ダ・ヴィンチによる大洪水と世界の没落の記述
(……)大気は、陰にこもって雲が重く垂れ込め、雑多な風が疾駆するところ、いきり立っているのが見えた。風は、間断なく降る雨に包まれ、あられ(?)がこれに入り混じり、引き裂かれた木の無数の大枝が数限りない枯れ葉を交えてあちこち引き廻されていた。激昂する風に古木が根こそぎにされ、折れ砕かれるのが見えた。また、河の流れに既に蝕まれていた山が崩れ、それがこの河に落ち込んで谷を塞ぐのが見えた。すると、河は嵩を増して岸に溢れ、住民の集う広い地域一体に氾濫した。山の頂きに幾種類もの動物が、逃げてきた男や女、子供らと一緒にひしめいているのがお前にも見えたことだろう。動物どもは怯えきっていて、飼い馴らされたようにまるでおとなしい。原野は一面水浸しになって、波の殆どいたるところに、テーブル、寝台、小舟、そのほか多種多様な筏の姿が見えた。必要に迫られ、死の不安に駆られて組み立てられたもので、そこでは女や男が子供たちを連れ、猛り狂う風に恐れ慄いて、皆てんでに絶叫し、泣き叫んでいた。風は強い嵐となって大量の水を転がし、ついでに溺れ死んだものの屍体をも押し転がした。水より軽い物は雑多な動物たちでどれも一杯だった。しかもこのものどもは、互いに争うことなく、恐怖に震えてうずくまっていた。狼、狐、蛇など、そのほかありとあらゆる種類の動物たちが死を逃れようとしていたのだ。岸に激突する波は、その都度繰り返して溺れ死んだ屍体を伴って激突し、この衝突がまだ生きていた者をも殺してしまう。
二、三、男たちの群れが、武器を手に残された僅かな空き地を護るのが、またお前に見えたことだろう。彼等はこの武器で、逃げ場を求める獅子、狼など、猛獣どもに立ち向かっていた。おお、暗い大気の中に人は何という恐ろしいどよめきを聞いたことか。大気は激しい雷鳴に打ち震え、それを一瞬稲妻が貫いて、恐ろしい勢いで走り抜け、阻むものすべてこれを突き抜けた。おお、凄まじい鳴動から耳をまもろうと、両手で耳を塞ぐどれ程多くの人びとをお前は見ることができたことか。荒れ狂う風と、雨と、天のどよめきと、そして激しい稲妻と、これらが起こす凄まじい鳴動から。
だが、目を閉じるだけでは足りない人びともいた。彼等は両手を重ねて目を覆い、人類に神の怒りがもたらした身の毛もよだつこの殺戮を見まいとした。
おお、そこはどれほど悲嘆の声に満ちていたことか、おお、どれほど多くの怯えた人たちが岩から身を投じたことだろう。樫の巨木の大枝が人びとを一杯に積んで、凶暴な風の力に空中を運ばれていくのが見えた。
どれほど多くの小舟が転覆したことか。まだ無傷のものもあれば、もうばらばらになってしまったものもあるが、そのいずれも、死の兆候を逃れようと、挙動も動作も悲痛なままに奮闘している人びとで一杯であった。その一方で、余りの苦痛に耐えきれず、もうどうしようもないまま、絶望的な仕草で自殺する者がいた。その多くは高い岩から身を投げたし、両手で自分の首を絞めもした。また一方、我が子を掴み、突如地面に打ちつける者もいれば、武器で自分を傷つけて自殺する者も、跪いて神の恩寵に身を委ねる者もいた。おお、いかに多くの母親たちが、溺れ死んだ息子のために泣いたことだろう。彼女らは息子を膝にかかえ、天に向けて両手を高く伸ばし、涙で声を詰まらせながら、神々の怒りに呪いを吐きかけた。ある者は両手をよじり、組合せた指を噛み、血まみれにそれを食いちぎりながら、果てしない苦痛、耐えがたい苦痛に膝まで胸を折り曲げた。
家畜どもも、馬、牛、山羊、羊と、もう洪水に取り囲まれ、まるで島のように見える山の頂きの一番高いところにひしめき合っているのが見えた。その中央で彼等は上へよじ登ろうと、仲間の背を乗り越えていく。そしてお互い最期まで闘い抜いて、多くは食べるものもなくなって死んでいった。
そして、すでに鳥たちも、人やそのほか生き物の上に止まっていた 。事実、生き物が占めていない空き地など、片鱗すら見当たらなかったのである。死の協力者たる飢えが、もう殆どの動物の命を奪っていた。一方、屍体は既に膨れ上がって、深い水の底から浮かび上がり、水面に漂いながら、流れが入り混じる波の中、相互にぶつかり合い、空気で膨らんだ球のように衝突の場からまたはじき返されていた。これらは、先に触れたあの死者たちの末を知る手がかりであった。そしてこの災禍の上には、暗い雲が大気を覆い、蛇行する稲妻の閃光がこの雲を貫いて、あちこち闇の暗がりを照らし出しているのが見えた。
(ヨーゼフ・ガントナー『レオナルドの幻想(ヴィジョン)――大洪水と世界の没落をめぐる』藤田赤二・新井慎一訳、美術出版社、1992、p.319-321。背景図版は同書より「丘の上の都市を襲う大洪水」1515年頃? 黒チョーク、158×210mm, Windsor Castle Royal Library)