Litterae Universales / humanismus

Mono Chrome

世界は灰色だ。

だがモノクロの画面には、あらゆる色彩が孕まれている

と考えたのかどうか、近代の「夜明け」は、モノクロ印刷術とともに始まった。白い紙に、黒いインク。黒い液体で、白い頁を隅々まで埋めつくすこと―黒胆汁文化がたちまちのうちに西洋文明圏を席捲し、グローバルにびっしりと地上を覆い尽し、そして、今に至る。真実、あるいは真理の探究が、教会堂においてではなくもっぱら書物の上で行われてきたのが近代だというならば、近代において真実の世界は常に必ずモノクロだった。世界はバラ色だとか、世界は色彩に満ちているとか、そういうことが書かれるとして、そのバラ色、極彩色が真実そこに、つまり真実としてそこに呈示されるならばそれは白い紙の上に黒い字で印刷されているその陰影=印影においてすでにくっきりと立ち現れなくてはならなかったはずである、でなければ複製技術で増殖流通するテクストが何事かを「真実」伝達できるはずなどないのだから。中途半端に色があるよりは、完全にモノトーンで、言葉だけがあるほうがいい。「バラ色」と書いてさえあればそれは誰が読んでもバラ色で、いやオレにはそれバラ色に見えないよとかそういう面倒な齟齬は決して生じない。色が真実であるためには、純粋に名であるしかなく、色の名が純然と名であるためには、色などないほうがいいのだ。

と考えたわけでは別になくて、単に経済的技術的制約によってカラーよりもモノクロ印刷のほうがはるかにすみやかに普及したにすぎないにせよ、その制約のもとで世界は己のモノクロ度を極限まで探究してゆくことになった、しかも、音声なしで。しかも、運動もなしで! じっと静止しているばかりで、音も聞こえず、色もないところで、どこまで世界を記述しきることができるのか? 世界はモノクロの陰影だけでできていて、静寂のうちに凝固している、それを唯一無二の前提条件として、にもかかわらずそこでどうやって可能な限り生き生きと息づくことができるのか? その問いを、その条件づけを、そしてその問いに答えようとする営み、回答への切望、挫折、それらすべての交錯の形、それをもたらしたある強烈な力動を「メランコリー」と呼んでみよう。色も音声も運動も至極手軽に複製できるようになってしまった現在、それらの営みの全ては無駄になってしまったのか、全ては空しかったのかと問うその問いもまた、そうするととてもメランコリックだ。「これまで必死にやってきたことは、一体なんだったんだ……?」そう自問するのは誰かといえば、つまりテクストであり、テクストを構成してきたところの言葉であり活字であり、タイポグラフィー、ブックデザイン、印刷技術であるわけだろう、そして書物というものと。彼らにとってこのいわゆる「アイデンティティの危機」はかなり深刻だ。音声、色彩、運動、それらはもう他の人がやるからいいですよ、肩の荷を降ろしてくださいねと言われたってそう急には適応できずに「荷下ろしウツ」になるのが人の常というものなのだ。そんなわけで世界は今や再び音声と色彩と運動に満ちみちており、しかも同時に、相変わらず灰色である―ということはしかし、つまりべつだん世界は何も変わっていない、ということでもあるわけだ。

灰色の中から、世界は立ち現れる。まだ鳥も鳴かないしらじら明けの墨絵のような陰影から、少しずつ夏木立が姿を現すように。重なる枝葉のその一叢の輪郭から日の光が生まれはじめるのと、最初の鳥が起き出すのがほぼ同時で、限りなくgrayに隣接するgreen、そのグラデーションが、起きろ起きろと呼びかわす雀たちの賑わしい囀りにつれてたちまち回復していく様子はあたかも、それが見失われていたことなど一時もなかったかのようだ。張り出した木の根がささやかな庇になっている土手のくぼみ、潜り込んでいたその枕元にランタンよろしくヤブショウガの白花がうっすら点っていると思っていたのが、実はてっぺんがまだくるくる巻いた小さい蕨だったことがわかって、そのてっぺんの白いふわふわした毛とか、フラクタル状に展開する葉の精妙なつくりなんかも見えてくると、なんだかちくちくすると思っていた手の甲には、地面から突き出た笹根にひっかかれた細い赤い線ができていたりして、周囲の陰影にそれまでいともしっくり埋まっていた自分自身にも実は独自の色彩が伴っていたことが否応なく再認される。草葉から、土から、大気から、自分が改めて切り離される、それは少し惜しいようでもあるけれども、もちろんほっとする、嬉しいことでもある、そうでなければ全く困ってしまうわけなのだからね。そうやって切り離されるからこそ、しょうがなくてやれやれとくぼみから這い出して立ち上がって歩き出したりもできるわけだし、鳥の声 を鳥というものの声として―世界の声とか、それ自体が世界であるところの内面の声とかそういうたわごとでなく―ふつうに鳥の声として晴ればれと認識することもできるわけだ、うまく捕れれば食えもする、そういうものが発している今日の生活の声として。鳥の声、木の葉のざわめき、世界は音声に満ちている、音声と、色彩、形象に。さらには手触りと、味と匂いとをそこに付け加えようかどうしようか? それは少しく迷うところだ、なぜなら味と匂いと手触りはまだウェブ上にアップロードできないから、もっともそれも遠からぬ気もしないこともないけれど。

メランコリーとは何か、という問いは、それほど重要なものではない。それは「緑」と同じように「名」にすぎず、その「実」を規定することは不可能で、それを試みる意味もそれ自体においては別にないだろう。メランコリーとは「メライナ・コレー=黒い胆汁」という意味であるといったところで、では黒胆汁とは何か、なぜ黒くなければならないのか、黒いとはどういうことかといった問いは、クロロフィル=葉緑素がなぜ緑色なのかという問いと同じくらいトートロジックで無意味だ。あらゆる色を包摂した色なき色の総称が黒なのだとして、「みどりの黒髪」が黒の増幅の謂であるほどに緑と黒とは隣接してい、宇宙人とかモンスターとかの血がおおむね緑なのは、つまるところ赤と緑とが(人間とモンスターのように)容易に反転可能だからで、赤と緑は相互に反対方向からグレーに、黒にひしひしと肉薄していくのだ。暗い黒緑から鮮やかな黄緑に至る緑の無限の階梯の中から、秋ともなれば橙も朱も緋も黄も紅も、金銀さえも勝手放題に燃え上がり、山野はおろかそこらの住宅地さえ目くるめく爆裂的な色彩ぶりに惑溺する。よくも皆こんなめちゃめちゃな中で平気で歩いているものだと感心しながら、それでいて、実はこの一見狂乱的なありさまこそが、真実の世界の姿なのではないかと思わなくもない、葉とは本来赤いもので、いつも緑だと思っているのは実は仮の姿、しらじら明けの灰色の続きの色にすぎないのであり、夏の間ずっと葉が緑色に見えている間はつまりまだ夜が明けきっていなくて、秋十月のほんのいっときだけ、真実の光が射してものの本来の色彩を照らし出すのではないのか、植物はみな、赤い血の色をしているのだと? それどころか「緑」とは本当は「赤」の謂にすぎないのだと? そんな、熱に浮かされたようなヘモグロビンの増殖が単なるクオリアの惑乱にすぎないとしたら、その白昼夢から醒める頃合に冴え冴えと立ち現れる鈍銀色の冬枯れの景色、限りなくモノクロに近いその鋭角の陰影こそが、では、夜明けの光景だ、ということになりはしないのか。夜明け、黎明というものが、迷妄を去ること―混沌に埋没してあることをやめ、己と世界との輪郭をくっきり見分けられるようになること、そのために必要な澄明な光の訪れを意味するのであるならば? それならば、色彩などむしろ不要なのだ。名しかなく、実体のあくまで不明な、自分が「緑」だと思うものが事実どのようにどの程度「緑」なのか根本的に計測不能な、色などというものは。人がいつでも春を待ち望んで来たのは、冬枯れの山野に色が足りないからではなくて、寒いからだ。寒くて、食べ物がないからだ。寒くなく、衣食住に不自由がないなら、世界が限りなく灰色に近いからといってそれが何だろう、澄明な光さえあれば? なぜならモノクロの陰影には、あらゆる色彩が孕まれているのだから。

2010.3.22 | 再掲 2020.11.21

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