Litterae Universales / Scriptorium

作品主体が作品の責任をとれない件について

たいていの映画には、オープニングやエンディングがついていて、作者、ないし作者群に属する人々の名前がクレジットされている。本であれば、背表紙や表紙に著者の名前が出ており、翻訳書であれば原著者の名前とともに翻訳者の名前も出ている。奥付をみると発行者や印刷所の名前その他、またCDであればミュージシャンの名前、作曲家の名前、演奏者の名前、その他その他。これらの名前が意味することは、要はこの作品は自分があるいは自分たちがある意図をもって統御して実際に働いて完成させた、自分たちの意図のもとにあるものである、という主張であり、ひいてはその作品に対する一定の権利の主張である―と少なくとも一般には把握されている。その一方で、近年の映画ではもう、少しでも関わりをもった人全員の名前が麗々しくスタッフロールに流れることになっていて、いきおい、エンドロールが年々おそろしく長くなっている。どんな映画かも知らずに何かひとつ小さな小道具を頼まれて作っただけでも名前が載る、あれはもはや、「どんなわずかな労働の成果であれ私たちは他人から横取りしたりしません」という意思表示ないしエクスキューズの表明としか思われないが、そこでの「私たち」はいったい誰か。またその一方で書物においてはまだ、というか今のところ(2014年時点)、関ったスタッフ全員の名前が奥付に載るということは通常ない。出版社の名前は載っても、人の名前としてはその出版社の社長の名のみが載って担当編集者の名は載らないから、それを補うために「担当編集者の○○さんに感謝する」というお決まりの謝辞が「あとがき」の末尾に挿入される慣例になっている。そんな謝辞をわざとらしく書くくらいなら奥付にクレジットすればよかろうと思うが、そういう本は極めて少ない。ブックデザイナーの名が載るケースはごく稀であり、印刷に関しても、やぱり印刷製本会社の名前は出ても実際に現場で働いたオペレーター諸氏の名前がずらっと並ぶということはない。いずれにしても本の背表紙に名前が載るのはおおむね著者だけである。

『坊ちゃん』というタイトルの本があって、夏目漱石、という名前が書いてある。それは、「夏目漱石の『坊ちゃん』」、と呼ばれる。あるいは、「黒沢清の映画」。それはそれでべつに不当なことでもないが、しかしこの「の」は、所有をあらわす「の」ではない。漱石「の」坊ちゃん、というとき、それは、漱石というひとが所有している坊ちゃん、という意味ではないし、漱石がそれのありかたに対してあらゆる決定権を所有している坊ちゃん、という意味でもない。それは、「おたく「の」坊ちゃんはおりこうですね」というときに、そのセリフは「おたくが所有して支配している坊ちゃんはおりこうですね」という意味でないのと同じことであって、「おたくの坊ちゃん」とは、あなたが生んで育てた坊ちゃんであり、その坊ちゃんが何かの拍子に悪心を起こして通り魔殺人なんかをしでかしたらその責任の一半があなたにあるかもしれないところのその坊ちゃん、という意味であろう。子供が幼ければ幼いほど親の責任は大きくなる。例えば八歳の子供が友達をうっかり殺してしまったときの親の責任はとても大きいけれども、もう独立して何十年にもなる、五十歳になる息子が出会い系サイトで出会った女の子を殺したときの、八十歳になる親の責任は、そこまで大きくはないだろう。この点に関して考え方は様々でもあろうが、そんなのは当人の責任であって八十歳の親にはほとんど責任なんかないと考える人も多いはずである。しかし当の親としては、いくつになろうと息子は息子で、客観的に責任はないと例えば裁判で判定されたとしても、主観的には深い責任を覚えざるをえなくて、自責のあまり自殺してしまったりする。作品に署名された名前とは、そういうものであって、つまりはその作品に一定の責任を負う者の署名である。

ひとりの子供が育つまでには、親だけではない多くの人たちの手が必要である。幼稚園の先生、近所のおばさん、友だち、教師、ゆきずりの人たちその他その他、そして子供が人殺しをしたときその責任は、学校の先生も状況次第で少しは負うかもしれないけれどももっぱら親が負うことになっている、そのしるしとして署名がある。いやがらせの手紙やある種の投稿を匿名で書くのは、その発語に対して責任を負わないということであり、無記名投票は不当な責任を過剰に負わされないために無記名にする。映画のクレジットがほとんど偏執狂的にあらゆる関係者の名を載せるのはもはや、手柄を平等に分配するよりもむしろ、あらゆる個々の細部に対して責任の所在を明示することによって、本来この作品に対してもっぱら責任を取るべき「私たち」がその重責からひそかに逃れるためではないのかと勘繰りたくなるのであるが、それはおそらく単なる勘繰りなのであろう。いずれにせよ署名は、その著作なり製作物に対する権利を主張するものでもありうると同時に、しかしそれ以上に、責任の所在を示すためのものでもある。一冊の本の「作者」はよく考えれば「著者」と同一では決してないはずであるにも関わらず、近代以降の慣例として、本の作者イコール著者、という通念が今なおまかり通っているわけだが、この事態にはそういう側面もある、つまり、ある本に責任を持つのは印刷所や編集者や組版デザイナーではなくて著者であるとみなされているということである。著者がもっぱら責任を引き受けるかわりに親権も主張する、というようなことになっている。したがって編集者の名がクレジットされず「あとがき」に謝辞が挿入されるのは、そうして編集者に責任を負わせないようにする優しいしぐさでもあるのだが、同時に、編集者からひそかに一定の権利を奪う所作でもあるのだ。

しかしではこの責任とは何か。作者の責任というものが仮にあるとして、どこまで、何が、その責任なるものなのか。自分はこの作品でこうこう意図している、と思っても、できあがったものはだいぶん異なっていて、著者個人の何か抑圧された意図やら無意識に潜んでいるトラウマやらが図らずも作品に出てしまって何か不快なものになっていたりするときに、それは作者の責任なのかどうなのか、いやそれは作者の意図ではなかったんだからとか、そういう擁護やら反論やらで、おおむね評論というものは成り立っていたりする。しかし、何が作者の意図なのかということと、何が作者の責任なのかということは、本来、互いに全く関係がない。およそ公開された作品というものに共通する点をひとつ挙げるとすれば、いかなる作者においても、そのある作品をあるかたちで公けにしよう、したいという意図があったであろう、ということであり、であるからには、作者の責任というものがあるとしたら、まずは、その作品のかたち、ありかたに対する責任以前に、そのかたちをした作品の社会的存在および流通に対する責任であろうと考えられる。作品がどのような形をしているかについては、例えばある映画においてカメラワークが下手だったり役者が下手だったりあるいは上手だったりするときに、そういう形そのものに対する責任は、カメラマンや役者やその他多くの人々が責任をすこしずつ負うわけだが、そういう形をした作品を世にあらしめたところの最終的責任は、責任担当者として署名した監督が追うということになる。存在形態のディテールに対する責任ではなくて存在に対する責任、つまり世の中にその作品のための場所を少々あけてもらって、そこに作品をあらしめ、いろんな人がそれを見たりきいたりするために時間と労力を使い、おもしろがったり退屈を覚えたりいろいろする、そういうこと全般を生じせしめるそもそものきっかけを生じせしめることへの責任、つまりはその作品のwesenに対する責任である。

とはいえ、例えば次のような場合はどうだろうか。フランツ・カフカが多くの作品を生前には刊行せず、机のひきだしにしまっていて、死ぬときに友達に遺言を残して、刊行されていない自分の書きもののうち、日記等をはじめ幾つかのものは破棄してくれるよう依頼したというのは有名な話である。遺言された親友はマックス・ブロートという名前であったが、マックス君はその友達フランツ君の遺言にしたがって遺稿を破棄するどころか、これ幸いとあらいざらい出版してしまった。友人として、これらのすばらしい作品を焼き捨てるにはしのびないと思ったのかどうか、ともかくフランツ・カフカ作、の書きものとして出版した。いくつかの小説、日記、いろいろなものがいまカフカの作品として読めるのは、このマックス君の心やさしい(かどうかわからないが)裏切り行為のおかげである。たとえば未完の長編『城』などはマックス君が遺言通りに破棄していたらとうにこの世には存在しなかったわけで、この『城』という作品をこの世にあらしめた責任者はふつうに考えればフランツ・カフカ君ではなくマックス君である。でも本の表紙には、「『城』フランツ・カフカ作」と書いてあり、責任者はフランツ君になっている。刊行するつもりが一切ないまま死んでしまったフランツ君はいったいどうやって何の責任をとれるというのだろうか。端的な事実として、フランツ君はOKを出さなかったのだから、『城』という小説が世に存在することになった責任はどうしたってフランツ君にはない。だから、フランツ・カフカ「の」小説『城』などと呼んだりするのは、実はかなり相当に不当なことだといえるのだが、まさかに「マックス・ブロートの『城』」と呼ぶわけにもいかないし、書いたのはフランツ・カフカに違いないのだから他に呼びようもなくてそう呼ぶのである。しかし、そう呼ばれる限りにおいては、この小説が存在流通している責任はフランツ・カフカという名前のひとが負うことになるから、死んでしまったフランツ君に不当な責任を負わせないためには、「カフカの『城』」と呼ぶときにはそのカフカは、生きてものを書いて死んだフランツ・カフカ君とは別人のカフカであるとよく認識しつつそう呼ぶ必要がある。別人といっても、もちろん元は同一人物なのではあるが。

小説をどう書こうか、何を書こうかとあれこれ考え頭を悩ませ、ペンをとってせっせと書いて働き、働いただけで署名せずに死んでしまったフランツ君を、労働主体と呼ぶことにしよう。一方、労働主体の意志にかかわりなく、現在に至るまで作品の存在の責任を負わされているフランツ・カフカを、作品主体と呼ぶことにしよう。責任主体と呼んでもいいのだが、ある理由でそれはふさわしくないので、作品主体と呼ぶことにする(これがつまり、新たに装着された組版ノイズにおいて立ち現われている発語主体に他ならない)。この作品主体は、すでに生身のフランツ・カフカとは別の人格だが、その新たな人格に、改めてフランツ・カフカという、労働主体と同一の名をつけるのである。生身の労働主体はやがて死んでしまうが、そしてフランツ君のように作品を社会的に存在せしめることなく死んでしまったりもするが、労働主体が死んでも、作品が残って流通しそこに名前が書いてあれば、作品主体のほうは未来永劫にわたって責任を負わざるをえない。もちろん責任に伴って時に名誉も担う。生前に日の目をみることなく死んだ作家の作品が死後に評判になっても、その名誉を責任とともに負うのは実は作品主体のほうであって、労働主体は基本的にタダ働きである。ただ、作品主体と労働主体が元々同一人物であるから、自然あの世の労働主体のほうも名誉の半ばにあずかるし、同時に責任の半ばも負うことになるというにすぎない。

ペンネームのあるひとの例で考えればこのことは若干わかりやすい。夏目漱石という作家、これはペンネームで、漱石の作家としての名誉も批判も、漱石というひとが一身に担っているが、これが作品主体である。本名は夏目金之助、これは労働主体で、一生懸命働いて胃病で死んだ。ただこの二人が同一人物だとわかっているから、夏目漱石の担う名誉も責任も、金之助君が分け持っているのである。しかし本当はペンネームがあってもなくても同じことなのだ。ペンネームがあるから主体が二人に分かれるのではない。漱石というペンネームをつけたから労働主体の金之助君と作品主体の漱石君とに分かれることができたのではなく、順序は逆で、もともと誰でも、分かれているのである。そして人によっては作品主体のほうに別の名前をつけてみたくなることがある、それで金之助君は漱石という別名をつけ、フランツ君は別名をつける暇もその気もなかった、それだけのこと、つまり、労働主体のほうが死ぬと、二人の分離が明瞭になるだけのことなのである。労働主体の肉体のほうが生きているかぎり、ペンネームだろうと実名だろうと、労働主体と作品主体は文字通り一心同体であるから、例えば私がどういう名前で何を発表しようと、それが私と同一人物であると知れている限りは結果的に責任も批判も名誉も私が受けることになるだろう、そこで、あたかも作品は作者のものであり、「作者の意図」のもとに統御されてできているかのような現象が生じもする。このとき「作者」と呼ばれるのは、しかし一般には実は労働主体のほうである。ある作品をつくろうと思い、ある意図をもって作品とその生成を統御しようとしてせっせと作業するのは労働主体のほう、しかしながらその意図からはみだして生成していくものがある、そのはみだした部分をも全部ひっくるめて、労働主体のほうが意図したこともしなかったことも全部ふくめて、できあがって現にここにある作品の総体 wesen をここにあらしめ統御しているのは作品主体のほうであって、署名された名は本来こちらの作品主体の名なのだが、一般にはそのように把握されてはいない。署名はただちに労働主体の名であり、責任も名誉も受けるのは労働主体だと信じて疑われないのが通例である。確かに、署名という行為を行うのは労働主体の手であるけれども、そこに記された名は作品主体の名であって、署名という行為は、作品を統御する作品主体に労働主体が名前をつける行為なのであり、権利と責任とをともどもに労働主体が作品主体に最終的に譲り渡す行為なのである。作品「において」読み取られる意志というものがあるとすればそれはすでに作品主体のそれであって、労働主体のそれではない。労働主体のカフカは(遺書によれば)『城』をはじめ多くの作品が不出来だと思ったから破棄を依頼したのであって、つまりはそれらの作品に彼の意図は正しく反映されていないのに、なにゆえそれらの作品から労働主体の意図を読み取ったりできようか。カフカでなくともいかなる作者であろうとも、ひょっとしたら自分のこの作品は不出来だと思っているかもしれない。他人の考えなどわかりようもないであろう。読者が汲み取った「意図」なるものを押しつけられる責任を労働主体に負わせるのは不当である。作品主体になら押しつけてもよいかもしれない、むしろ作品主体とは、そのような不当でありうる「意図」の押しつけをも甘んじて受けるべく仮構された主体だともいえるかもしれない。しかし本来、ここでいう責任とは、繰り返すが、作品製作にあたっての意図に対する責任ではなく、作品のwesenに対する責任である。wesenに対して責任をとるというのは具体的にどういうことなのか、それは、わからない、というか、実際には、とれないであろう、なぜならとりようがないからだ。労働主体と作品との関係は、親子の関係になぞらえることもできようが、作品主体と作品との関係はすでに親子のそれではない。労働主体の意図からすら離れて現にある作品のwesenを統御している主体とは、すなわち作品そのものの主体性の主に等しい。その主体が作品のwesenに対する責任をとるというのは、あるひとりの人間が、自分がこの世に生きていることに対する責任をとる、というのと同じことで、それがどういう意味だか誰にもわかりはしない。自分が生きているということに対して何がしかの責任を負うとするなら、それは、現に生きていることに対して責任を負うことができないという「負い目」を負う責任でしかない。だから責任主体ではなく作品主体と呼ぶのである。

ある作品を需要するにあたって「作者の意図」を汲み取ろうとすることは、一見、とても誠実な行為のように思えるが、一方でそれは逆に、負いきれない責任を不当に労働主体に負わせる行為でもある。誰かが私のところへ来て、あなたの息子さんとちょっとつきあったけど、どういう意図であの息子さんをお育てになったのかわかりませんでした、などと言われたら、さだめし困惑するだろう。「作者の意図がわからない」というのは、それと同じである―「誰それとつきあってみたが、親がどういうつもりで彼を育てたのかわらかなかった」。あなたは私の息子とつきあいたかったのですか、それとも私とつきあいたかったのですか。「親の顔が見たい」という言い回しは、実生活においてさえ、罵倒としてしか使われないものである。私がものを書いたとして、誰かに「どういう意図で書いたのですか」ときかれたら、「こういうものを書こうと思ったのです」と答えるだろう。「何を言いたかったのですか」ときかれたら、「ここに書いてあることを書いてある通りに言いたかったのです」と答えるだろう(むろん作品が不出来だったならば話は別である)。多くの作家はそんなふうに答えたいのだろうと思うが、それでも多くの人は、そんなふうに答えることはせず(おそらくそんな答え方をするとカドが立つからでもあろう)、何かと説明を試みたりする―説明はむろんその気になればいくらでも試みることができるし、その説明をすることで、読む人あるいは見る人がよりいっそう一生懸命に読んだり見たりしてくれるなら嬉しいには違いないだろうから。しかし、その説明を聞いてもらって納得してもらうことが重要なのではなくて、その説明をきいた上で、あるいは、別にきかなくとも、作品を見てくれることのほうが、どんな作家にとってもよりいっそう重要なのではなかろうか。むろん他人のことはわからないから実はそうでもなく、作品を見てもらうことよりも意図を知ってもらうほうが重要だと思う作家もたくさんいるのかもしれないが。

むろんある種のメッセージ性の強い作品においては、労働主体にとっても受容者にとっても、労働主体の意図のほうが作品そのものより重要であると考えられることがあろうし、いかなる種類の作品についても、作品そのものよりも労働主体の意図のほうに興味を覚えるというケースがしばしばあって当然だけれども、それはそういうケースなのであって、そういうケースがデフォルトではないということ、また、そういうケースにおいては「作者」という語が作品主体ではなく労働主体を指すのだということをよく認識しておく必要があるだろう。そしてもっぱら労働主体のことを考えるときにも、注意を払うべきことは多々ある。例えば友達がいて、その友達が私になんだかんだ言うとき、このひとは何のつもりで、どういう気持ちで何がいいたくてこういうことを言うのだろうか等々ととつおいつ考えるのは、ある意味で誠実な行為であるだろう。しかし逆にまた、友達が私になんだかんだ言うとき、その状況にあって友達がそんなような言い方でそんなようなせりふを私に向かって言わざるをえないような仕儀に陥っている、その状況の全てを、その友達の意図というものに還元して責めを負わせることができるとは限らないだろう。

だが他方、私が友達に向かってある状況でなんだかんだ言うとき、なんだかんだ言うそのせりふや、言い方や、それを言うはめに至っている状況全体に対して、私は何の責任もとらなくていいかというと、そんなことはないだろう。私が何か言うことで友達がいやな思いをしたとして、いやな思いをしたのは友達自身の問題であって私の責任ではない、などと常に言うことができるとは限らない。私にはもちろん、誰にいつ何をどのように言うのかに関して適切な判断をすべき一定の責任がある、それは労働主体としての責任である。他人に向かって直接に何かものを言ったりする私というものは、常に肉体とともにあり肉体を動かすことで出力する労働主体であるし、私が何か作品をつくるとして、どういうものをつくるべきか、どういうことはやめるべきなのか、その判断を行うのは労働主体としての私であり、そこには一定の、労働主体としての責任が生じるだろう。労働主体としての私は、自分の作品を、ある一定の意図をもって統御しようとするし、その意図がよりよく反映した作品をつくろうとするはずであり、どうせ見る人読む人は勝手な受け取りかたをするんだから何をつくったっていいんだということにはならないし、自分の意図なるものをなるべく汲み取ってもらえたらいいなあと思って作りもしようし、それにあたって、自分は何をどのようにつくるべきか、つまり何をどのように出力すべきかということについて真剣に思い悩むことにもなろう。しかし、そうした労働主体としての私と、受けとり手である観客なり読者なりというものの互いの距離は、探査機ボイジャーとNASAのオペレーターの間の距離と同じくらい大きい。両者の間には、作品が介在する、つまり出力というものが介在する。労働主体である作者が何を出力すべきか悩んで出す結論と、観客が作品を受容するという出力において何を伝達されるべきか悩んで出す結論とは、ふたたび、切り離されていて、両者の間には断絶があり、この断絶を超えることはできない。逆にいえば、労働主体と受容者とをつなぐ唯一のものは、この断絶であり、この距離である。したがって、この断絶と距離とを考えることによってのみ、作者と受容者は互いに接続することができる、そしてこの断絶と距離とを統べているのが、つまり作品主体なのである。

私がいかに出力すべきか、というのは、言い換えれば、世界から私が何をどのように伝達されるか、ということに他ならないのであって、作品をつくりたいというのは、そういうかたちで世界出力を行いたい、つまりそういう出力のかたちにおいて世界から何事か伝達されたいということを意味するのであり、それ以外ではない。ふつう、作品というかたちで何かを表現したい、とか、自己を表現する、とか、この作品では○○が表現されている、とか言うのだが、別の箇所で述べたように、そのような意味で一般に「表現する」という他動詞を使って言い表されていることがらを言うなら、「出力」で充分であり、必要充分である、そして、「自己を表現する」つまり自分自身を出力する、というのは、よく意味がわからない。出力において「表現する」すなわち出力の結果としてそこに表れるものはまずもって事物であり世界である、そしてその「表現」すなわち自動詞の名詞化としての表現 appearance において、つまり出力において、それに相応するこちらの本質も必然的に表現 appear してしまうのであって、自己表現つまり自己の表現 appearance というのはそういう形でしか起こり得ない。あらかじめ自分を、自己「を」表現するなどというのは、衰弱した言葉使いであるだろう。自己「を」表現などする必要はない。世界を、あるいは他者から何かを、伝達される、ただし能動的に伝達されること、その出力行為においておのずから自己は表現するのであるから。

2014.6.16 / 最終更新;2015.04.06

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