中世記憶術のキリスト教的様相――F.イェイツ『記憶術』に学ぶ(2)
1 「古典的記憶術の中世的変容」(第3章より)
「忘れてはならないのは」とフランシス・イェイツはいう、「アウグスティヌスが記憶に、魂の持つ三つの力、すなわち〈記憶〉、〈知力〉および〈意志〉の一つとして、最高の栄誉を与えたことだ。まことに、これこそ、人間における〈三位一体〉のイメージに他ならない」(p.76)と、そしてまた「記憶術は中世という時代を経ることで再浮上する、ということはどうしても強調しておく必要がある」(p.136)とも。この間のことを引き続きかれの『記憶術 The Art of Memory』を読みつつ学ぶことにする。
野蛮化した世界では、弁論家の声は沈黙させられるものだ。安全が保障されない時代には、弁論に耳を傾けるためゆったり集う余裕など人々にはないのである。学問は修道院の奥深く引きこもり、雄弁を目的とする記憶術は不要となった。ものの記されたページを下準備を施した上で暗記するというクインティリアヌス方式は依然として有効でありえたにせよ。修道院制度の創始者の一人カッシオドロスは、その編纂になる自由七学科事典中の修辞学(雄弁術)の項目において記憶術に全く言及していない。
(p.80)
カッシオドロスは6世紀南イタリアの人であり、439年のヴァンダル族のカルタゴ占領からおよそ1世紀経ったころにコンスタンティノープルに移住して、引退後はウィウァリウムVivariumなる土地に引退してそこに図書室と写字室を備えた共同修道施設を作った。それが修道院というもののひとつの起源となっているのだが、vivariumとは、自然の生息環境を模して動植物を育成保護する施設を指すそうだから、そういう名前の土地に図書室つき修道院が作られたというのはまことに示唆的ではある。引退前のカッシオドロスは引き籠りどころか外交と今でいう異文化交流の表舞台に立っていた人であるから、それなりに「弁論」も大いに必要としただろうけれども、それは確かに、広場に「ゆったり集った」人々に向けて誰かを褒め称える雄弁の技を競う類の弁論ではなかったのだろう。「野蛮化」とはむろん、あくまでも古代ローマ側の視点に立った物言いである。ゲルマン民族の侵攻とローマ分裂の混乱のさなかにあった時代、それが客観的に「野蛮」だったかどうかはともかくとして、古代に営々と営まれていた知識・認識の体系は世の例に洩れず散逸と断片化を余儀なくされた。古代の人為的記憶術に関する三大古典教本としてイェイツが挙げている、『弁論家について』(キケロ)、『弁論術教程』(クインティリアヌス)、『ヘレンニウスへ 第四書』(作者不詳)のうち、前二者は中世が深まるにつれ忘れられ、『ヘレンニウスへ』だけが生き延びていた。「この著作の人気のほどは、例をみないほど多数の手稿本が今日まで伝わっている事実によって証明されるが、手稿本の半数は12世紀から14世紀、つまり同書の人気が頂点を迎えたと思われる時期に集中している」(p.82)という。
いずれの手稿本もこの著作を「トゥリウス」の手に帰している。そのせいで、これはキケロの真正作である『主題の創造的選択について』と結びつくのである。これら二作を手稿本の中で結びつける慣わしは、12世紀までに間違いなく定着していたと思われる。『主題の創造的選択について』が「第一修辞学」または「旧修辞学」と称されて先に置かれ、「第二修辞学」または「新修辞学」として『ヘレンニウスへ』がすぐ後に続く形である。こうした分け方が一般に受け入れられていた状況に関しては、多くの証拠を示すことができよう。たとえば、ダンテはそれを当然と考えていたからこそ、『主題の創造的選択について』からの引用の出典指示を「第一修辞学」と書いているのだろう。二つの著作間の強力な同盟関係は、『ヘレンニウスへ』の最初の印刷本がヴェネツィアで出版された1470年の時点においても依然として有効であった。なにしろ同書は『主題の創造的選択について』と合本の形で出版されたのみならず、この二作は伝統に忠実に表題ページに『新・旧修辞学』(Rhetorica nova et vetus)と記されていたからである。
(p.82)
同じ「トゥリウス」の「真正作」と結びつけるのなら『弁論家について』と結びつけておけばよさそうなものだが、なぜかそうはならず、記憶術とはとりあえず関係なく弁論における主題の選びかたについて論じた『主題の創造的選択について』と強く結びつけられてしまったこと、そしてイェイツによれば古代において「記憶術を相手に途方にくれている学生にとって」「恩人」に等しい実践的わかりやすさを提供してくれていたというクインティリアヌス『弁論術教程』が見失われたことが、中世における記憶術の非常な変容、ないし創造的歪曲をもたらしたというのであるが、このあたりの記述を読んでいると、一種のSFファンタジーを読んでいるような気持ちになる。長らく繁栄した文明があるとき災害や戦乱のために滅び、生き残った者たちが語り継ぐ記憶は何世代をも経るうちに風化し変容して奇妙な神話となりおおせ 、わずかに残されている文書記録も、どのように読めばいいのかすでに誰にもわからなくなっており、それを読めると称する古老がときに開陳する読解も、まことに謎めいた秘儀的なものでしかなくなっている。やがて何世紀か経ったころに風変りな学者たちがその読解にふと疑問を持ち……という、人文学的と言って悪ければ文献学的な冒険モチーフは、『百億の昼と千憶の夜』『One Peace』『進撃の巨人』などの青少年少女マンガ・アニメにさえいまだに頻々と顔をのぞかせるものである。あるいはまた浦上の隠れキリシタンたちが代々伝えてきた「聖書物語」が、似ても似つかぬ『天地始之事』に変貌しながらもどこか昔の面影をも残しつつ、それが始めからそういうものであったものだとして人々の堅い信仰のよすがとなってきたように。『新旧修辞学』が中世ヨーロッパに普及して広く読まれていたころ、その原著者「トゥリウス」は、元々のマルクス・トゥリウス・キケロの面影を残しながらもすでに似ても似つかぬ伝承の、神話的人格の者であったと言ってよいのだろう。この神話は15世紀になって登場した「近代ヒューマニストの文献主義によって」(p.159)打ち砕かれ、『第二修辞学』すなわち『ヘレンニウスへ』はキケロの著作ではなかったことが明らかにされ次第に広く知られてゆくが、それでも頑なにトゥリウス信仰を捨てない人々もなお多かった。
『ヘレンニウスへ』の著者をキケロとする誤った著者認定は、中世以降の記憶術の伝統にとって重要なものであった。そのことは、この本の正確な著者認定に関するルネサンスの文献学者たちの発見が、それ以後、記憶術の伝統を引き継ぐ著述家たちによって一貫して無視されているという事実から明らかであろう。ロンベルヒは、『ヘレンニウスへ』からの引用をすべてキケロの手になるものとしている。ロッセリウスの場合も事情は同じだ。修道士あがりのジョルダーノ・ブルーノも、1582年に出版した記憶術についての著作のなかで、『ヘレンニウスへ』からの引用を「トゥリウスの言葉に耳を傾けよ」という言葉で導入している。ブルーノがドミニコ会の記憶術の伝統につながることを、この事実ほど明らかに示しているものはないのである。
(p.159-160)
ドミニコ会の話はやや後に回すとして、ひとまず、「『ヘレンニウスへ』の著者をキケロとする誤った著者認定」すなわち、言うところの『第一修辞学』と『第二修辞学』の「誤った」結びつきが中世の記憶術にどのような鞏固な文脈をもたらしていたのかといえば、「「第一修辞学」におけるトゥリウスが、弁論家が弁論の中で扱うべき「主題の創造的選択」または「事柄」として倫理学および七主徳を重視しているに対し、「第二修辞学」のトゥリウスは、いかにして創案された「事柄」を記憶の宝庫に蓄えるべきかについての規則を述べている」(p.82)という、そういう「結びつき」かたであったという。つまり、『ヘレンニウスへ』に事細かに記されている晦渋かつ奇怪なイメジャリー活用メソッドに基づく人為的記憶術は、中世においては、クインティリアヌスや『弁論家について』が教えるところの流暢でよどみなく説得力のある弁論のありかたと結びつくかわりに、歴史のいたずらによって、重要な「主題」としての「倫理学および七主徳」と結びついてしまったのである。
敬虔なる中世がとくに記憶しておきたいと望んだ事柄とはどのようなものだったのだろうか? いうまでもなく、それは救済や天罰に関わる事柄であり、信仰箇条であり、徳により天国に至る道であり、悪徳により地獄に墜ちる道であっただろう。これらは、中世がその教会や司教座聖堂のあちこちに彫刻し、窓やフレスコ画に描いた事柄であった。(……)こうして記憶術は、中世の複雑な教訓思想を記憶に留めおくために用いられることとなったのである。今、この過程を呼ぶのに、「記憶技術」なる用語は近代との連想が強く適切ではないと思われるので、むしろ古典的記憶術の中世的変容と呼んでおきたい。/(……)
(……)アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスが、この規則の依拠する文献として彼らのいわゆる「トゥリウスの第二修辞学」以外の著作を知らなかったのは確実である。すなわち、彼らは人為的記憶に関しては『ヘレンニウスへ』一作しか知らず、しかも同書を、中世初期にすでに確立していた伝統を通して、いいかえると、四つの基本徳目およびその細目の定義づけを内容にもつ「トゥリウスの第一修辞学」つまり『主題の創造的選択について』との関連において、捉えたのであった。それ故、スコラ哲学的「記憶術」(ars memorativa)の論文――アルベルトゥス・マグヌスおよびトマス・アクィナスの著したもの――は、古代の文献の場合のように雄弁術に関する論文の一部をなすという形にはならなかった。人為的記憶は修辞学から倫理学へと移行したのである。アルベルトゥスとトマスがそれを論じたのは、もっぱら〈思慮〉の細目である記憶力の一環としてであった。そして、まさにこの事実こそ、中世の人為的記憶術が「記憶技術」と呼ばれるものとは全く別の代物であることを示している。というのも、それが単なる記憶技術に留まったとすれば、時としていかに有益であろうとも、それを基本徳目の一つの細目として分類するのに、われわれはやはり躊躇せざるをえないだろうからだ。
(p.83-84)
ここでいう四つの徳目とは、「第一修辞学」すなわち『主題の創造的選択について』において挙げられている(アリストテレスも書いている)「〈思慮〉、〈正義〉、〈勇気〉、〈節制〉」(p.81)だそうであって、これにキリスト教信仰と関わる三つの徳、〈信仰〉〈希望〉〈愛〉を加えると七主徳となるが、うち〈思慮〉が「記憶力(memoria)、知力(intelligentia)、予知力(providentia)の三つ」から成るとされたのは、記憶・知・予知がそれぞれ過去・現在・未来への思慮を司ると考えられたものでもあろうか。ちなみに東洋でいう「七徳」はまた全然違うものであり、他にも三教だの五行だの六韜だの、いくつの何々、というものが洋の東西を問わず限りなきヴァリエーションを伴って昔から謳われている、それらをはっきりと区分けしながら覚えこむのはそれなりに至難のわざである。この記事の冒頭に又引したアウグスティヌスは、「魂の三つの力」は記憶と知と意志だと言っているが、この三つの力と、四つの、あるいは七つの美徳、あるいは三つの信仰徳とはいったいどういう関係があるのか。何がいったい七つの美徳で、そのそれぞれを何と何とが構成しているか、それらを日々の行動指針として起居言動しうるかどうかで死後に天国へゆけるかどうか決まるというのであれば、それらを決して忘れぬように覚え込み、また人にも覚え込ませることは、確かに「敬虔なる中世」の人々にとって非常に重要な課題であったには違いあるまい。とはいえ、「魂について考察する哲学者にして理論家」(p.92)であった当時の碩学たちは、覚える・覚えない以前にそもそも記憶とは何か、それが重要な構成要素をなす思慮とは何であって、思慮に対して記憶はいかに働くのか等々のことを体系立てて考えつつ真理に迫ることを己の義務としてもいた。イェイツの筆はしばし、アルベルトゥス・マグヌスが敬愛すべき「トゥリウス」の謎めいたテクストに向かって呻吟しつつその真意を問おうとしている読解のプロセスに寄り添って進む。その姿は――アルベルトゥスのもイェイツのも――ことのほかチャーミングで、ずっと長くどこまでも引用していきたい衝動にかられるが、記憶と「トゥリウス」をめぐる議論そのものは煩瑣にわたるのでそれは諦め、枢要なポイントを簡略に記すにとどめることにする。といっても、簡略に記すというのがなかなかに容易でないので、イェイツ描くところのアルベルトゥスの議論の進めかた(それは当時普遍的な議論の進めかたでもある)にのっとって、「トゥリウス」のテクストを文字通りに読めば当然想定される反論に対してアルベルトゥスが苦吟しつつ最大限「トゥリウス」を尊重しながら出した結論、という形でいくつかのポイントを箇条書きにしてみる(p.90-95)。
- 記憶が〈思慮〉の構成要素をなすというが、記憶というものはそもそも魂において「感覚」を司る部分に属するのに、「思慮」は理性に属するのではないか、という疑念に対して。記憶は確かに感覚的な部分に属するが、アリストテレスによれば「想起」は魂の理性的な部分に属する。記憶が〈思慮〉の構成要素だというとき、この「記憶」はアリストテレスのいう「想起」のことである。「有益な教訓を過去から引き出すために用いられる」、想起としての記憶は、〈思慮〉の一部である。
- 記憶の「場loci」を用意するというときに、人それぞれ「覚えやすい」「心に強く働きかける」場所を選ぶことになるが、それが教会であれ病院であれ野原であれ、「記憶に強く刻印されることになるこれらの場所は、「実体を備えた場」(loca corporalia)」であるから、場所を覚えるという行為はあくまでも、「感覚による印象から実態のある形を受けとる想像力」という低位の力に属し、やはり〈思慮〉には属さないのではないかという疑念に対して。ここで論じている記憶とは、そういう、実体から魂に像が刻印されるプロセスのことではなく、「理性的目的のために」場を利用して行う人為的な想起のことなのである。実体としてある場を覚えることが問題なのではなくて、その場をよすがにして理性的目的のための想起を行うことが問題なのであるから。
- 場の上にイメージを置くということだが、それはいかにもややこしく煩雑かつ不正確な覚えかたであろう。トゥリウスは奇矯で目を奪うような「隠喩」のふんだんな活用を強く薦めるが、それよりも単純に暗記するほうがはるかにましなのではないかという疑念に対して。隠喩は、確かに事実をそのまま覚えるときのような正確さには欠けるかもしれないが、「魂により強く働きかける」、そして「驚嘆すべきものは平凡なものより記憶に強く働きかける」。
アルベルトゥスに限らず、記憶が〈思慮〉に含まれるかどうか、含まれるとすればどのようにか、記憶と想起はどう違うかというようなことに学者たちが執拗にこだわるのは、理性ならびに理性的なるものの枠組みを明瞭にしておくことが当時の思想にとって第一に重要だったからである。理性とは何かという問いは、神とは何かという問いとほぼ同義であり、神の似姿である人間の、その似姿である部分はいかなるものかという問いに直結していた。記憶が魂の中の理性的な部分、すなわち神の似姿である部分に属するかどうかは、記憶という営為を、救済と堕落の間を行き来する人間の営為のどこに位置づけるべきか、すなわち記憶という営為にどこまで価値を置きうるかという問いにとって極めて重要な意味を持つのである。ものを覚えたり思い出したりするということ、その能力を、人為的に訓練してまで高める意味が果たしてあるのかどうか、それをすることで人間は一歩でも救済に近づけるのかどうか。その訓練を自らも行い人々にも薦めることが、人々をよりいっそう神(=理性)から遠ざけ堕落させるのではなく、より神に近づけることになるのかどうか、およそ人々を導く立場にあるべき学者はまずその点について確信を持つ必要があるのだ。アルベルトゥスは「記憶」と「想起」を区別することでこの確信を得たが、彼の後を継いだトマス・アクィナスはその方向性をとらず、よりしなやかな論法を用いた。いわく、記憶は、動物にもある能力であるという意味では魂の感覚的な部分に属するが、理性的な目的のために人為的にその力を強め鍛えることができるという局面においては〈思慮〉の一部であり、すなわち理性的営為の一環でありうるというのであった。これは現代の我々にもすんなりと(感覚的に)納得できる感じのする議論であって、アルベルトゥスの世代から見ればほとんどモダンな議論であったのではないかなどと推量されるが、トマスのこの考え方は必然的に、人為的記憶術の価値をそれまで以上に高めることになった。人為的に記憶力を高めてこそそれは理性的な行為となるのだ、ということになるからである。トマス・アクィナスが記憶術に言及し、その言及が記憶術史にとって大きな意味を持っていたことがもっと広く知られるべきだとイェイツは諸所で力説する。
アルベルトゥス同様、アクィナスも『神学大全』の中で人為的記憶を〈思慮〉の徳として扱っている。また、これもアルベルトゥス同様、アリストテレスの『記憶と想起について』の註釈を書き、そこでトゥリウスの術に言及している。(……)/
(……)註釈の始めのほうのページには「人はイメージなしには何物も理解しえず」(Nihil potest hoo intelligere sine phantasmate)の言葉がたえず繰り返されている。ならば、記憶とは何だろうか? それは感覚的印象からイメージを受けとる、魂の感覚的部分に存在し、従って、想像力と同じ魂の部分に属している。抽象化する知性が、そこでイメージに働きかけを行うので、知性にも存在するが、それはあくまで「偶然に」(per accidens)すぎない。
以上のことから、記憶が魂のどの部分に属するかは明白であろう、つまり、それは想像と同じ[箇所]に属するのである。そして、想像が可能なもの、即ち、感知されうるものは、「それ自体」記憶が容易である。しかし、観念は「偶然に」記憶されるのみである。イメージなしには理解が叶わぬからだ。それ故、われわれにとって捉え難い精神的な事柄は記憶するのがなかなか容易ではなく、がっしりした感知されうるものは容易に記憶できる、ということになるだろう。われわれが、知性によってのみ理解されうる観念をもっと易々と記憶しようと望むならば、トゥリウスが修辞学で教えているように、それを何らかのイメージと結びつけるべきなのである。
さあ、ついにお出ましである、〈第二修辞学〉でトゥリウスが人為的記憶について述べている事柄への不可避的言及が。これらは、近代のトマス主義者たちからは奇妙に無視されているものの、非常に有名で、古い記憶の伝統においてはたえず引用されてきた言葉であり、トマス主義者に人為的記憶におけるイメージの使用を正当化するものなのだ。これは人間の弱さ、魂の性質への譲歩ともいえる。というのも、魂はがっしりした感知されうるものは容易に把み、記憶するものの、イメージなしには「捉え難い精神的な事柄」は記憶できないからである。それ故、われわれはトゥリウスの忠告に従い、そういう「事柄」を記憶したいと望むのであれば、それらをイメージと結びつけるべきなのである。
(p.98-99)
魂の内に理性的部分を持っているという点において人間は神の似姿なのであるが、あくまでも似姿であって、神と等しいわけではない。神の理性は、一点の曇りもない完全な理性であるけれども、人間のそれは不完全である、というのは当時の神学における大前提であった。神に等しい完全な理性ならば、例えば善とか正義とかいう観念、「精神的な事柄」がそれぞれどういうものであるかについても瞬時に完全に把握し記憶するであろうが、人間の理性は不完全なので、自分にいま一個のりんごが施されたということは瞬時に完全に把握できても、そしてその施しに「善」なるものが発露していたということを感知することはできても、そこに発露された「善」というものを、純然たる観念として瞬時に完全に把握し記憶し理解することはできないだろう――「りんごというものを知っていますか」という問いに対しては、「はい、いついつどこそこで食べました、あれがりんごです」と、記憶された事実に基づいて答えることができようが、「善というものを知っていますか」という問いに対しては、ごく正直に答えるならば「そうですね、善とは何かときかれてもよくわかりませんが、いついつどこそこで私にあの人がりんごを一つくれた、そのときに、善というものを感じたような気がします」とでも答えるほかはないのではあるまいか。「幸福というものを知っていますか」「寛大な人とはどのような人でしょうか」……そのような問いに対して、人はほとんどの場合何らかの「イメージ」を以て答えるしかないのだ(普段自分たちがしていることを顧みてごらんなさい)。そして中世において人が努力して覚えるべき・人に覚えさせるべき第一のものは、〈思慮〉だの〈節制〉〈正義〉〈勇気〉だのという七主徳をはじめとする数々の奨励さるべき美徳、そして反対に忌避すべき数々の悪徳に関する「観念」、人を救済か堕地獄かのどちらかへと導いてやまないところの数多の「精神的な事柄」に他ならなかったのである。諸美徳を限りなく美々しい男女の姿で描き、悪徳を限りなく醜悪な男女の姿で描くという西洋イコノロジーの発端とまではいわずとも、その展開に、こうした記憶術をめぐる議論が大いに預かって力あったのではないかとイェイツはかなり強力な示唆をするのだが、美術史への記憶術の貢献という話題については後述するとして、神学的には確かにこれは「妥協」の産物だったには違いなかろう。
いまわれわれが読み進んでいる代物には、実に何とも特異なところがある。そもそも、スコラ哲学は、理性的なもの、抽象的なものを、理性的魂が真に追及すべきものとして崇拝するあまり、隠喩と詩を一段低い想像力の次元に属するものとして禁止したのでなかったか。(……)また古代の神々を巡る、詩と関わりのある寓話の数々は、道徳上大いに非難されて然るべきだったはずである。従って想像力や感情を「隠喩」によって掻き立てることは、来世、つまり〈地獄〉や〈煉獄〉や〈天国〉だけに関心の固定しているスコラ哲学的厳格主義とはまったく相容れない考えのようにみえる。だが、〈思慮〉の一部として人為的記憶を実践しようとするならば、そのイメージの規則は、優れた喚起力をもつ故に隠喩と寓話性をどうしてもとり入れてしまうのだ。
(p.94)
アタマの中に像を思い描く程度の誰にでもできるカンタンな営みを司るだけの基盤的な能力として、「想像力」がごく低位に位置づけられていたことが、却ってこの妥協を強いることになる。というのは、「万民の教化」「万人の救済」という観点でものを考え、いかなる人であれ一人残らず救済へ導きたいと願うならば、畢竟「誰にでもできるカンタンな営み」を介して教化するしかないのは理の当然だからだ。現代においても、幼い子にはまず絵本を与え、成長するにつれて挿絵の少ない文字だけの書物へ進むとか、あるいは、同じ文法教科書でもレベルの低いものほどイラストが多い(効果を上げているとはとても思えないが)とかいうような慣わしがあるについては、こうした考え方が多かれ少なかれ作用しているだろう。17世紀初頭に公刊されたフランシス・ベーコンの『学問の進歩について』における記述にも、「イメージ」の方便的利用に関して同様の考え方が示されている。比喩を多用した詩や、舞台演劇には、歴史的・哲学的真実をそのまま理解しにくい人たちに対して、目に見えるイメージのかたちで理解をうながす効用があるというのである(そしてそれ以外の効用をどうやらベーコンは詩にも演劇にもさして認めてはいない)。イメージ、及びそれを操る想像力なるものの本格的な地位向上をみるにはロマン派の登場を待たなくてはならないが、トマスの頃からすればそれはまだ遥か5世紀も先のことなのであった。他方、クインティリアヌスの時代からはすでに7世紀余りも隔たって、「力あるイメージ」を用いた人為的記憶術は、流暢で説得力ある弁論遂行の手段から、かくして道徳的万民教化の手段へと移り変わっていたのだった。それに伴って、「場所」を選定するにあたって「明るすぎず暗すぎず」「人気のない」静かで落ち着いた場所を選ぶべきだというその理由も、『ヘレンニウスへ』が述べるようにそのほうが「イメージの輪郭が鋭く保」たれて覚えやすく思い出しやすいから、というものではなくなり、諸々の徳とその配置、魂のありかたについて〈思慮〉をめぐらせるためにそのほうがふさわしいから、というまことに修道院的なものへと移行していた。
纏めていえば、トマスの規則は人為的記憶の場とイメージに基づきつつも、それらが変形してしまっている、ということになろうか。ローマの弁論家の術において記憶し易さの故に選ばれたイメージは、中世の信仰心によって「捉え難い精神的な意図」の「実体的イメージ」へと変えられてしまったのである。場の規則も若干誤解されていたかもしれない。記憶を助けるという観点から、静かな場所の明るい光の許にあって、夫々が違っているという理由で選ばれた、場の規則のもつ記憶技術的性格は、アルベルトゥスによってもトマスによっても充分に認識されずじまいに終ったらしい。彼らは、場の規則をも宗教的な意味合いで解釈する。しかも、特にトマスの場合、肝腎なのは秩序だ、という印象をうけるのである。(……)/
(……)『ヘレンニウスへ』の記憶の箇所を読むに当って、クインティリアヌスの述べている記憶技術に関する明快な描写を参考にできたら、有益なことはいうまでもない。建物の周りをへ巡りつつ、場を選び、演説の要点を思いだすべく、場にからめて記憶されていたイメージを選ぶという、例のやり方である。中世の『ヘレンニウスへ』の読者は、この利点をもてなかった。彼は場やイメージに関する奇妙な規則を、古典的記憶術についての他のいかなる文献の助けもなしに、しかも、古典的弁論術がすっかり消滅し、実践されていなかった時代に、読んだのだった。彼はあれらの規則を、いかなる形にせよ生きた弁論術との連想なしに、〈第一修辞学〉にみられる倫理学についてのトゥリウスの教えとの密な連想の下に、読んだのである。誤解が生じても、宜なるかな、といわねばなるまい。とはいえ、すでに示唆したように、古典的記憶術の倫理的、教訓的、宗教的利用は、もっと早くから現れていたのかもしれない。われわれには皆目わからないのだが、初期キリスト教教父時代にすでに変容をみせていて、それが中世初期へと手渡されたのかもしれない。だから、私が「古典的記憶術の中世的変容」と呼んだ現象は、アルベルトゥスやトマスの発明によるのではなく、彼らが新たな熱意と注意をもって再びそれを取り上げる遥か以前からすでに存在していたことは充分考えられるのである。
記憶術そのもののスコラ哲学的な模様替えと強烈なその推奨は、術そのものの歴史において極めて重要な時点を画し、その影響力の大いなる頂点の一つを記している。しかも、それは13世紀が行った努力一切の全体像の中に、いかにもきちんと収まっている。トマスやアルベルトゥスを著名な代表者とするような、学識あるドミニコ会修道士たちの目的は、教会を保持し、擁護するために新手のアリストテレス的学問を用い、それを教会の中に吸収し、現存の学問全体をその光の下に再検討してみることにあった。トマスの膨大な弁証法的努力は、衆知の如く、異教徒の議論の論駁に向けられていた。アリストテレスを潜在的な敵から教会の味方へとかえた人物こそトマスなのであった。もう一つのスコラ哲学者たちの偉大な努力、即ち、アリストテレス倫理学そのものの、既存の美徳と悪徳の体系の中への取り入れについては、今日ではさして研究されていないが、当時の人々にとっては、最初の努力以上ではないにせよ、それと変らぬほどに重要と思われていたに相違ない。美徳の構成要素、既存のトゥリウス的体系へのそれらの取り入れ、アリストテレスの霊魂論の光の下での分析――こういったことすべてが、もっとよく知られたトマス哲学と弁証法同様、『神学大全』の一部、大哲学者を吸収せんとする努力の一部をなしていたのであった。
(p.105-107)
2 ドミニコ会と「変った人」たちのこと。イメジャリーのその後(第3-5,8章より)
アルベルトゥス・マグヌスもトマス・アクィナスもドミニコ修道会に属していたが、彼らが記憶術の中世的変容の立役者となったそもそものきっかけのひとつは、ボローニャで盛んに行われていた「文体術」にあったのではないかとイェイツは推測している。
よく知られているように、中世初期において古典修辞学の伝統は、「文体術」(ars dictaminis)つまり書簡体および公文書の書式で用いるべき文体の技術、という形をとった。この伝統の最も重要な中心のひとつがボローニャにあり、12世紀後半から13世紀初めにかけて、ボローニャ学派の文体はヨーロッパ中に知れ渡っていた。この学派の有名な一員がボンコンパーニョ・ダ・シーニャであり、彼の修辞学についての二つの著作のうち二番目に当る『最新修辞学』(Rhetorica Novissima)は、1235年にボローニャで書かれている。ほぼ同時期の同じボローニャ学派に属するグイドー・ファーバを研究したE・カントロヴィッツは、この派に一貫して流れる神秘主義的風潮、修辞学を宇宙的背景のうちに位置づけ、それを「神学に対抗すべく準・神聖の領域」にまで高めようとする傾向に注意を促している。この傾向は『最新修辞学』に顕著であり、そこではさまざまなものの超自然的起源が示唆されていて、たとえば「説得」(Persuasio)も天国にあったに相違ないとされている。さもなければ、ルシファーが天使たちを説得して堕地獄の道づれにすることはかなわなかっただろう、というわけだ。また、隠喩つまり転喩法(transumptio)は、疑問の余地なく〈地上の楽園〉で産み出されたに違いない、という。////
だが、ボンコンパーニョによる記憶の論述のもっとも際立った特徴は、彼が記憶および人為的記憶に関連するものとして、〈天国〉と〈地獄〉の記憶をそこに含めて扱っている点である。
//(……)哲学を学びながらも過度の明敏さ故に身を誤ったアテナイ人の中には、肉体の復活を否定する者があった。……この忌むべき異端の説は、今日でもある種の人々の追随するところである。……しかしわれわれは、カトリック信仰を毫も疑うことなく、また、われわれは天国の目に見えぬ喜びと地獄の永劫の苦しみとを、たゆまず心に刻みつけておかねばならない。
(……)記憶の種たる働きとして、〈天国〉と〈地獄〉を覚えておくことこそ第一に必要であるという点と明らかに関連しているのが、ボンコンパーニョの挙げる美徳と悪徳のリストであろう。彼はこれを「記憶の目印」と呼ぶが、「記憶」の道程でわれわれをしばしば導いてくれる指示もしくは「標識」(signacula)のことである。そうした「記憶の目印」には、以下のようなものがある。
……叡智、無知、賢明、軽率、神聖、頑迷、仁愛、非情、温和、狂乱、明敏、愚直、高慢、謙遜、大胆、恐怖、寛大、小心……。
ボンコンパーニョは幾分変った人物であるし、彼の生きた時代を丸ごと代表する存在とは考えられないものの、考えてみると、このような信仰と倫理に基づく記憶の解釈、ならびにそれが適用さるべき対象こそ、アルベルトゥスおよびトマスが、記憶の規則を彼らなりに慎重に改訂して定式化した際に、背景にあったものかもしれない。アルベルトゥス・マグヌスがボローニャ派の神秘主義的修辞学について知っていた可能性は大いにありうるのだ。何故なら、ドミニクスが学識ある修道士を教育する場として創設したセンターの中でも、もっとも重要なものがボローニャにあったからである。アルベルトゥスは1223年にドミニコ修道会の一員になって以来、ボローニャのこのドミニコ会修道院で勉学した。ボローニャにおけるドミニコ会修道士とボローニャの「文体術」派との間に何の接触もなかったとは到底考えられない。(……)ボンコンパーニョの著作の記憶の箇所は、アルベルトゥスと(アルベルトゥスの教えを受けた)トマスが『大全』で推奨した高潔な活動としての記憶の訓練の目ざましい普及ぶりを、おそらく先どりして示しているのではあるまいか。
(p.84-88)
ドミニコ修道会は1216年に認可されているから、アルベルトゥスが1223年に修道士になったときには、新進気鋭、若く勢いのある教団であった。清貧の生活を送ること、説教という手段で民衆の教化と異端の駆逐につとめることを責務とするのは、同時期に設立されたフランシスコ修道会とほぼ同様だったが、同じ托鉢修道会でもドミニコ会はさらに学問研究の責務をもみずからに課していたのがフランシスコ会と一線を画すところであって、ウィリアム・オッカムが活躍する14世紀には後者も(ドミニコ会の影響もあって)学問を大いに舞台とするようになったけれども、ボンコンパーニョからアルベルトゥス、トマスの頃には、みずから説教者であると同時に学者であるような修道士の教団といえばまずドミニコ会が一頭他を抜いていたのである。なおここでいうような「説教」とは、現代のわれわれが考える「お説教」のような軽いお話というよりは、仏教でいえば偉い僧正がときに行う威儀を正した法話のようなものであり、本来そういうものであった「説教」を、現代では日曜学校のたびにどんな小さな教会の牧師さんも熱意のおもむくままになす、それこそ誰でも聞けるお話としてのそれへと間口を遥かに広げたのが、これらふたつの説教者集団であったといえるかもしれない。ミサや典礼のたびに信者に向かってする穏やかな講話から、修道院で若い学徒たちを相手に開催する定例ないし出張ゼミナール、異端が広まりはじめた村へ乗り込んでいって勇猛果敢に絶叫するアジテーション演説まで、時と機会と聴衆によりさまざまな性格を併せ持ちうるのが、当時彼らの「説教」なのであった。
修道院の誕生によって、修道士たちが、説教の形で、古典時代の弁論術を蘇らせることとなった。実際、〈説教師教団〉たるドミニコ会修道院設立の目的は、説教であった。そして、中世に装いをあらたにした記憶術がそこで用いられたのは、主として、弁論術の中世版といえる説教の記憶のためだった、というのはほぼまちがいないところだろう。
説教の改革におけるドミニコ会修道士たちの研鑽の努力は、ドミニコ会神学者たちの哲学、神学の領域における改革の努力と軌を一にするものであった。アルベルトゥスやアクィナスらによる神学についての体系的な著作、『大全』(Summae)の類は、哲学、神学を抽象的に定義するためのものだった。そして、それらは、倫理学の領域では美徳や悪徳の細目化というかたちで抽象的な議論を明快に示していた。しかし、それだけでは不十分で、実際の説教に当る修道士には、別タイプの『大全』が必要だった。彼らには、具体例やたとえ話の『大全』が必要だったのである。
(p.114)
トマスの衣鉢を継いでドミニコ会士たちもそうでない人たちも競うように次々と産み出した各国語による多くの「記憶術論考」「記憶術大全」の類の書物を紹介しながら、ドミニコ会的記憶術がいかにその後人気を得て伝播していったか、その様子をイェイツは遺憾なく我々に知らしめてくれるが、興味深いことにそれらのいわば集成版マニュアル的な書物には、わずかな例外を除いてほぼ全く挿絵がついていないらしいのであった。「われわれは、芸術における外在化された表象と記憶における不可視の像とは自ずから別物と、つねに銘記しておかなければならない」(p.121)とイェイツは繰り返し強調する。例えば「美」という概念には、それを思い浮かべやすい「実体的イメージ」を組み合わせなさい、あなたの初恋の人の姿でもいいし、異教の神ではあるけれども何ならヴィーナスの誕生するところを思い浮かべてもいいでしょうなどという例示が「マニュアル」に載っていてもおかしくはないが、記憶術にイメージを用いることの要諦は、「自分があるものをそれと結びつけて覚えやすい/思い出しやすいイメージを思い浮かべる」というところにあるのだから(その点は中世でも変わらない)、実際に思い浮かべられるところの像そのものは、それを思い描いている当人にしか見えないし、それでいい、どころかあらかじめ挿絵などがあって「美という概念は、このような絵と結びつけるのがよい」と言われ、かつ、その絵がその人の目に美しく見えなかったらどうするのか。あたら「美」なる概念が、当人にとってまことに美ならざるものと連結されてしまい、その者にとって美徳の配列に大きな支障をきたしかねない。……というのが理由だったのかどうかは判然としないが、とまれ記憶術教本にイメージのお手本としての挿絵はないのが普通だったようで、記憶のために用いるイメージの生産は、ひとえに、ものを記憶しようとする一人ひとりの脳裏すなわち〈思慮〉に委ねられたのである。ドミニコ会士であれ誰であれ、説教をするときにいかなる記憶イメージを駆使していたかは――それは「不可視」であって説教自体において赫々と輝き出ているようなものではなく、現代ふうにいえば個々の説教者の内面に秘匿されているのであるから――決して知ることができないのだ。したがって、それを知る手がかりをそれでもどこかに得たいと思えば、逆説的に、「芸術における外在化された表象」にそれを求める以外にない。
記憶に際して具体的な姿かたちを作り出す努力が認められ、それが多彩で個性的な想像を育むきっかけとなった。トゥリウスもいっているではないか、だれもがそれぞれ自分で記憶のためのイメージを産み出さなければならない、と。こうして、トゥリウスの推奨する記憶のためのイメージの持つドラマティックな要素は、スコラ哲学のなかで記憶術の重要性が叫ばれ、『ヘレンニウスへ』にたいする関心が再び高まる中で、天賦の才に恵まれた芸術家の心をとらえることとなったのである。ジョットのたとえば〈慈悲〉や〈不貞〉の擬人像が示しているのは、こうした経緯であろう。前者は人を惹きつける美しさを持った女性で、その姿は生き生きとした動きを示している。一方、後者は狂乱を表わす身振りをしている。また、〈嫉妬〉や〈愚行〉でも、同様に記憶に役立つグロテスクさ、突拍子のなさがうまく利用されている。また、これらの絵に見られる深い奥行きの感覚は、記憶のためのイメージが、注意深く背景、記憶術の用語を用いて言えば「場」に収められなければならないことが強調された結果なのである。(……)私は次のように言っておきたい。ジョットは、周到に変化を与えられた「場」を背景にして、イメージを際立たせるべくなみないならぬ努力を払っている。そうすることで、自分は記憶に残る印象深いイメージを産み出すことを勧める古典的記憶術の叡智にしたがっているのだ、と信じながら、彼はこうした絵を描いていたのである、と。
(p.122-123)
なんと、ジョットの有名な遠近法の起源が他ならぬ記憶術にあったとは! イェイツのこの驚くべき仮説――少なくとも本書公刊当時には驚くべきものであっただろうこの仮説は、今どうなっているだろうか。新たな展開をみて衆目の認めるところとなったか、それとも覆されて忘れ去られたか、それはもっと最近の他の関連書物を紐解いてみなくてはわからないが、わくわくするような仮説がもうひとつ、
ロンベルヒは、『記憶術集成』(congestorium artificiose memorie)(初版、1520年)のなかに、天国、煉獄、地獄の記憶を初めて取り入れている。彼の述べるところによれば、地獄はそのひとつひとつをそこにつけられた罪を表わす名とともに記憶にとどめねばならない、さまざまな区画に分かれている、という。
正統的なキリスト教の教えでは罪人が受ける罰は犯した罪の性格に応じたものとされるので、こちらのほうでは〈高慢〉が磔刑に処されているのが見え、……またあちらのほうでは、〈大食〉、〈強欲〉、〈憤怒〉、〈怠惰〉などといった罪を背負った人々が、それぞれ硫黄で焼かれたり、火責めにあったり、瀝青をかけられたり、その他罪に見合った罰で[罰せられている]。
/(……)とすれば、ダンテの『地獄篇』とは、地獄とそこで与えられる罰を整然と配列された鮮烈なイメージで描き、避けなければならない悪徳を心に刻むための記憶法のひとつとみなされていた、ということになるかも知れない。その可能性は、われわれに驚きを与える。だが、この点について説明を加えることは差し控え、驚きを与えるものとしてそのままにしておこうと思う。というのも、『神曲』にたいしてこのようなアプローチを取ることがどんな意味を持つかを説明しようと思えば、それを解き明かすだけで一冊の本を書かねばならなくなるからである。とはいえ、これはけっして乱暴なアプローチでも無理なものでもない。『神曲』を、地獄、煉獄、天国のそれぞれの場所の配列にしたがい、さらに地獄のそれぞれの領域の配列が天国の諸領域の配列の逆となっている宇宙的な配列にしたがっているものと考えてみよう。そうすれば、この詩が、実体的イメージや具体例を整然たる配列にしたがって並べ、宇宙に対応させた一つの大全になっていることがわかるはずだ。さらにまた、さまざまな具体的な形をとった〈思慮〉が『神曲』の主要な象徴的主題だということに気づけば、その三部構成は「記憶」、「知力」、「予知力」に対応するものとみえてくる。即ち、〈地獄〉で悪徳とそれが受ける罰を記憶にとどめたのち、現在を改悛と徳の習得のために用い、そして最後に天国を仰ぎ見る、という構成をこの詩は取っている、というわけである。この解釈においては、中世流の人為的記憶術の原則が、美徳や悪徳などのさまざまな具体的なものの姿を鮮明に視覚化する契機となっていることになる。そして、この場合のキリスト教徒の勤めとは、神の思し召しである救済にいたる道筋や、美徳と悪徳とそれにたいする報いと罰が織りなす込み入ったネットワークを記憶にとどめようという努力である。それは、記憶を〈思慮〉のはたらきの一分野として用いる賢明な人間のなす業なのである。
こうして『神曲』は、抽象的な大全を具体的なものの姿や例え話からなる大全に置き換える卓越した実例となる。その際、記憶術は抽象的概念とイメージのあいだの橋渡しをする変成力としてのはたらきを示す。しかし、アクィナスが『神学大全』で提唱した実体的イメージをダンテが用いた理由は、記憶のためということのほかに、もうひとつ考えられるかもしれない。つまり、聖書においても詩的隠喩が用いられ、精神的な事柄が実体的イメージによって語られているという事実である。だから、もしわれわれが、ダンテ流記憶術を、記憶術という秘儀的な修辞法にキリスト教神学の秘儀が付け加わったものとみなしうるとすれば、トゥリウスにおけるイメージは精神的な事柄を表わす詩的隠喩に姿を変えてしまうだろう。思いおこされる方もおありになろうが、ボンコンパーニョは秘儀的な彼の修辞学の著作中で述べていた、隠喩は〈地上の楽園〉で産み出されたものである、と。
(p.124-126)
結局ボンコンパーニョはそれほど「変った人」であったわけではないのかもしれない。彼とその一派の「文体術」が示したという「神秘主義的風潮」がどのようなものであったかをイェイツはそれほど詳らかにしないが、「修辞学を宇宙的背景のうちに位置づけ、それを「神学に対抗すべく準・神聖の領域」にまで高めようとする傾向」というフレーズはむしろルネサンス的な響きを持つ。「ダンテ流記憶術」すなわち「記憶術という秘儀的な修辞法にキリスト教神学の秘儀が付け加わったもの」、言い換えれば古代の人為的記憶術が中世キリスト教的に変容したもの、から今一度、救済のために徳目を覚え込むという宗教的目的を引き去れば、おそらくはそこにルネサンス的変容を被った記憶術、というよりもすでにあからさまに総覧の術というべきものが出現するのである。
そして、「芸術的に外在化された表象」としての視覚芸術はやがてもう全く方便にはおさまりきれない過剰なほどの豊穣を示してゆくが、面白いことにおそらく言語芸術のほうも、記憶術の恩恵をひどく被ったのである。恩恵をひどく被るというのはおかしな言い方だが、その恩恵が本当に恩恵と呼ぶべきものであったかどうか、今なお定かでないように思えるからだ。が、ともあれ言語による「描写」をそれまで以上に豊かにしていくきっかけと、豊かにしていっても構わないというエクスキューズとを、良かれ悪しかれ中世的記憶術の隆盛はともどもに文学に与えてくれたわけだった。挿絵のないマニュアル本の中で、いかなる「絵」を思い描くべきかについて著者たちはせいぜい言葉を尽くしてその「絵」を描写し、記述し、説明しなくてはならなかったし、それが求められていたのだから。「実際に描かれるべく意図されたというよりは、記憶の手立てとして使われた手の込んだ「絵」についての説明」、「記憶のなかにのみとどめられ、記憶のために実用化された」「不可視の記憶イメージの実例を示してくれる」はずの詩文の例をイェイツは示してくれている。ジョン・ライドヴォールという人が記した書物の中の、〈偶像崇拝〉をあらわす詩、
彼女はよく知られた女で、目は奪われ、
耳はそぎ取られ、角を生やしていて、
表情は崩れ、病に冒されている。
(Mulier notata, oculis orbata,
aure mutilata, cornu ventilata,
vultu deformata et morbo vexata.)
ここに描かれているのは、間違いなく記憶のためのイメージである。それは、印象深い姿によって記憶力を刺激するものとして案出されたもので、(詩の力を借りて)記憶のなかで人知れず描かれることのみを意図し、偶像崇拝についての説教の要点を思い起させるために使用されたものであることは、疑いを容れない。
(p.128)
「中世にグロテスクなものや奇異なものが好まれたことは、記憶をもちだすことで説明ができるのだろうか」とイェイツは問う。「手稿本の装飾をはじめ中世の芸術一般に見られる奇怪な形象は、苦悩に充ちた精神を示すものではなく、ものを記憶にとどめる必要があるとき、中世という時代が記憶イメージの形成に関する古典時代の規則に従ったことを示す証拠なのだろうか。13-14世紀があらたなイメージの百花繚乱の時代だったという事実は、スコラ哲学者たちによってふたたび記憶術が重視されるようになったことと関係があったのだろうか」、そして「たぶんそうだったのだろう」と(p.136)。しかしトマスやアルベルトゥスのような敬虔なキリスト者、ひいては「キリスト教以前のキリスト者」たる伝説の「トゥリウス」らの良き意図がどうあれ、「イメージ」の多用という方針には、その百花繚乱に至る過程で、さまざまに意匠を凝らしたイメージを記憶のよすがに用いる以前に端的にそれを見る悦楽、嘆賞の愉楽もまた密かに忍び込んでいなかった筈はあるまい。そもそも、本来不可視であるはずの「絵」を、実際に絵の具を使って可視化してみようと試み、どう、うまくできてる? ああ、いいね、こんな感じだ等々という会話が最初に交わされた時点で、禁断の木の実は既に味わわれてしまったに違いなく、それから数世紀を経るうちに人間がかくも視覚に耽溺 し、本来低位の「想像/創像力」を際限なく肥大させてゆこうとは当時のドミニコ会士の誰がいったい想像したろうか。
スコラ哲学の時代は、知識増大の時代であった。それはまた、〈記憶〉の時代でもある。この〈記憶〉の時代にあって、あらたな知識を記憶するためにあらたなイメージが必要とされた。キリスト教の教義や徳育において枠組みとなる主題自体は、この時代になっても、さほど大きく変化したわけではない。しかし、その細部は、複雑さを増すこととなった。とりわけ、さまざまな美徳や悪徳のおりなす網の目は、より包括的なものとなり、以前に比べはるかに厳密な定義と組織化を受けることとなった。かくして、この時代には、徳の道を歩もうとする心清きものは、悪徳とは何かをつねに覚えていてそれを避けねばならず、以前の素朴な時代に比べてはるかに多くのことを心に刻み込んでおかなければならなくなったのである。
(p.114)
13世紀から14世紀にかけて、言うなればアルベルトゥスからダンテまでの時代は確かに情報爆発の時代であったらしいのは、他の諸書にも大いに詳らかなところだが、覚えることが多すぎて、自然的であれ人為的であれ人間の記憶力には余るようになってくると、不思議なことに、記憶力に代わる新たなメディアが登場する。印刷術である。印刷本の普及によって、イメジャリーのみならず記憶ボックス自体がまるごと外在化され、人はみずから全てを記憶しておく必要からひとまず解放され、陳腐な言い方を投入するなら、時代は記憶の時代から記録の時代へと移り変わってゆく。ルネサンス以降の記憶術は、言うなれば徐々に記憶術というより記録術のほうへと不可避的に近づいていくのであったが、おそらくまた翻ってそれゆえに、それらの術をとりまく様相には、記憶というものに対するある種の憧憬のようなものが絶えずつきまとい続けるだろう。だがそれはまた稿を改めて学び考察すべき主題である。
ところで「変った人」といえばこの文脈ではライムンドゥス・ルルスにとどめをさすだろう。カタルーニャの人でありトマス・アクィナスのほぼ同時代人で、その独自の「結合術」(ars combinatoria)等を以て西洋思想史に独特の位置を占める有名な人であり、ルルス研究そのものには長い伝統があるはずだが、彼の「結合術」を「記憶術」と直接に結びつけて論じようとしたのはひょっとしたらイェイツが最初だったのかもしれない。イェイツはこの人をカタルーニャ名のRamon Llull(ラモン・リュイあるいはルル、邦訳はルル)で呼び、一章を割いているが、「今私は、ラモン・ルルの記憶術とはいかなるものであったのかについてある概念を与えるばかりか、なぜそれが記憶術といえるのか、また古典的記憶術とどう違ったのか、そしてルネサンスにおいてその教えが古典的記憶術のルネサンス的形態へといかに吸収されていったのか、といった事柄について大して長くもない一章を書かざるをえない羽目に陥っている」といい、「不可能なことを試みているのはわかっている」ともいう(p.209-210)。イェイツの『記憶術』原書が1966年に刊行されてからはや50年、その間には記憶術についても、またルルスについても、おそらくイェイツが予測していなかったほどに華々しく研究が展開しているとおぼしいが、ルルスに関するかれのこうした記述などを読むと、未開拓の領野におそるおそる、しかし決然と足を踏み入れようとする学者の姿がそこにあって、大いに励まされもし、また学問というもの一般への希望が回復するのを覚えもする。ジョットの遠近法やダンテの『地獄篇』を記憶術の文脈で捉えようとするところなども、言うなればかれなりの「結合術」であるのかもしれない。ルルスについてはイェイツのひそみに倣って(と言えばあまりにおこがましいが)また別に大して長くもない記事を立てることにし、ここではイェイツが挙げているルルスの術の特徴を三つ、引き写しておく。
- 「イメージ」の使用を拒絶すること。
- 「配置」に可動性があること。
- 「記憶」は、かれの術法自体を覚える、ということに特化して用いられること。
各種の徳目や重要な「精神的な事柄」とその秩序立ったネットワークの把握を目的とするのはルルスの術でも同じといえば同じだが、たとえば「善」という概念に対してトマス流の記憶術ならば、何かしら「善」を思わせる「実体的イメージ」、やさしげな人物なり動物なりを各自選んで用いるところ、ルルスの結合術においては単に「B」というアルファベットが当てられる。またトマス流記憶術においてはその「秩序立った」各種概念は「人気のない、静かな」教会や修道院のような「場」に、瞑想の対象として静的に(あたかもミュージアムのように)配置されるが、ルルスの術において諸概念は「実体的な場」ではなく単に円盤の上に配置され、円盤の回転につれて互いの組み合わせを変えるのである。その順列組み合わせにおいて諸概念の内実は余すところなく表示されるので、概念配置自体を記憶する必要はなく、円盤を適切に回転させる術式さえ記憶しておけばよいというわけだ。イェイツは、イメージを駆使する古典的記憶術が「情緒的、演劇的、芸術的」性格を持つのに対しルルスの術は「ほとんど代数的ないし抽象科学的」だと評しており、実際、計算機の思想史、のようなものを人文的にたどろうとするときにライプニッツからルルスへ遡るのは今や定番となっている。ルルス自身は、異教徒・異端に対する布教・宣教と清貧の生活に情熱を捧げた(といわれる)点で托鉢修道士的な生き方を志していて、著述や学術普及に力を入れたところはドミニコ修道士にたいへん近いありかたをめざしていたとおぼしいが、イェイツによれば「ルルは確かに彼の時代に強大な力で聳え立っていたドミニコ会の記憶術を知っていた。自らそれに強く惹きつけられもしたし、ドミニコ会には手持ちの術があったがために、結局成功しなかったとはいうものの、この修道会そのものをして彼の〈術〉に興味を持たせようとも試みたのであった。しかし、もう一つの説教修道士の集団であるフランシスコ会が、ルルに興味を示した。後の歴史において、それがフランシスコ会としばしば結びついた形で見出されるのは、その故なのである」(p.211)とのことだった。ルルスが自らの難解な〈術〉を営業しにドミニコ修道会の門を敲き、「いや、せっかくだけどウチにはウチのがあるから」と丁重にお断りされている場面などを「想像」するとまことに愉快なのであるが、イェイツが挙げているもうひとつの逸話は次のようである。
彼があるドミニコ会の教会にいた時に、〈説教師集団〉においてのみおまえは救いを見いだせるだろう、という声がしたという。しかし、そこに入れば、彼は自らの〈術〉を棄てねばならない。かれはそこで、己れの魂が万が一、犠牲になっても〈術〉を救おうという大胆な決心をしたという。「多くの人が救われる可能性のある術が失われることよりも、自らが呪われる道を選」んだ、というわけだ。
(p.229)
同時代に書かれたというこの逸話についてイェイツは「実体的イメージを彼の〈術〉がイメージとして使わなかったということで、〈地獄を想え〉が充分に強調されていないと、ルルは脅されていたのだろうか?」と問いかけているが、その後何世紀かを経るうちに人類が放恣なまでに拡張した「イメージ」のラグジャリー、「視る快楽」の甚だしい増大を知っている目から見ると、ルルスによる「実体的イメージ」のほとんど禁欲的な拒絶は、その清貧思想とも関連があったような気がしてならない。「生涯無一物」の清貧思想はドミニコ会もフランシスコ会もともどもに掲げていた看板のひとつであったけれども、個々人は無一物でも、会そのものが共同体として資産を持つことを強く戒めていたわけではないから(その点フランシスコ会では論争があり、会の分裂を招いた)、両修道会、ことにドミニコ会のほうはやがて必然的にそれなりの大荘園領主となっていくのである。余談だが、しばしば語り草となる通り、フランシスコ会の修道服が色染をしない生成りの生地でできているのに対しドミニコ会の修道服は漆黒であったことが、現代における両会の「イメージ」成立におそらく大きな役割を果たした。映画版『薔薇の名前』には、両修道会にベネディクト修道会を加えた三大修道会に属する者たちがそれぞれ登場するが、主人公の放浪修道士、探偵役でもあるバスカヴィルのウィリアムはフランシスコ会士で生成りの服、付き従うワトソン役のアドソ他周囲をとりまく修道士たちはベネディクト派の茶色い服、そして異端審問官でドミニコ会士のベルナール・ギーはひとり漆黒の服で登場する、その登場は豪奢かつ権威的で、あたかも第二次大戦を背景とする戦時映画でナチ親衛隊の漆黒の制服をまとったゲシュタポ士官が禍々しく登場するシーンさながらであるが、『薔薇の名前』に設定された14世紀という時代にあっては、布を漆黒に染めるということ自体が、20世紀とは比較にならぬほど高価な贅沢だったはずである。ルルスがドミニコ会的な人為的記憶術を受け入れなかったのは、「イメージ」およびその使用推奨の姿勢に、潜在するラグジャリーの気配を嗅ぎ取ったからではないのか、そしてフランシスコ会がかれの術をいわば「拾った」のもまた同じ理由からではなかったのか、と勘繰ってみたくなるのだった。なにしろ始祖からしてその清貧主義の度合いは、聖ドミニコに比べて聖フランシスコのほうがはるかに極端だったのであるから――それでもそのアッシジの聖フランシスコが小鳥に向かって説教をするときにも、隠喩のひとつふたつくらいはおそらく使ったことだろう。そして現代の私たちは、天国も地獄もおよそ当てにならぬものであり、かずかずの美徳も悪徳も一概には定義できないことを知っている。聖トマス・アクィナスはその最晩年のある日、「大変なものを見てしまった。私がこれまで書いてきたものなどみなゴミくずだ」と言いながら真っ青な顔で帰宅し、以後は筆を折って3カ月後に憔悴して死んだと伝えられるが、かれがいったい何を「見た」のか、時折ふと知りたく思うのである。
2011.01.19