における「リアルなものの模造」および「模造されたもののリアルさというべきもの」という二か所における「リアル」という語はそれぞれ全く別のものを指しているはずであることをこそ、「見落とす」べきではないだろう。リアル real、とは、「レー・アル」すなわち「存在するもの・っぽい」という意味であるにすぎず、極めて漠然とした語彙であるのだから、そのような語彙をもって何かしら正確に把握できると考えるのは大いに間違いなのだ―これは余談であるが、蓮實さんはむろんこんなことは百もご承知のはずである。私はかの講演を拝聴にゆくまで氏の「謦咳に接した」こともなければ御授業に出たこともなく、映画にかかわるご著書すらわずかしか読んだことがなかった、それは悔いるべきことなのかもしれないが、ある意味で、私にとってそれは幸いでもあっただろう。若いころに下手に接していたならば、氏のおっしゃることを全く理解できないで無暗に遠ざかってしまったかもしれないし、逆に無反省に追随して氏の論を縮小再生産し続けるだけの不肖の弟子になってしまったかもしれないからだ。自分なりの迂遠な道筋を辿ったのちに、ひそかに一方的に氏の論をかいま見に拝することができたのを私は僥倖とする。今更ながら教えを乞いたくも思うけれども、私はとても気が小さいので、いまからお手紙をしたためるなどの勇気は到底持ちえないから、この世でお目にかかる機会はおそらく決してあるまいと思う。あの講演のときにただ一度接した声音さえ、十数年を経た今はとうに記憶に薄れ、私自身が当時残したメモ書きからかろうじてその「声のイメージ」が想起されるのみである。私にとって、蓮実さんという映像論分野における唯一無二の事後的な師匠は、その謦咳にではなく、永劫にそのテクストに座しておられる。

ところで、上の文中に引いた「現前の形而上学」関連の引用の中に、たいへん気になる箇所がある。「文字は、そして本質的にはそれに類するコピーにほかならぬ世界の視覚的な再現(……)」という部分で、このことに関しては、またいつか別の観点から改めて考察する予定である。

2015.8.3.

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