Litterae Universales / humanismus

記憶術と想像力―F.イェイツ『記憶術』に学ぶ(1)

1 「古典的記憶術」概要(第1章より)

フランセス・イェイツの名高い著書『記憶術 The Art of Memory』は1966年に刊行され、邦訳は1993年に水声社から出て(玉泉八州男監訳)、翌々年にさっそく版を重ねている。「序」の冒頭にはこうある―「本書の主題は、大半の読者には馴染のないものであろう。ギリシア人は多くの学芸や技術を発明したが、記憶術というものをも発明し、それが他の技芸と同様にローマからさらにヨーロッパの伝統へと下っていったことを御存知の方は、殆どあるまい」、そして、「記憶術の歴史について、近代になってから英語で書かれた書物はない。他の言葉でも書物、論文ともに寥々たるもの」であったと。今でこそ(2020年)日本でも記憶術なるものの概略を知る者は決して少なくなくなったし、関連文献も増え、パオロ・ロッシ『普遍の鍵』も翻訳されて、ひとまずどれを参照するか、どれをどのように参照するかちょっと迷うくらいによく耕された畑となっているが、それでもやはり、まずはイェイツの案内に従って勉強を始めるのがよいだろうというのは、記憶術についての(近代)初のまとまった書物をものするというところから、この本は記憶術の歴史や時代々々に担った意義などについて克明に一から説き起こしてくれるからである。「序」の続きには以下のようにある。

これは、記憶に「場」と「イメージ」を刻み込む技術を通してものを憶えこもうとする技である。これは通常「記憶技術」と名付けられているが、近代では人間活動の分野としてさしたる重要性を認められていないものである。だが、印刷術がでてくる前の時代では、訓練された記憶はきわめて重要であったし、記憶におけるイメージの操作は、つねにある程度まで人間心理全体に関わる事柄なのである。さらに、この術は、記憶の場としてその時代の建築を使い、そこにおくイメージとしてその時代のイメジャリーを用いる都合上、他の技芸同様、古典時代、ゴシック時代、ルネサンス時代といった時代区分をもっている。また、この術の純粋に記憶記述に関わる側面は、古代でもその後の時代でもつねに存在し、問題追及の事実的基盤といったものを形造っているのだが、術そのものの探求はこの技術の歴史だけでこと足れりというわけにはいかない。記憶の女神ムネモシュネを学芸を司るミューズの神々の母とギリシア人は呼んだが、人間のもつ能力の中でも最も根源的で最も捉えがたいこの能力の訓練の歴史は、われわれを深海にまで引きずりこまずにはおかないのである。

(p.15-16)

「記憶におけるイメージの操作」が「つねにある程度まで人間心理全体に関わる事柄」であって、この「操作」と記述のわざとその歴史が「人間のもつ能力の中でも最も根源的で最も捉えがたい」とされることに声高に異議を唱える向きはおそらく多くはないだろう。「記憶」、「イメージ」、どちらもそもそも単独でさえ、少なくとも脳科学発展途上の現代においてはなお茫漠として掴みがたいものである。「記憶」は、それ抜きではいわゆる見当識を備えた自我なるものが成立しえないことは誰もが予測しているにもかかわらず、それがどのような取捨選択のプロセスを得て形成されてゆくのか、その仕組みはいまだにほぼ全く解明されてはいないのであって、いかなる形であれ「記憶」という語が記載されあるいは語られるときには、それについて何が書かれ語られようとも論駁しようのないもどかしさに似たものを覚えるし、「イメージ」はむろんここでは日本語の「イメージ」ではなくて「像」、視覚的に認知可能な像を指すにしても、例えば「脳裏にありありと浮かぶ」たぐいの「像」なるものがいかにして認知されるに至り、またそこで認知されているものはそもそも何なのか、というよりもその認知はそもそもいったい何事なのかということも、3000年紀に至ってもなお紀元前よりも幾ばくかなりと判然としたかといえば全くそんなことはないのである。記憶とか、イメージとか、そうした語を用いてそうしたことどもを語る文献はきりもなく霏々と降り積もりゆくが、降れば降るほど視界は白くおぼろになりまさるのを、古代から連綿と続いてきた「ものを憶えこむ技術」、その中に用いられた各種の「イメージ(視覚像)」の種類と使われかた、そしてそういう「技術」がどういうものだとして古来考えられてきたか、というその歴史的な局面に限ってこれらふたつの語とその関連を学び、考えるというのは、むしろたいへん心休まる作業、霧にまかれて出口の見えない苛立たしさとも不安とも無縁な、地に足のついた探求作業ではあるまいか。そういう意味では記憶術史を学ぶことは「われわれを深海にまで引きずりこむ」どころかむしろ、白い霧海の迷路から引っ張り上げてくれるような晴朗な営為なのではないかと思う。

テッサリアの貴族スコパスが催した祝宴の席上、ケオス出身の詩人シモニデスは、主人役に敬意を表して抒情詩を吟じたが、そこにはカストルとポリュデウケスの双子二神を讃える詩行も含まれていた。スコパスは、狭量にも、この称讃詩パネジェリックの謝礼は約束の半分しか払わぬ、差額は詩の半分が捧げられている双子神から受けとるがよい、と詩人に告げた。暫くして、シモニデスの許に、面会を求める若者が二人外で待っているとの伝言が届けられた。祝宴の席を抜け出し外に出てみたが、誰も見当らない。だが、彼が座を外していたわずかの間に、大広間の屋根が崩れ落ち、スコパスはじめ客人は一人残らず瓦礫の下敷となって果てた。いずれの死体も損傷がひどく、埋葬すべく引き取りに現われた身内の者にさえ見分けがつかない。しかし、シモニデスは、人々が座っていた場所を覚えていたので、どの遺体が誰のものか親族に教えてやることができたのである。姿を見せぬままの訪問者、実はカストルとポリュデウケスの双子二神は、崩壊直前にシモニデスを祝宴の場から呼び出すことによって、称讃詩で歌われた分の報酬を気前よく支払ったのだった。そして、この経験は詩人に、彼が創案者と目される記憶術の諸原理を、思いつかせる契機ともなる。死体を識別できたのは、列席者が占めていた場所を記憶していたからに他ならない点に着目した彼は、秩序だった配置こそ確実な記憶にとって不可欠なものであると思い至ったからである。

彼の推論によると、この[記憶]能力を育みたい者は、一連の場を選定し、頭の中で、記憶したい事柄を意味するイメージを形づくり、これらのイメージをそれぞれの場に貯えておかねばならない。その結果、場の秩序が事柄の秩序を維持し、事柄のイメージが事柄そのものを表すことになる。かくして、われわれは場とイメージを、それぞれ蝋引書板とそこに記された文字として、用いることになる。

シモニデスの記憶術発明を巡る話は、キケロがその『弁論家について』(De oratore)の中で記憶を雄弁レトリックの五段階の一つとして論じているくだりに、生き生きと語られている。そこには、古代ローマの雄弁家が活用した「場」(loci)と「イメージ」(imagines)による記憶術の概略が紹介されているのだが、古典的記憶法(mnemonic)の概説は、このキケロによるものの他、さらに二篇あり、これらもまた、記憶を雄弁術の一要素として論じた雄弁に関する論文の形で、われわれに伝えられている。一つは作者不明の『ヘレンニウスへ 第四書』(Ad C. Herennium libri Ⅳ)に収められたもの、いまひとつは、クインティリアヌスの『弁論術教程』(Institutio oratoria)に収められたものである。

古典的記憶術の歴史を学ぶ者がまず銘記すべき基本的事実は、このアートが、演説者が淀みなく正確にそらで長広舌を振いうるように記憶力の強化を狙った技術として、雄弁術の範疇に属したという点である。実際、記憶術がヨーロッパの伝統を広く生き延びえたのは、まさに雄弁術の一要素としてであり、その伝統の流れにあって、人間活動の全領域において誤ることのなかった案内役、すなわち古代人が、記憶力強化の規則と型を定めたという事実も、比較的近代までは、およそ忘れ去られることはなかったのである。

記憶法の一般原則を理解するのは難しいことではない。第一段階は、一連のlociすなわち場を記憶に刻み込むことである。例外なきにしも非ずとはいえ、もっとも頻繁に用いられた記憶のための場システムの型は、建築物の類であった。その間の過程を一番分りやすく解説しているのが、クインティリアヌスである。一連の場を記憶の内に形成するためには、ある建築物をまるごと記憶せねばならない、と彼はいう。それも、できるだけ空間的広がりをもち、同時に変化に富んだ場所、たとえば、前庭広場、居間、寝室、客間などを、そこに配された彫像その他の装飾物一切をひっくるめて、演説を思い出させる鍵となるべきイメージ―一例としてクインティリアヌスは錨や武器を用いてみよと述べている―が、次に、建物内部の記憶された個々の場に、想像の上で配置される。この作業が終わり、諸々の事実の記憶を呼び戻す必要が生ずると直ちに、すべての場は順次立ち寄られ、さまざまな一次預け物がその保管者に請求されることになる。古代の演説者が雄弁を振るいつつ、想像の上で自分の記憶に用いた建物内を動き回り、記憶した個々の場から、自ら配置ずみのイメージを引き出している姿を、われわれは思い描いてみる必要があろう。この方法を使えば、主要論点は確実にあるべき順序で記憶される。何故なら、その順序は、建物内の場の連なりの順序によって固定されていて動かないからである。クインティリアヌスがイメージ例として錨と武器を挙げたというのは、彼が、ある時点では海軍に関する事柄(錨)を、別の時点では軍事活動(武器)を扱う演説を念頭に置いていたことを示しているかもしれない。/(……)

古典的記憶術が運用可能な記憶技術原理に基づくことを認識するのは重要ではあるが、といって、たんに「記憶技術」(mnemotechnics)のレッテルを貼って片づけてしまっては誤解を招くもとともなろう。三篇の古典的文献が物語るのは、信じがたいほど強烈な視覚上の印象に依存している、より深い技術のように思われるからである。たとえばキケロは、シモニデスの記憶術発明のきっかけとなったのは、記憶における秩序の重要性の発見だけではなく、視覚が五感の中でもっとも強いものであるとの発見でもあった点を強調している。

賢明なシモニデスによらずとも、いずれ誰かによって確認されたことだろうが、われわれの心にもっとも完全な像が結ばれるのは、その対象が五感を通して心に伝えられそこに刻みこまれる場合である。だが、五感の中で一番鋭敏なのは視覚であるから、耳とか省察によって感知されたものは、さらに眼によってじっくりと心に伝達された場合にこそ、もっとも容易に記憶されうるのである。

古代ローマの建物の間を巡り、透徹した内なる眼をもって諸々の場を、その場に貯えられた諸々のイメージを見ると即座に演説内容と語句を口に上らせえたというキケロの人為的記憶力、これを表すのに「記憶技術」ではいかにも貧弱だろう、だから、このような過程を表わすのに、私は「記憶術」(art of memory)という言い方の方を用いたいと思う。

記憶力と呼ぶに値するものなど全く持ち合わせていないわれわれ現代人も(……)ときとして、自身の生活や職業にとって何ら決定的重要性をもたない、いわば自分だけの記憶技術を用いる場合はあるかもしれない。だが、印刷術に恵まれず、ノートをとったり講演草稿をタイプしたりする紙とてなかった古代世界においては、訓練された記憶力のもつ重要性はすこぶる大きかったはずである。そして、この古代の記憶力は、古代世界の美術や建築という視覚芸術の反映でもある術、強烈な視覚による記憶というわれわれの失ってしまった能力を支えとする術、によって訓練されたのである。「記憶技術」なる語が、だから、古典的記憶術の説明として間違っているというわけではない。しかし、そう呼んではこのきわめて神秘的な事柄を実際より単純にみせてしまう感じは否めないだろう。

(p.21-25)

「記憶技術 mnemotechnics」と「記憶術 art of memory」のどちらがよりふさわしい呼称かというのは、それなりに難しい問である。要はこうしたワザがtechne/technicと呼ばれるべきものなのか、あるいはars/artの範疇に入るものなのかという問題に外ならず、またこうしてその議論を日本語で行う場合にはこの問題にさらに、日本語あるいは漢字で「技」とか「術」「芸」と呼びならわされるようなものがそれぞれテクネーtechneとアルスarsのどこにどう当てはまるものなのかという問題が絡んでくるからで、この件はとうてい一言二言で片づけられる話ではない。「美術や建築という視覚芸術の反映」「われわれの失ってしまった能力」「きわめて神秘的な事柄」などの文言を見るに、「「記憶術」(art of memory)という言い方の方を選びたい」というイェイツのこの選択は、近代における「芸術」概念に強く引っ張られ、かつ、古代人の視覚像操作なるものをやや少々誇大に神秘化しすぎていることによるものかという気がしないこともないのだが、techne/arsおよび「技」「芸」「術」の用語問題は改めての別稿に譲るとして、ここではイェイツの選択に従って「記憶術 ars memorativa」という呼称をそのまま受け入れることにする。上で非常に要領よく紹介されている「古典的記憶術」の概要のみを見れば、あらかじめ構想した演説を淀みなくこなすためのテクニックないしノウハウ、に他ならないのであるから、やはりむしろtechnicに属すべきもののように思われるけれども、他方、後述される中世から近世、近代初期におけるこのワザの展開に鑑みれば、記憶術と称するこのワザを総じてtechneではなくarsの範疇に入れることこそ至極もっともなように思われてもくるどころか、むしろこのars memorativaが近代「芸術art」概念の成立に与えた大きな寄与をこそ考えてみるべきではないかとすら予測されるからである。しかしそういう自儘で放恣な考察にいたずらに入ることは避け、ここではあくまでもイェイツの文に従ってもう少し古典的記憶術の勉強をしておきたい。

「名は伝わっていないがローマのある雄弁術教師が、紀元前86-82年頃、教え子(ヘレンニウス)のために記した「便利な教科書」として「古典的記憶術の歴史上きわめて重要であ」ったところの『ヘレンニウスへ』の「題名が、中身を少しも表わしていない(……)とは、いささかいまいましい」とイェイツは言う。「歴史の巨大な重みが『ヘレンニウスへ』の記憶力を扱った部分にのしかかっている。そこでは記憶力教授に関するギリシアの種々の文献が参考にされているのだが、それら雄弁術を扱ったギリシアの論文はおそらく一つとして現存しない。つまり、同書だけが、この問題を扱った残存する唯一のラテン語文献なのだ。なぜなら、キケロにせよクインティリアヌスにせよ、その論述は完成した論文とは言い難いし、おまけに、読者がすでに人為的記憶力とその述語に通じていることを前提として書かれているからである。したがって『ヘレンニウスへ』こそがギリシア、ラテン両世界における古典的記憶術を知る上で欠くことのできぬ主要文献、唯一の完全な文献なのだ(……)古典的記憶力がいかなるものであったかを解き明かそうとするすべての試みは、『ヘレンニウスへ』の記憶力を論じた箇所に大きく頼らざるをえない。また、西洋の伝統における記憶術の歴史を解き明かそうという、いまわれわれが手がけているような試みも例外なく、このテクストを主要文献として、絶えずそこに立ち帰る必要があるのである」というので、イェイツはしばしこの「主要文献」をなぞりつつ、「場lociとイメージimaginesの記憶術の要点をより詳しく検討してゆく。

人為的記憶は、個々の場とイメージから成り立っている(Constat igitur artificiosa memoria ex locis et imaginibus)。これが、幾世代もの間延々と繰り返されてきた型通りの定義である。「場」とは、記憶によって容易に把握できる、たとえば、家、円柱の続く柱間空間、人目につかぬ人隅、アーチ、といったような場をいう。イメージとは、われわれが覚えていたいと思うものの形、目印、似姿(formae, notae, simulacra)を指す。たとえば、もし馬やライオン、あるいは鷲の類を思い出したいならば、われわれはそれらのイメージをそれぞれ特定の「場」に配置せねばならないことになる。/(……)/(……)

「場」の形成は最も重要である、何故なら、同じ一組の「場」が異なる対象を記憶するのに繰り返し用いられることがあるからだ。一組の事柄を覚えるためにそれぞれの場に配置したイメージは、もはや不要となれば、色褪せ消えてしまう。しかし、「場」はそのまま記憶に残り、別の一組の対象を表わす別の一組のイメージを配置することによって、再度利用できるのだ、というわけで、「場」は、書かれた文字を消せば、すぐ次の文字を書くことのできる蠟引書板のようなものとなる。/(……)/(……)

記憶の「場」は互いに似すぎていてはならない。たとえば、円柱が列なる空間などはよくない。互いに似ているため混乱を招くからである。また、大きさも程良いものでなければならない。大きすぎては、そこに配されたイメージがぼやけてしまうし、逆に小さすぎては、イメージの配置がごちゃごちゃしてしまうからである。さらに、それらの場はあまり明るすぎてはならない。それでは、置かれたイメージがチカチカ光って見えにくくなるからだ。逆に暗すぎては、影のせいでイメージが曖昧になってしまう。「場」同士の間隔も、程良い距離、まあ三十フィート程度にすべきだろう。「肉体の眼と同じく想像力の眼も、見る対象を近づけすぎても、遠ざけすぎても、見えにくくなるもの故」。

比較的経験の豊かな人なら、自分の望むだけの数の適切な「場」を用意することが簡単にできるだろう。だが、十分有効な「場」を持ち合わせていないと思っている者も、その弱点を補うことは可能である。「何故なら、想像力はありとあらゆる地点を取り込み、心の中で意のままに、ある場の背景を組み立てることができるからだ。」

(p.27-29)

これは「場」についての記述だが、イェイツは「場の規則についての話の最後に辿りついて、私がもっとも強い印象を受けるのは、これらの規則のもつ視覚上の驚くべき正確さである。古典的に訓練された記憶においては、「場」相互間の空間は測定可能であるし、「場」の照明も予め計算されている」と驚嘆した上、さらに、場の選定に続いて「いかなるイメージを選ぶべきか」について述べられた箇所を読み進めながら、「ここでわれわれは、この論文中もっとも関心を引く驚くべき論述の一つに出会うことになる」という。

自然こそが、われわれのなすべきことを教えてくれる。日常生活においては、陳腐で見あきた、つまらない事物を目にしても、大抵覚えていられないものだ。というのも、心が何か新奇で桁外れのものによってかき乱されるわけではないからである。これに反して、もし、途方もなく卑しいとか、不名誉であるとか、異常であるとか、信じ難いとか、馬鹿げているとかいうものを見たり聞いたりした場合は、それを長い間覚えているのが普通だろう。(……)

従って、われわれは、記憶にもっとも長く留まる種類のイメージを設定すべきなのである。そのためには、それぞれについてできるだけ目立つ姿をしたものを確保すること、雑然とぼやけたイメージではなく、力あるイメージ(imagines agentes)を置くこと。それらのイメージに、並外れた美もしくは極端な醜さを付与すること。イメージのいくつかを、たとえば、王冠とか紫衣とかで飾り、姿かたちがより際立つようにすること。あるいは、イメージを何らかの方法で、たとえば血で汚すとか泥をなすりつけるとか赤絵具を塗りたくるとかして醜くし、その姿をより目立つようにすること。なお、何らかの喜劇的印象をイメージにつけ加え、より確実に思い出しやすさを狙うことも考えられよう。実在する場合に思い出しやすいものは、それが絵空事の場合にも、同様に速やかに思い出されるものだからである。もっとも、次の点を常に心に銘記する必要がある―絶えず心の裡で、もとの場を余すところなく駆け巡り、個々のイメージに活を入れることを。

(p.31)

時代がはるかに下った18世紀、視覚に対して苦痛すれすれの負荷をかけることで心身が賦活される、と論じたエドマンド・バークの崇高論などがゆくりなく連想されるのであるけれども、古代において「明らかにこの著者は」とイェイツは言う、「美醜を問わず、また滑稽、猥褻を問わず、ともかく強烈で変ったイメージを通して心情面に影響を引き起すことにより記憶を補強する、という考えで一貫している。しかも、彼が、人間のイメージ、つまり、王冠や紫衣を身につけ、血塗られ、あるいはペンキで汚された人間の姿、何らかの活動に演劇的に携わっている―何かに従事しつつある―人間の姿、それを念頭においていることは確かである」。後世の「世界劇場」、あるいはタロットカード、いくぶん秘教的な擬人化をベースとする伝統的イコノロジーの発端はまさしくここにあったのかと思わせられる話なのだが、こうした側面をよりくっきり示す事例として、続いて『ヘレンニウスへ』から次のような「イメージ例」が引かれている。

われわれは、自分がある訴訟における被告側弁護人であると想像せねばならない。「告発者は被告がある男を毒殺したと申し立て、その犯行動機は遺産の入手にあると告発し、犯行には多数の証人および従犯が存在すると主張した。」われわれは、この事件全体に関する記憶体系を形づくりつつあるわけだが、まず最初の記憶の「場」に、依頼人に対する告発内容を思い出させるイメージを置きたいと思う。以下がそのイメージである。

われわれは、問題の男と個人的知り合いであるならば、彼が病床に横たわっている姿を想像してみる。相手を知らない場合は、ともかく誰かを、ぱっと思い浮かべることができるように、病人ということにする。ただし、最下層の男は避けて。ついで、われわれは被告をベッドの脇に、右手にコップ、左手に書字板、その第四指に雄羊の睾丸を持たせた姿で立たせる。かくしてわれわれは、毒殺された男、証人たち、遺産、それぞれを記憶の中に貯えることができるのだ。

コップは毒殺を、書字板タブラ遺書タブラないし遺産を、雄羊の睾丸テステスは語の類似性から「証人テステス」を、思い出させることになる。病人は、当然、被害者自身に似ているか、われわれの知っている(ただし没個性的な下層階級の者では困るが)他の誰かに似ているのである。続く諸々の「場」に、他の訴因や事件の残る細部を配していく。もし、すべての場とイメージが正しく心に刻み込まれたなら、呼び戻したい要点を何であれ容易に思い出すことができるだろう。

すると、これが、古典的記憶イメージ―記憶に刻み込まれつつある「事柄」全体を思い出させるに足る小道具を備えた、活き活きと演劇的で鮮烈な人間の姿からなるイメージ―の一例なのだ。なるほど、一つずつ説明はつくように思われるが、やはり私はこのイメージを前に当惑してしまう。『ヘレンニウスへ』の中の記憶に関する他の多くの論述同様、これも、われわれには理解しにくいか、でなければ十分に納得のいく説明が与えられていない世界に属しているように見えるからである。

例をみる限り、著者は、この訴訟における弁論を記憶することにではなく、本件の細部の事実つまり「事柄」を記録することに関心を向けている。いうなれば、弁護士として、手掛けた各事件の記録のためにファイリング・キャビネットを整備していて、くだんのイメージは、毒殺犯人として告発された男に関する各種資料が綴じ込められている記憶ファイルの最初の場所にラベルとして貼りつけられているようなものだ。本件について何か調べてみたいとなったとする。そこで、それが記録されている総合イメージに当る、すると、そのイメージの背後に続く個々の場所に他の関連記録一切が見つかるというわけだ。以上の解釈が曲がりなりにも当っているとするなら、人為的記憶力は、ここでは、演説を暗記するためだけでなく、随時調べることのできる資料の山を記憶に貯えるために、使われているといえるだろう。

(p.32-34)

この「解釈」は「曲がりなり」以上に確かに「当って」いるらしく思えるが、してみるといよいよこうした「人為的記憶力」増強法は、書記文化のいまだ未発達な時代における「ファイリング・キャビネット」のあらかじめの代替物であったのだと考えられるわけで、書記文化なかんずく印刷文化が興隆して「随時調べることのできる資料の山」を紙束といういわば外付けハードディスクへ移し入れることができるようになるにつれて、記憶者としての人間本体の「memory」は大いに節約されうる次第となったのであろう。そう考えると非常にすんなりとわかりやすい話なのではあるが、それにしても、雄羊の睾丸を持たせることで「証人」を喚起させるというような手法は確かに現代人にとっては「当惑」的ではある。古典的記憶術において「記憶」は「事柄の記憶」と「言葉の記憶」に分けられるそうだが、こうした当惑的な要素は「言葉の記憶」の手法においてよりいっそうはなはだしい。同じ『ヘレンニウスへ』から引かれている「言葉の記憶」方法の事例は以下のようなものである。

いまわれわれは、次のような詩の一行を暗記しようとするところである。

Iam domum itionem reges Atridae parant

(かくして、帰国の途へと、アトレウスの息子たる王たちは身支度をなす)

この詩行は『ヘレンニウスへ』の引用によって知られるだけである。多分、著者が自分の記憶技術を提示するために創作したか、すでに失われた作品から採ったかしたのだろう。これが、二つのひどく変ったイメージを通して暗記されることになる。

その一つは、「マルキウス氏族レックス家のものたちに笞打たれつつ、天に向かって両手を差し伸ばすドミティウス」である。ロウブ版の編訳者(H.キャプラン)は、訳注で、「レックスとは、マルキウス氏族中最高の名家の名前の一つであった。ドミティアヌス家も、平民出身ながら、同じく著名な氏族であった」と説明している。このイメージは、平民氏族出身のドミティウスが(おそらく、より覚えやすくするため血塗られて)有名なレックス一族の者何人かに囲まれ、散々なぐりつけられている、という路上の一場面からきているのかもしれない。多分、著者自身が目撃した光景なのだろう。それとも、何かの劇の一場面でもあったのか。ともかく、文字通り忘れ難い光景であり、したがって、記憶イメージにはうってつけである。これが、上の一行を暗記するため、ある場所に配置される。この鮮烈なイメージは直ちに「ドミティウス‐レゲス」を想起させ、これが音の類似から「帰国の途につく王たち」(domum itionem reges)を思い出させたのである。ここに示されているのは、イメージが喚起する概念との音の類似を通して、記憶が求めている言葉を思い出させる「言葉の記憶」用イメージの諸原則なのである。

誰でも経験することだが、記憶の中に、ある語やある名前を探っているとき、とんでもない馬鹿げた連想、記憶に「突き刺さっている」何かが、それを掬い上げる手助けとなる場合がままある。古典的記憶術は、この過程を体系化したものに他ならない。

詩行の後半を暗記するための残る一つのイメージは、「『イーピゲネイア』(Iphigenaia)に登場するアガメムノンとメネラウスの役にそれぞれ扮しつつあるアイソーポスとキンベル」である。アイソーポスは、有名な喜劇役者にしてキケロの友人であった。一方、キンベルは、役者には違いなかろうが、このテキストでの言及が唯一のものである。このイメージにおいて、二人の役者は、アトレウスの息子たち(アガメムノンとメネラウス)の役を演ずるために衣装をつけているところだ。高名な役者たちが揃って役柄のため顔を作り(赤い顔料でイメージを汚し覚えやすくするのは法則にかなう)、衣装をつけている最中という、好奇心を刺激する楽屋裏を覗かせてくれるわけである。このような場面には、優れた記憶イメージの要素がことごとく備わっている。だから、われわれはこれを、「アトレウスの息子たちは身支度をなす」(Atridae parant)を思い出すために使うのだ。このイメージは、直ちに「アトレウスの息子たち」なる語を(音の類似によるわけではないが)与えると同時に、帰国の途へと「身支度をなす」を、舞台へと身支度する役者の姿を通して、呼び出すのである。

(p.35-36)

「記憶の中に、ある語やある名前を探っているとき、とんでもない馬鹿げた連想、記憶に「突き刺さっている」何かが、それを掬い上げる手助けとなる」というこの根本原理のようなものは、またしてもはるかに時代下った19世紀末に、フロイトの「夢判断」、精神分析において回帰してくることになる。弁論暗記のための古典的記憶術においてこれらの「馬鹿げた」「変った」イメージはあくまでも思い出すべきものが思い出されるためのトリガーとして用いられるのだが、そのものを「思い出したくない」規制が働く場合に、本来トリガーにすぎないイメージがそれ自体として浮上してしまい、トリガーとして機能しない、その状態をフロイトは「抑圧Hemmung」のある状態として記述したのだと考えれば、翻って古典的記憶術は逆行的にフロイトの理論を先取りしていたことにもなろう。とはいえ、こうしたあまりにもややこしい記憶手法、特に「言葉の記憶」のためにわざわざ楽屋裏で着替える役者を呼び出したり、「古典芸術を思わせるというより、どこかのゴシック寺院におかれている彫像を想起させる」類のグロテスクで奇怪なイメジャリーを駆使したりして、結果的に気の遠くなるような刻苦精励を強いる手法に対しては、当の古代においてすら賛否両論だったよしで、「キケロの時代にも、鈍かったり怠惰だったり未熟だったりする者はいて、彼らは、こんな場とかイメージとかいうものは本来記憶できるわずかのことまで瓦礫の下に埋もれさせてしまうのがオチだ、という常識的見解に組したのである」(p.42)ということであり、「キケロの『弁論家について』に一世紀あまり遅れて『弁論術教程』を著し」たクインティリアヌスの頃には「どうやらローマの中心的雄弁術サークル内では」、『ヘレンニウスへ』に詳説されているような古典的記憶術の「価値が金科玉条として鵜呑みにされていたわけではないらしい」という。クインティリアヌス自身は「記憶術を推奨した」ということになっており、ルネサンス期に改めてその『弁論術教程』が再輸入されたときに爆発的な流行を引き起したのであるけれども、その『教程』の中で彼自身が説くところはどうやら現代の私たちが考える「常識的見解」にだいぶ近づいているように見える。

シモニデスのこの功績は、もし諸々の場が心に刻印されさえすれば、それは記憶の助けとなるという考察を促したように思われるが、これは実験してみれば誰にも信じられることである。なぜならば、かなり長期間留守にした後である場所に立ち戻った場合、われわれはその場所をそれとはっきり分るばかりではなく、自分がそこで行ったいろいろなことをも思い出すし、またであった人々や以前そこにいた時心を過ぎった胸の思いさえも浮かんでくるからである。(……)

まず一連の場が選ばれ、多数の部屋に分かれている広大な邸のように、それぞれに可能な限り変化に富んだ特徴が与えられる。そして思考があらゆる隅々に至るまで何ものにも妨げられず駆け巡りうるように、そこで目に留まる限りのものはことごとく克明に心に刻み込まれる。第一の作業は、これらの場を駆け巡るのにいかなる困難も伴わないことを確認することである。なぜなら、他の記憶をひきだす元となる部屋は一番しっかり固定される必要があるからである。ついで、書きとめ考えられたことに、それを思い出させるための目印がつけられる。この目印は、航海や戦争のようなある「事柄」全体から、あるいは、ある「言葉」から引き出されることもあろう。なぜなら、記憶から脱落しつつあるものも、わずか一語の言葉による刺激で取り戻されるからである。それはさておき、この目印が、例えば錨のように航海から、あるいは武器のように戦争から引き出されたものと仮定してみよう。これらの目印はそこで次のように配置されるはずである。まず第一の概念は、いわば前庭のようなところに置かれる。第二の概念は玄関広間アトリウムに置かれるとでもしようか。その他の概念は雨水溜めの周囲にぐるりと順々に置かれたり、寝室や客間のみならず彫像やその類のものにまで委ねられる。これが終り、いざ記憶の再生が必要となると、人は最初の場から始めてすべての場を駆け巡り、それらの場に委ねられたものを要求するわけだが、それらはイメージによって思い出させられるのである。かくして、思い出す必要のある個々のものがいかに沢山あろうとも、すべては次から次へとコーラスさながら繋がれており、後続するものは、それが結ばれている先行するものからふらふら離れていくことはできない。ただ、これにはそれなりの予備学習が必要とされるだけなのである。

一軒の家を中を例にとって今述べたことは、公共の建物内でも、長旅の途上でも、ある都市を使っても、また絵画を相手にしても、同じように行われうるだろう。あるいは、われわれが勝手にそのような場を想定してもかまわない。

記憶術を相手に途方に暮れている学生にとってクインティリアヌスは恩人といえよう。邸内の部屋部屋を、公共の建物内を、都市の街路を、自ら選んだ場を記憶しつついかにして巡るべきかについて彼が明確な指示を与えてくれなかったならば、われわれは「場の法則」とはそもそも何のことやら全く見当もつかなかっただろう。彼は、一定の場が記憶の助けとなりうる所以を実に分りやすく解明してみせる。というのも、われわれは経験によって、現にある場が記憶の裡にさまざまな連想を喚起することを知っているからである。それに彼の説明している方式、つまり錨や武器のような「事柄」を表わす目印を用いたり、あるいはこうした目印によって文章全体を思い出させる契機となる単語ひとつを喚起させたりする方式があっても少しも不思議ではないし、それはわれわれに理解できることでもあるのだ。

(p.45-47)

正直なところ私には、クインティリアヌスの「指示」がそれほどわかりやすいとは思わないし、それに比べて『ヘレンニウスへ』の記述がそれほど難解だとも思わないのだが、それは私がすでにイェイツが「わかりやすく」まとめてくれた本をはじめとする各種の記憶術研究の本を眺めて、その概略をあらかじめ承知しているからにすぎず、もし何も予備知識なくいきなり『ヘレンニウスへ』のテクストを目にしたら、確かに、何のことやらさっぱり見当もつかないのかもしれない。いずれにせよ『ヘレンニウスへ』で推奨されている「力あるイメージ」及びその用い方はいかにも極端で、悪趣味でかつ偏執的だとは思うのであって、血まみれだったり羊の睾丸を持っていたりする奇抜でめざましいイメージを用いることについてはクインティリアヌスも「一言も触れていない」そうであるが、それでも上のような「場の規則」をそれでも「事柄の記憶」に関しては彼もまた推奨してはいる。その一方でしかしクインティリアヌスは、こうした「場とイメージ」の結合による記憶記述を「言葉の記憶」のほうにまで援用することには、大いに懐疑を表明している。

クインティリアヌスが記憶術について最終的に下す結論は次の通りである。

私はこうした工夫がある種の目的のためには役立つ場合があることを否定する気は毛頭ない。(……)しかしながら弁論の個々の部分を丸暗記するに当っては、これはほとんど役に立たないだろう。(……)いかにしてこのような技術が互いに繋がった言葉の連続体を頭に叩き込めるだろうか? どのような類似をもってきても表わしえない、たとえば接続詞の類の言葉が存在するという事実については目をつぶろう。われわれは事実、速記者のようにあらゆるものに対してきまったイメージをもてるかもしれないし、また、続ヴェレス弾劾演説五巻中に含まれる言葉を一語残らず思い出すための無数の場を用いることができるかもしれない。さらに、それらの言葉をことごとく、あたかも安全に保管されていた供託金であるかのように、思い出せさえするかもしれない。だが、われわれの弁論の流れは、記憶力に課せられたこの二重の作業によって必然的に妨げられてしまうのではなかろうか? なぜなら、もし一語一語に対応するばらばらの形をいちいち振り返って目にとめる必要があるとしたら、どうしてわれわれの言葉が切れ目のない演説として流れ出ることを期待できようか?(……)

(……)クインティリアヌスに言わせると、これ〔場とイメージの記憶技術〕はある種の目的のためには有効で役立つこともある。しかし、この方法の適用範囲を広げて、「事柄」用のイメージによって一篇の弁論を記憶する場合にまで当てはめるのは労多くして益少なし、と彼は考えるのだ。何となれば、「事柄」に対するイメージを一から十まで作り出す必要があるからだ。(……)

記憶術に代るものとしてクインティリアヌスの推す記憶力強化訓練の「より単純な型」は、通常のやり方に則った弁論その他の詰め込み式丸暗記の擁護を主たる眼目としている。(……)しかし、ここに何よりも学生の役に立ちそうなことが一つある。

すなわち、ある文の一節を、それを書き写した書字板から直接暗記すること。というのは、そうすればその男は記憶を辿るに当り手懸りとなる確かな跡を与えられることになり、心の眼はそれらの言葉の記されたページのみならず、一行一行の上にも据えられ、時として音読しているかのように声を発することにもなるからである。……こうした工夫は既に普及した記憶法と幾分似てはいるが、もし私の経験に何がしかの価値がありとするなら、それよりも迅速かつ効果的であるといいたい。

思うにこれは、上の方法が、「場」に書かれた文字を視覚化する手口を記憶法から借用しているという意味であろう。しかし、「速記文字」がどこかの広大な場システムに置かれている様を視覚化しようとする代りに、これは普通に書かれた文字を実際その書字板ないしページにあるがまま視覚化するものである。

もしこれが分れば面白いと思われるのだが、クインティリアヌスは、記憶すべき自分の書字板もしくはページに法則に則って形づくられた目印や「速記文字」、いや「力あるイメージ」までつけ加え、記憶が書かれた文の一行一行を辿りつつ到達すべき場所を目立たせ、暗記しやすいように視覚化したのだろうか。

以上みてきたように、クインティリアヌスの記憶術に対する態度と、『ヘレンニウスへ』の著者およびキケロの態度との間には、著しい相違がみられる。置かれた個々の場から特異な身振りで合図を送り感情に訴えかけることによって記憶を呼び覚ます「力あるイメージ」は、明らかにクインティリアヌスにとっては、われわれにとってと同様、実際の記憶の目的のためには邪魔で無益なものと思われたのである。ローマ社会は、洗練の度合いを強めていった結果、記憶の有した、イメージとの強烈で原初的、ほとんど魔術的ともいうべき直接的結びつきを失うに至ったのだろうか? それとも、その相違は個人的気質からくるものなのだろうか? クインティリアヌスには、視覚による記憶に必要な鋭敏な視覚的認識力が欠けていた故に、人為的記憶力が働かなかったのだろうか? 彼は、キケロとは違って、シモニデスの発明がその並外れた視覚力によるものだ、とは言っていないのである。

(p.47-50)

上の引用最後の段落で畳みかけられている幾つもの問いは、それぞれに極めて興味深い問題系へと私たちを誘う。ローマ社会が「洗練の度を強めていった結果」、視覚的に強烈なイメージを(それほど)必要しなくなっていったのだとしたら、その「洗練」とはどのようなものだったのか。それはおそらく書字/書記文化の進展と深い関わりがあるだろう。クインティリアヌスが「普通に書かれた文字を実際その書字板ないしページにあるがまま視覚化する」ことを推奨していたというのは極めて面白いことである、なぜなら、そのようなことが「普通に」推奨されうるということはとりもなおさず、そのような書字板というものがそこらにあって、それを「読み」ながら覚えるということが学生たちにも「普通に」できる環境がすでに準備されていたということを意味するだろうからである。『ヘレンニウスへ』の著者やキケロが生きた時代から一世紀を経て、「書字板もしくはページ」というようなものの普及の様態にいかなる変化が生じていただろうか(ページ、といっても現代のような冊子体の書物が生まれるのはもっとはるかに後のことであるから、原語がわからないがここではむしろこの語は現代でいうpageよりもむしろleafというべきものを指すだろうが)。紙様のものでできたleafの上に弁論のためのテクストを書き留め、重要なところをハイライトして時には挿絵などもつけながら暗記の手懸りとする、それはすでにいわゆるチャート式参考書を手に勉強するのとほとんど変わりのない営為であるだろう。しかし記憶術というものが時代を経てだんだんとそのように移り変わっていき、「メモリ」が少しずつ外付けになっていったとして、そこでかつて「記憶の有した、イメージとの強烈で原初的、ほとんど魔術的ともいうべき直接的結びつきを失うに至った」のだと言うことは果たして至当なことなのだろうか。この記事の冒頭に記したように、イメージと言語との間の「強烈で原初的、ほとんど魔術的ともいうべき直接的結びつき」というものがあるとしてそれがいかなるものであるか、いまだに誰も確とは知らないのである。シモニデスが、人々が座していたその「配置」から状況を克明に思い出したというエピソードは、たいへんわかりやすいものであって、そうした「結びつき」は21世紀の現代でも別に失われたわけではないだろう。他方、右手にコップ左手にタブラ、第四指には羊のテステスというような図像iconがある種の状況や特定の概念と結びつくというその「結びつき」は、確かに秘教的という意味で魔術的ではあるにしても、そしてまたフロイトのいう無意識と「自我」の起源という文脈においては「原初的」と言いうる側面を持つとしても、人間の言語生活と「イメージ」とのそもそもの結びつきという意味でどの程度「原初的」であると言えるか、俄かには考量しにくい。クインティリアヌスは「視覚による記憶に必要な鋭敏な視覚的認識力が欠けていた故に」「力あるイメージ」を活用した「人為的記憶力が働かなかったのだろうか」とイェイツは問うが、この問いはむしろ反語に近いようにも思われる、すなわち、むしろ『ヘレンニウスへ』の著者およびその追随者たちのほうが、聴覚による記憶に必要な鋭敏な聴覚的認識力が欠けていたが故に、なんとかその欠如を補おうとして、視覚像に依拠した「術」を開発しようと悪戦苦闘したのではないのか、と問うことも同程度にできるだろうと思われるのだ。

ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』以来(と言っていいのかどうかわからないが)、印刷術の興隆以前は「耳の文化」であり、印刷術発明以来「目の文化」へと全面的に移行してしまったためにいろいろなものが失われたという観点がわりあいに一般的に共有されるに至ったようにも思えるのだが、記憶術に関するこうした文献を読むと、当の古代人自身は、視覚のほうが「より鋭敏」であり目によってこそ最も容易かつ強力に「像」が「心に刻みこまれる」と考えていたという、少なくともそういう要素も大いにあったということになる。オングによれば、例えばホメロスの詩(あるいは平家物語などにしても)に繰返しや常套句が多いのは、口承で歌い継がれる詩というものにおいては、それが耳で聴かれて記憶され伝承されていく性質上、調子よく口ずさむことができ、よく覚えて応用もきくスタイルが要請された結果に他ならないというのであるから、それはそれでまた全く別種の、純然と「耳の文化」におけるひとつの重要な「記憶術」だったと言えるだろう。しかしイェイツがここで全面的に取り扱おうとする記憶術は、それとは全く別の系統のもの、「目の文化」におけるそれである。これら二種の記憶術の間の隔絶は、言ってみれば「詩」と「弁論」の間の隔絶をそのまま示しているのかもしれない(もっともシモニデス自身は詩人であったし、イェイツによれば、『ヘレンニウスへ』の著者は弁論もさることながら詩篇(劇詩を含む)の暗唱にむしろ心を向けていたらしいというのだが)。またオングによれば、プラトンが詩を排斥したのは、書記言語の台頭によっていわば「目の時代」の到来を予感しそれに組しようとしたプラトンが、古い「耳の文化」の遺産を排除しようとしたのだともいうが、そういう観点からすれば、古代ローマに端を発するとされる視覚的記憶術は、まさしく書記言語文化と歩みを一にしながら近代までその道程を辿ったのだともいえそうである。ただこの「目の文化と耳の文化」というトピックも、結局のところある文章なりフレーズなり「話」なりが耳できいたほうが頭に入りやすいか、それとも目で読んだほうが頭に入りやすいかという議論に落ちていきがちであって、耳できいたほうが頭に入りやすい人と逆の人がそれぞれの「個人の資質」に依拠して水かけ論を繰り返して議論が行き止まりになるという様相がえてして観察されるものである。どういうふうに覚えれば覚えやすいかというのは、便利な技術という側面に限っていうなら、つまるところ「各人が覚えやすいように覚えるのがよい」ということでしかないのであって、このギリシャに端を発する記憶術なるものがその後の西洋文明・文化に与えた多大なる影響というものは、西洋人の多くがこのような形でものを覚えるようになったというような実践的なところにあるわけでは決してないだろう(実際このような形で演説や詩を覚えた人がどのくらいいたかは疑問である)。プラクティカルな弁論ノウハウとしてはクインティリアヌスのころにすでに半ば放擲されつつあったと言っていいars memorativaは、しかしながら、それ自体はやがて半ば忘れ去られたにせよ、「場」と「知識」を結びつけるというuniversalな手法および、「結びつける」というまさにその行為原理をさまざまに展開させることによって、西洋思想世界を近代初期に至るまで席捲しつづけたのである。

2 想像力について(第2章より)

さて想像力imaginatioとは、文字通り、像imago(複数形imagines)を作り出す能力のことであるが、imagoとはすなわち、何がしかのものをかたどったものであり、その何がしかのものの視覚的な引き写しである。神がアダムをみずからの似姿として造った、というときの「似姿」がこのimagoに他ならないが、そのことはやや措くとして、古典的記憶術においては常に何らかの「イメージimago」を作り出してどこかの「場」に配置するということが重要であるからには、この想像力imaginatioがそこでは極めて重要な役割を果たすはずである。とはいえこの文脈でいう「想像力」は、現代の私たちが日本語で考えるそれとは相当に掛け離れたものであることに注意しなくてはならない。それはひとまずは本当に純然と「像を生み出す/作り出す/思いえがく」能力であって、むやみにその翼を羽搏かせる類のものではないのである。

『談論』(Dialexeis)という名で知られる紀元前400年頃まで遡る断片の中に、次のような記憶に関する短い一節がある。

偉大にして美しき発明は記憶であり、学問および実人生、そのいずれにとっても常に有益である。

第一に銘すべきこと。君が注意を払う[心を向ける]ならば、判断力はそこ[心]を過る事柄をより明確に知覚しよう。

第二に、聞いたことを復誦すべし。耳にすることを復誦することにより、学習したことは記憶の中に完全に定着する故。

第三に、耳にすることを君の知っているものの上に配置すべし。たとえば、Χρισιππος[クリシップス]を覚えんとするならば、それをχρυσος[金]とιππος[馬]の上に置く。別の例、πυριλαμπης[蛍]をπυρ[火]とλαμπζιυ[光輝]の上に置く。

名称については以上。

事柄については以下のごとく[すべし]。勇気の場合は軍神マルスと英雄アキレウスの上に[それを配置せよ]。金属加工の場合は火と鍛冶の神ヴルカヌスの上に、臆病の場合はエペイオスの上に。

事柄の記憶、それに言葉(つまり名称)の記憶までもがすでに言及されているとは! 二種類の人為的記憶を表わす技術用語が、早くも紀元前400年にちゃんと使われているのだ。いずれの記憶もイメージを用いている。一方は事柄を表わすため、他方は言葉を表わすために。これもまたお馴染みの法則の一つではないか。場所の規則への言及はない。しかし、頭に入れるべき概念あるいは言葉を現にイメージの上に配置するという、ここに記述されているやり方は、記憶術の全史を通して絶えず顔を出すことになる。

(p.53-54)

上の引用で興味深いのは、「……の上に」「置く」という言い回しそのものであろう。「場所の規則への言及」は確かにないが、まさしくこの言い回し自体において、場所が言及されている、あるいは、場所の規則がひそやかに実行されている。いつも思うことだが、前置詞というものが総じて、「場所の規則」に基づいて「イメージ」を「配置」するための品詞ではあるまいか。on the desk あるいは in the desk などと言うときに、deskとはその「上」にものを置いたり、「中」にものを入れたりすることのできるひとつの場所であるし、on と in の違いを初めて学ぶときに「on the deskは机の上、in the deskは机の引き出しの中に入っているんですよ」と教えられてそれぞれの「イメージ」を思い浮かべない生徒がいるだろうか。It stands in the newspaperなどという言い方を初めて学ぶときに、「記事というものは新聞の中に立っているものなのか……」と一度は考え、その様子を無理やり思い浮かべてみようとしないだろうか。しない、と主張する人は結構いるし、実際問題として西欧語を学びながら新しい前置詞の使い方に出くわすたびに「イメージ化」していたら学習効率はたいへん悪いだろうとは思う(そのため私の語学学習は今なお遅々として進捗しない)。それでも、例えばin your stand であるとか on the contrary であるとか、いろいろな前置詞句を学んでゆくつど、英語はじめ西洋諸語は、前置詞によって言葉が諸方に配置されることで柔軟に駆動される言語で(も)あるのだなということに思いを致さずにはいられない。そして少なくとも近代初期のあたりまで、記憶術をはじめとする様々な局面において言及される想像力imaginatioとは、on the deskと耳にしたときに「机、の上、だな」ということを「像」として把握する能力のことであり、それはオリジナルに羽搏かせるべきクリエイティヴな芸術的能力とはさしあたり関係のない、ごくごく基盤的な認知能力の一環としてのそれであった。

アリストテレスは人為的記憶に通じていた。それは、彼が、解説者としてではなく(もっとも、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、現存しない記憶法に関する彼の著作があったというが)、たまたまある問題について説明する際にそれに四度言及しているところから明らかだ。その一つは『トピカ』(Topica)における言及で、頻繁に現われる問題に対する論証内容を記憶に留めるべきだ、と序言しているくだりである。

つまり、鍛えられた記憶力の持ち主にとっては、事柄そのものがたんにそれらの属する場(τοποι)に言及するだけで直ちに蘇ってくるものだが、このような習慣はまた、人に即座に理路整然とした立論をも可能にしてくれる。なぜなら、彼の心の眼には、論拠がそれぞれ固有の番号順に分類された形で現われるからである。

鍛えられた記憶力の持ち主が用いたこれらの「場所」(topoi)が、とりもなおさず記憶術の「場」(loci)である点に疑問の余地は全くない。また、対話術に用いられた「論題」(topics)という用語自体が記憶術の場から生まれたというのも大いにありうることだ。論題トピックスとは、それらが貯えられた「諸々の場所トポイ」からその名で知られるようになった弁証法における「事柄」、すなわち主題のことなのである。/(……)

しかし、四度の言及の中でもっとも重要であり、また後の歴史にもっとも強い影響を及ぼしたものといえば、『記憶と想起について』(De memoria et reminiscentia)におけるものであろう。偉大なスコラ学者たち、アルベルトゥス・マグヌスおよびトマス・アクィナスは、その定評ある鋭い頭脳によって、この〈大哲学者〉が『記憶と想起について』の中で言及しているのが、トゥリウスが〈第二修辞学〉(『ヘレンニウスへ』)〔著者不明のこの書は中世においてはトゥリウス作とみなされ、その手になる「第二修辞学」と呼称されていた=引用者註〕で伝授しているのと同一の記憶術であることを見抜いていた。アリストテレスの著作は、こうして、彼らにとってはいわば記憶術論考となったのであり、トゥリウスの規則と照合し一体化さるべきものであると同時に、それらの規則を哲学的、心理学的に正当化する根拠をも与えたのであった。

アリストテレスの記憶と想起に関する理論は、彼が『霊魂について』で詳述している知識に関する理論に基づいている。五感を通して知覚されたものは、まず想像力によって処理されるかその影響を受ける。その結果形成されたイメージが、知的能力の素材となるのである。想像力とは知覚と思考の媒介者なのだ。だからあらゆる知識は究極的には感覚による印象に由来するといえるものの、思考が働きかけるのは生のままの印象に対してではなく、それが想像力によって処理されるか想像力のうちに吸収されるかしてからである。魂の中のイメージを形成する部分こそ、より高度の思考段階の活動を可能にするものなのだ。従って「魂は心の中の絵なしには決して思考しない」、「思考能力は想像上の絵として己れの形を思考する。」「何ぴとも知覚能力なしには何ごとをも学びえず理解しえない。たとえ思弁的に思考を巡らす場合でも、思考のよすがとなる何らかの想像上の絵が不可欠である。」

スコラ哲学者たち、そして彼ら流の記憶の伝統の立場からみると、記憶術理論とアリストテレスの知識理論との間には、双方とも想像力を重視するという点で接点が存在したのだ。想像上の絵を欠いた思考は不可能であるとするアリストテレスの言明は、それ故、記憶法におけるイメージの有効性を擁護するために、絶えず援用されることとなる。そもそもアリストテレス自身が記憶法のイメージを、想像力や思考について言わんとすることを分りやすく伝えるために用いているのだ。彼によれば、思考とはわれわれが己れの欲する時いつでも行なうことのできるものである。「なぜなら、記憶法を発明し、イメージを形成する人々が行うのと全く同じように、われわれも自分の眼前に事物を置くことが可能だからである。」彼は、思考の対象となるべき慎重に選択された想像上のイメージを、記憶法において記憶のよすがとなるべき慎重に形成されたイメージになぞらえているのである。

(p.55-56)

「あらゆる知識は究極的には感覚による印象に由来するといえるものの、思考が働きかけるのは生のままの印象に対してではなく、それが想像力によって処理されるか想像力のうちに吸収されるかしてから」だというアリストテレスの考えかたを現代風に敷衍すれば、言語が直接に取り扱うのは「生のまま」の事象、より厳密に言えば生のままの知覚データではなく、知覚されたものがさらに当の言語によって文節処理され概念化された事象であるということであろう。「りんごは赤い」と言うとき、そこで「りんご」という語が指し示すのは、ナマのりんごではなく、「りんご」という語によってくくり出され概念化されたところのいわゆるシニフィエであるし、「赤い」という形容に関しても同様である。この抽象化・概念化、文節の働きがあってこそ言語は言語として機能し、「りんご‐は‐赤い」などと結合的にものごとを陳述することができるわけだが、アリストテレスはこの言語における文節と概念化のはたらきを「想像力」に帰せしめているのであり、彼の主張においてはあらゆるシニフィエはimagoないしそれに類するもの(「想像上の絵」はしばしばphantasmaと呼ばれる)として把握されているのだと考えれば、幾分わかりやすいかもしれない(余談だが、私が最初にシニフィエ・シニフィアンという用語を学んだとき、どちらがどちらだか間違えないように、「シニフィ絵」「シニフィ暗」と置き換えて覚えたものだ)。むろんこれはかなり雑駁な敷衍であり、「想像力によって処理される」のと「影響を受ける」あるいは「想像力のうちに吸収される」のとはどう違うのかなどについてもやがてよく学んでおきたいと思うが、今ここでは措かざるをえない。「たとえ思弁的に思考を巡らす場合でも、思考のよすがとなる何らかの想像上の絵が不可欠である」というとき、例えば「何ぴとも知覚能力なしには何ごとも学びえない」などという「思考」を巡らす場合にも、「想像力」は機能しており、何らかの「絵」が駆動しているということに他ならず、このとき、ではいったいどういう「絵」が駆動しているのかというのを「想像」するのは極めて困難ではある。「何ぴとも~ない」「知覚能力」「~なしに」「学ぶ」などそれぞれの語の発動および、それらの語相互の「結びつき」の発動に、必ずimagoが介在しているということが納得しにくい向きには、さしあたり、これはそれぞれの発動において必ず言語的「文節化」が作用しているということのimaginativeな言い換えであると仮定して理解しておくとよいかもしれない。

「想像力」と同じくらい理解しにくい用語としてもうひとつ「印象」という語がある。印象impression とは文字通り in-pressすること、in-pressされたもののことであって、「(魂の)内に」「された」もののことである。「印‐象」とはもともと「印された」「かたち」であり、現代の私たちが考えるようなぼんやりしたものではないのである。「なんとなく好印象をもちました」「そんなのは所詮、印象批評にすぎない」などと言うときの「印象」は、「緑と赤の取り合わせってなんかクリスマスっぽいイメージだよね」「あの人、イメージ悪いよね」などと言うときの「イメージ」と同じく、原義からはるかに離れて茫漠としている。

『記憶と想起について』は『霊魂について』の補遺に相当するもので、巻頭に後者からの引用がある。「以前想像力に関して『霊魂について』で述べたように、想像上の絵なしでは思考することさえ不可能である。」そして、続けて次のようにいう。記憶は想像力が属するのと同じ魂の部分に属している。それは感覚による印象から生まれた想像上の絵の集まりであるが、そこに時間的要素が加わっている。なぜなら、記憶の想像上のイメージは現在の事物ではなく過去の事物の知覚からくるものだからである。このように、記憶は感覚による印象と同系のものだから、人間にのみ固有の能力ではない。動物にも記憶力のあるものはいる。しかしながら、知的能力が活動し始めるのは記憶においてである。なぜなら、そこで初めて思考が、感覚的知覚を通して貯えられたイメージに働きかけるからである、と。

感覚的印象を元につくる想像上の絵を、彼は「その永続する状態をわれわれが記憶と呼ぶ」肖像画の一種に喩えている。また、想像上のイメージを形成することを、印形つき指輪で封蠟を押すような一つの動作とみなしている。印象(刻印)が記憶に長く留まるか、それとも直きに薄れてしまうかは、当人の年齢および気質いかんによる、というわけだ。

ある種の人々は、強烈な刺激を目のあたりにしても、病気あるいは年齢のせいで記憶することができない―ちょうど、流れゆく水に対して刺激を加え封印を施すようなものである。こういう人々にとっては、眼前に展開するものはいかなる印象も残さない。それは彼らが建物内部の老朽化した壁のように消耗しきっているか、あるいは、印象を記されるべきものが硬すぎるからである。従って、幼い子供と老人は記憶力が弱い。彼らはいずれも流動的状態にある―子供は成長しつつある故に、また老人は衰弱しつつある故に。同じ理由で、敏感すぎる者も鈍感すぎる者もよい記憶力に恵まれていないようだ。(……)

(p.57-58)

このような個所などは特に、「印象」というものを何やら茫漠としたものとして捉えている限り、なかなかに理解しがたいものであろう。例えば―「毎日、母の帰宅を待ちながら祖母に手を引かれて畦道を歩いていたころのことは、何ということもなく切ない幸せに満ちた日々だったという漠然とした思い出しかないが、ある夏の終りの日、道筋いちめんにコスモスの花が咲き乱れていたことがあって、まるで果てもない薄紅色の雲波のように花々が揺れるその日のその光景だけは、子供心にも強烈な印象を残した」というような陳腐な一文があったとして、アリストテレスのいう「印象」とは、「子供心にも強烈な」ものとして刻印されたその薄紅色の光景の具体的なありかたのことであり、「何ということもなく切ない幸せに満ち」ていたという「漠然とした思い出」のほうではないのである。

「アリストテレスにとって、このような印象はあらゆる知識の根源といえるものである」とイェイツは言う。そしてまた翻って、こうしたアリストテレスの諸著作自体、中世からルネサンスにかけての西洋における、あらゆるとまでは言わずとも多くの「知識の根源」としての役割を果たしたのであるが、西洋における記憶術とその周辺の営為の、中世以降の独自展開によりいっそう大きな役割を果たしたのは、むしろプラトンのほうであった。

プラトンも同じく封印の隠喩を『テアイテトス』(Theaetetus)の中の有名な一節で用いている。ソクラテスがわれわれの魂の中には、人によってその質を異にするが、蠟の塊が一つあり、これこそ「ミューズたちの母なる〈記憶〉の贈り物」であると見做している件りである。われわれは何かを見たり聞いたり考えたりするとき、常にこの蠟を知覚され思考されたものの下に当て、それらを蠟に刻印する。あたかも印形つき指輪によって刻印を押すように、と。

しかしプラトンはアリストテレスと違って、感覚による印象からは引き出せない知識があること、われわれの記憶するものの中には〈イデア〉すなわち魂が地上に降りる前に知っていた実在の原型や鋳型が潜在的に存在すること、を信じていた。真の知識とは、感覚による印象の刻印をこの型、すなわち地上の存在物はその影にすぎないより高度の実在に合致させることにある、というわけだ。『パイドン』(Phaedo)は、知覚しうるあらゆるものはそれらの原型ともいうべき一定の型に帰すことができる、という論旨を展開したものである。現世においては、われわれはこれらの型を見ることも知ることもできない。だが、前世においては見知っていたのであり、それらについての知識はわれわれの記憶に生まれながら備わっているのだ。等しいと思われるものの感覚を、生来備わっている〈等しさの観念〉に帰する行為を例にとって考えてみよう。われわれは、相等しい木片といった等しい実体を前にすると、そこに等しさを認める。その理由は、〈等しさの観念〉がすでに記憶に刻まれていて、その封印がわれわれの魂の蠟に密かに施されているからに他ならない。真の知識とは、これら感覚による印象の刻印を、感覚の対象物と付合する〈形〉ないし〈イデア〉という前世からの刻印もしくは封印に合致させることにある、というわけである。『パイドロス』(Phaedrus)という雄弁術の真の機能に関する自説を披瀝した―つまり、人々に真理についての知識を持つように説いている―書物においてもまたプラトンは、真理および魂についての知識は、すべての魂がすでに見知っている〈イデア〉を思い出すこと、現世の事物はその雑然たるコピーにすぎないこれら〈イデア〉を回想することにあるという主題を改めて展開する。あらゆる知識、あらゆる学習は実在を思い出す試みであり、感覚によって知覚された多種多様のものを、実在との対比を通して似たもの同士一つに統合するにある。「魂にとって貴重な正義や節制、その他の観念の現世におけるコピーには全く光がない。しかしごく少数の者だけは、闇に包まれた感覚器官を通してイメージに近づくことにより、それらコピーの中にそれらが手本としているものの本質を見るのである。」/(……)

(……)プラトン的記憶は、記憶技術を姑息に操ることではなく、実在と関連づけて一切を組織づけようとする試みなのである。

そしてこのことを記憶術の枠組みの中で行おうとする壮大な試みが、まさにルネサンスの新プラトン主義者たちによってなされたのだった。ルネサンスにおける記憶術使用のもっとも目ざましい現われの一つが、ジュリオ・カミッロの〈記憶の劇場〉だが、彼は新古典主義様式の劇場内の要所要所に配置されたイメージを用いること―つまり、人為的記憶の技術を完全に正確に用いること―で、記憶体系を実在の祖型アーキタイプに基づかせた(と信じている)のである。そしてこの祖型から自然と人間の全領域を網羅する二次的イメージが派生する。カミッロの記憶についての考えは、根本においてプラトン的といってよい(その〈劇場〉には、ヘルメス主義的カバラの影響も同時に認められるが)。彼は真理に基づいて人為的記憶を組み立てようと目論んでいるのである。

(p.62-63)

「この章の狙いの一つは、ギリシア人の記憶の扱い方を、その後の記憶術の歴史の中で重要となるはずの事柄を視野に入れつつ、辿ってみること」だというこの『記憶術』第2章は、このあとメトロドロス、キケロ、アウグスティヌスと「重要な名前」を追って詳細な記述がなされてゆき、それぞれにたいへん面白いのであるけれども、ひとまず「ルネサンスの新プラトン主義」に話題が及んだところで、いったん小休止を入れ、またパネルを改めて次の章へ進みたいと思う。2020年の現在においてはこれ自体がすでに「重要な古典」となっているイェイツのこの大著の冒頭部分をもとにまず記憶術の勉強をしたいと思うのは、まさに、「その後の歴史の中で重要となるはずの事柄を視野に入れ」て記述されているからこそでもあり、記憶術と関連営為の殿堂をやがて巡らんとするにあたり、そこから多種多様な展示室へと通じる大小の魅惑的な扉が八方に配置された玄関の間のような「トポス主題トピック」を、この本がまさしく呈示してくれているからに他ならない。(つづく)

2010.11.09

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