アルプレヒト・デューラー「メレンコリアⅠ」(1514)。西洋近代美術館『記憶された身体 アビ・ヴァールブルクのイメージの宝庫』展図録 (1996) からスキャンしたものを、タテヨコ8分の1ほどに縮小したもの。元のスキャンデータはおおよそ9.5MBほどである。等倍ではよほど大きなディスプレイでない限り画面からはみ出すだろう。実物は18.8×24cmだから、かなり拡大したことになる。ブラウザの機能を借りてさらに縮小拡大が可能だが、ピクセル等倍を超えて拡大を続けると、当然ながらやがてドット化して解体する。一方、ある限度を超えて縮小を続けると、「圧力」がかかって全体が歪んでしまう(すべてのブラウザがそこまで縮小してくれるわけではないが、例えば IE では目下(2014年時点)この現象が観察できる)。iphone や iPad などでは拡大のみ可能なようだが、結局は最初の全画面表示で見るのが一番美しいかもしれない(筆者註=2021年の現在時点では、標準的なブラウザでは限度を超えた拡大縮小はできないように見うけられる)。
板にインクをつけて紙を置いてペタッと刷る版画は、一種のスキャンの産物に他ならない。デューラーが彫り、スキャンして作った版画を写真に撮ったものを図録に印刷したものをスキャンしたデータをブラウザ(なりアプリなり)で表示させているものがこれである。この幾重もの過程を経るうちに様々な劣化ないし不純化が生じる。例えば端のほうには、「アミテン」と呼ばれる点々が見える。これは、スキャンした図録のページの紙の繊維の網目で、よく見ると画像全体をこの網目が覆っているのがわかる。つまりこれをスキャンしたスキャナーは、当然ながら、「デューラーの版画」をスキャンしたというよりは、デューラーの版画が図版として載っているページ紙をスキャンしたのだ。スキャナーは単なる機械だから、天才デューラーが彫った線と、紙の繊維が織りなす線とを意味的に区別はしない。スキャナーにとって線は線であり、点は点であるにすぎない。どういう線をどこまで知覚せよと命じるかは、あくまでも人間に委ねられている。そして表示の際に望ましい線だけがあまねく最も望ましく見えるズーム率を選ぶという恣意も、人間の側にある。
最も望ましいと思えるズーム率を探り当てて表示させたときに、画面上にことのほか美しく出現する光は、しかし果たしてデューラーが見たのと同じ光なのかといえば、大いに疑わしい。デューラーにせよレンブラントにせよ印象派にせよ、古今の画家たちが紙なり布なりの上に何とかして「光」を現出せしめるべく腐心してきた、その工夫と成果が、例えば左上にある彗星から発する細密な効果線となって全方位的に放射するのだが(厳密にいえば彗星はそこにはなく、効果線の束およびその結束点における空虚があるのみなのだが)、天才たちが苦心惨憺の果てにつかみ取った光を、ディスプレイはいともたやすく「再現」してしまう。ディスプレイはそれ自体発光するからである。