Teleworking Teletubbies
1. 幼児番組としての『テレタビーズ』の設定とその不穏さについて

「論文やレポートを書くときにウィキペディアを参照しては絶対いけない」としばしば学校では教えるようである。確かに、ウィキの記載がすべて「信頼できる典拠」となりうるかといえば大いに怪しいし、そもそもウィキへの記述そのものが「典拠」を求められていることからして、学術的には典拠とするに値しないとみなされていることにもそれなりの理由があるだろう。とはいえそれを言うなら、単行本になって本屋に並んでいさえすれば信頼できる典拠だという通念/固定観念もそれはそれでどうかしていると思うわけで、要は「大いに怪しい部分があるかもしれない」ということをしっかり認識していさえすれば、単行本だろうがウィキだろうがそれぞれなりに一定の役に立つ。ウィキでも、しっかりと多くの典拠をひきながら詳細に記述されているページの多くは、「世の中でそれがどのようなものとして把握されているか」についてあらましを知るのには大いに役立つし、既存の百科事典などにはほとんど記載がないような項目に関してウィキの充実度が群を抜いているような瞠目すべきページもしばしばある。結局は、どんな記事でも、最終的にそれをどこまで信頼できるかはこちらの判断にかかることなので、我々としてはがんばって自らの鑑識眼を高める訓練をするにこしたことはない。それに、仮に大いに疑わしいページであっても、「そこに何が書いてあるのか」を見るという点では、常に有益なソースになりうる。継続的にウィキに寄付をしている身としては、これを便利に活用しない手はないのである。さっそく『テレタビーズ』についてウィキの解説を見てみる。これは幼児向けのテレビ教育番組で、「イギリスのBBCで1997年3月31日から放送され、120カ国以上の国で視聴されている」そうだが、
テレタビーズは番組を通じて自然に身につく教えや、押しつけがましくない教育を目指して作られている。このため子供たちが自然に番組に引きつけられるよう随所に工夫がされている。例えばナレーションとキャラクターとの会話で、言葉と言葉の間隔を十分にあけることで、ナレーションの問いかけに対して、キャラクターよりも視聴している子供たちに先に答えさせようと仕掛けていることや、キャラクターの話す言葉や発音をたどたどしくすることで、同世代の友達と遊んでいるような感覚を演出し緊張感を無くしている。
テレタビーズはファンタジーな世界の物語だが、見ている子供たちに「テレタビーズは本当にいるんだ」という現実感を持たせるよう、番組中に実世界の子供たちの生活などをテーマにしたショートフィルムを流して、現実とのつながりを表現している。尚、このショートフィルムはテレタビーランドの丘にある魔法の風車が回ると、キャラクターの頭部のアンテナが映像を受信してお腹のテレビ画面で映し出す仕組みだが、この時全く同じ映像が2回繰り返して流されるため、制作の手抜きに思われている節がある。しかし実はこれも番組の工夫の1つで、同じ内容の映像を繰り返すことにより、子供たちに次に起こることの予測がしやすいよう仕掛け、予測力を養っているのである。この他にも、同じ動物が2頭並んでやってきたり、同じ船が3艘並んでやってきたりと、ところどころに数の概念が盛り込まれており、数えることを養う工夫もされている。
確かにいろいろな要素の反復がこの番組の大きな特徴をなしている。だいたい小さい子は、気に入った遊びは何度でも繰り返してやりたがる傾向があり、何かが面白かったときには「も一回!」「も一回!」とうんざりするほど何度でもせがんでくるものだ。今回見直したのはSession 1 の Episode 1 つまり『テレタビーズ』シリーズ全体の第1話だが、自転車であそぶ親子の映像が2度繰り返されたのには私もちょっとびっくりして、何かの編集ミスかなとか一瞬思ったくらいだが、見ていたら2度の映像のラストが微妙に異なっていたので、ミスではないようであった。2000年前後に日本版のビデオテープが発売されていて、音声も日本語に吹き替えられていたと思うが、2度繰り返される映像のふたつ目だかひとつ目だかは他の、別の映像に置き換えられていたような記憶があり、確認したいと思ったけれども今ちょっとVHSを手軽に見られる状況にない。
テレタビーズたちの年齢は、喋り方とかそのたどたどしさとか、何を面白がるのかとか、面白がるときのその様子などから、おおよそ、自転車で遊んでいた子供と似たようなあたりに設定されているとおぼしい。お尻がふくらんでいて、ちょうど、まだオムツをしているかオムツがとれたばかりで、よちよち歩きからだいぶ歩いたり走ったりとんだりできるようになった歳ごろの、でも言葉はまだかなりカタコトの、だいたい2歳すぎから幼稚園に入るか入らないかくらいの幼児という感じにできている。ウィキによれば4人のタビーズが色や大きさが違うのは「いろいろな人種や性別をあらわしている」のだそうでそれはちょっと意外だったが、なるほどそういうこともあるのかもしれない。ウィキによればタビーズのキャラクター造形に関してLGBT絡みで深刻な論争が生じたことがあるようで、それはそれで興味深い話題だと思うが今回は措く。面白いと思ったのは以下のような記述である。
製作予算は800万ポンド(1ポンド150円換算で約12億円)が組まれ、1995年~2001年にかけて全365話が制作された。撮影地はラグドール本社の所在地であるイギリスミッドランド地方のストラトフォード・アポン・エイヴォン郊外で、農場の一角にテレタビーランドの屋外セットが作られ、屋内シーン、屋外シーン共にそこで撮影が行われた。尚、番組の設定でテレタビーズのキャラクターはテレタビーランドにだけ存在するとされていたため、いかなる公式イベントにも実物のキャラクターが現れることは無く、またこの撮影地の所在も極秘にされた。全365話の撮影が終了すると撮影地は農場に返された。
2007年3月に放送開始10周年を迎え世界各地で記念イベントが行われた。この時イギリスで行われたプレス向けのキックオフイベントで、制作者のアン・ウッドとアンドリュー・デボンポートよりテレタビーズの4人にテレタビーランド製のパスポートが発行された。このことでテレタビーズはテレタビーランドの外に出ても良いという設定に変わり、実物のテレタビーズがイベントに参加出来るようになる。(……)
一般向けの10周年記念イベントでは主にニューヨークで大きなものが行われた。この時初めてテレタビーズが一般に姿を見せ、ニュース番組への生出演や、ニューヨークの街を歩くパフォーマンスを行った。
「むかしむかしあるところに」で始まる第1話だが、「緑の丘にテレタビーズたちが住んでいます」という、そこは「テレタビーランド」であるらしい。タビーたちはそこに「だけ」住んでいることになっている「ため」、公式イベントに出られない。それがあるとき「出ても良いという設定に変わ」ったので、イベントに出られるようになったと。これは、すらっと読めば何ということもない、ありがちな話かもしれないが、よく読むと不思議な記述だ。タビーたちが「タビーランドから決して出ないという設定になっているので、イベントに出演することはなかった」というのはわかるとして、「タビーランドから出てもよいという設定に変わった」のでイベントに来るようになった、というのは、どういうことなのだろうか。このあたりの曖昧さがウィキだなという感じもするわけだが、「タビーランドから出てもよいという設定」というのは、二通りの意味に解釈できる。ひとつは、「タビーたち別にランドにだけいなくってもいいじゃん、外出てもいいことにしようぜ」という意味であり、いわば、「テレタビーズはタビーランドに住んでて絶対に外へは出てこないっていう設定」から、「テレタビーズは基本的にタビーランドに住んでいるけれども、ときどきはこっちの世界にも来たりするという設定」に変わった、ということ、まあ普通に考えればそういう意味だろうなと解釈できる。もうひとつの解釈は、「もともとの設定では、タビーたちはタビーランドから出てはいけないことになっていた、それが、新しい設定では、ランドから出てもいいことになった」という解釈。「外に出ても良いという設定に変わり……」という文言は、そのような意味にも解釈できるのだ。常識的な推測としては、この記事の筆者は、前者のような解釈で一意に読んでもらえるような文を書こうとして失敗したのだろうと考えられるけれども、結果的に後者の解釈も可能な文になってしまっているところに、私は若干の不穏さを感じる。この件についてはまた後述するが、もうひとつウィキの記述でおもしろかったのは、キャラクター解説のところで、
- ベビー・サン Baby-Sun
- 黄色い赤ちゃんの顔をした太陽。番組の始まりで登り、終わりに沈むが、テレタビーランドに夜という設定は無い。
ベビー・サンとは以下のようなものだ。だいたいどの回でも、このような「太陽」が地平線から上るところで始まり、地平線に沈むところで終わるのだが、

「夜という設定はない」というのがどういうことなのかは今ひとつ判然としない。「番組の始まりで登り、終わりに沈む」からには、テレタビーランドの「夜」が映し出されることは決してないのだろうとはひとまず思える。実際、何話も見た中に夜のシーンは一度もなかったが、これをして「夜という設定はない」と記して果たして正確なのかどうかは、少々はかりがたいものがある。これは、単に「テレタビーランドの夜が映し出されることはない、という番組設定」だということなのか、それとも、いわゆる「世界観」として「テレタビーランドに夜というものはない」ということなのか。後者だとすると、ベビー・サンは昇ったり沈んだりするけれど、沈んですぐまた昇ってくるので実質的に夜がない世界なのだろうか、あるいは、ベビー・サンが沈んでからまた昇るまでには時間経過があるが、その間は「夜」なのではなく、タビーズたちも「眠っている」のではなく、何か別のむにゃむにゃむにゃ……ということなのか。タビーたちは眠らないわけではなく、他の回ではベッドに眠っていたりする(かぶっているのは布団ではなくて、よく非常持出用品の中に入っている、薄くて丈夫な保温素材でできた銀色のシートにくるまって寝ている)。このなぞなぞの答えを知りたければそれこそ製作者にでも訊くしかないだろうが、ここでは別にその明確な答えが欲しいわけではない。ひとまずは、ウィキに記載してあるこれらの曖昧な文言に、「設定」なるものの不穏さの匂いを嗅ぎ取ってみた、というにとどまる。
1999年だったか、前世紀の末に友人のひとりが、テレタビーズが可愛い可愛いと言うのだった。そのひとはそのころ私にとってたいへん大切な友人で、ふたりとも子育て真っ最中、その彼が、もう最高にかわいい、こんなかわいいものは他にないとしきりに言うのだが、私自身は、しばらく前にテレビでやってるのをちらっと見て、わあ何てブキミなものが始まったんだろうと思ってそれっきり目をそむけていたということが実はあり、それでもその友人がそう言うので、がんばってもう一度見てみたのである。そのとき見たのが上述の日本版のビデオで、BBCで番組が始まってから2年後ということになる。
かわいいという感覚と不気味だという感覚はしばしば容易に取り替わることがあるし、育った国や地域や環境によって、どういうものをかわいいと思うかは相当に異なるというのは知られた事実である。日本人の多くが、西洋の白人の赤ん坊はあまり赤ん坊っぽく見えないという感覚を持つらしいし、逆も似たようなものだろう。もちろんそんなふうには思わない人もたくさんいる。同じ国で似たような環境で育っても、人形というものをかわいいと思う人と恐いと思う人がいる。私はもともと人形というものがおしなべて怖いクチで、祖母が日本人形を何体も枕のとこに並べて抱いて寝てたのが全く理解不能だった記憶があるが、テレタビーズたちのキャラクターがホラーだという言説はネット上にもかなり転がっているので、必ずしも私だけの感覚というわけでもないだろう。本国イギリスのネットでも、タビーたちが(特に白黒にすると)たいへんホラーだという話題はしばしば盛り上がっていたようだが、しかし私がこの番組を最初に見てブキミだと思ったポイントは必ずしもそういうところではない。
少し詳しく見てみる(後で述べるように、以下のディスクリプションには私の個人的なバイアスがかなりかかっていることを、ここであらかじめお断りしておく)。2歳~4歳くらいの設定だろうなと思うものの、タビーたちはよく見るとあんまり首がすわってない感じがある。がくがくとまではいかないが、首が、ふらー、ゆらー、として、またお目々がまんまるで、ちゃんとまぶたがあって、まばたきをよくするのだが、着ぐるみの常でこのまばたきが恐ろしくゆっくりなので、まばたきというより、不意にふうーっと眠りこみそうな、そういう目の閉じかたをする、そしてそれにつれて首がゆらーとするこの感じは、幼児というよりはむしろちょうど生後1、2ヶ月ごろの赤ん坊の感じだ。赤ん坊の首がちゃんと座るのは3カ月目くらいからだが、それまではいつもふらーっとして、まぶたも、まばたきとは別に、ふーと眠りこみそうに閉じかけたりするのは、だいたいその頃の赤ん坊特有の感じである。それでいて活発に動きまわるところは2~3歳の感じでもあって、ティンキー・ウィンキー(紫色のタビー)などは声はすでに声変わりした大人の声だったりするのはまあ措いておくとしても、ともかくそんなようなのが、親も誰もいないところで友達と四人だけで野原で遊んだりして暮らしている。
この架空の世界は緑の丘、丘陵に囲まれていて、まんなかの窪地にタビーたちの家がある。家というより基地のようだ。今も昔も子供は基地遊びが好きで、これを子供に見せると、基地だ、と言う。ちょっと宇宙船みたいな基地に仲良し4人だけで住んでいる。あとは、ヌーヌーという名の自動ロボット掃除機みたいなのがいるだけだ。それにしても妙な家というか基地で、最低限の椅子とテーブル、ベッド、いくつかの自動機械、その他には何にもない。おもちゃも本もいっさいない。子供のいる家というのはもっと散らかっていて、どんなに整頓ずきのママやパパがいても、もっといろいろなものが賑やかに置いてあるものだが。とはいえ何もなくとも、「基地」であるだけで子供はとてもよろこぶ。窓も、きっと嵌め殺しの開かない窓なのだろうと思わせるし、ドアもぶあつくてエアロックの気密ドアのようだ。壁にパイプがずっと走っている。ライフラインのパイプだろうか。この基地は基地というよりシェルターのように見える。半地下で、カモフラージュされている。食べ物は、「タビートースト」しかないらしく、機械によって供給される、堅そうなパンケーキのようなものである。到底おいしそうには見えないが、顔の模様がついているし、機械のスイッチを押すと出てくるというのも子供には楽しい遊びだろう。

野原はいつも陽がさしていて(といっても妙な赤んぼ太陽だが)、花がたくさん咲いていて(もっとも本物の花ではなく作りものだが)、木もたくさん生えていて(これは本物らしい)、風が吹いたりする。「本物」としてはウサギがいる。野原は非常にきれいで、塵ひとつなく清潔な感じだ。ときどき、かざぐるまのような発信塔みたいなものが伸びてきて、電波を発信すると、テレタビーズたちはワーッと喜んで、日光浴でもするように寝ころがって、犬っころが甘えるように無防備な姿勢で寝ころんで、電波を受ける。するとおなかに映像が映る、そのつど4人のうち誰かひとりが選ばれてその子のおなかにいろいろなものが映るようだ。映る映像は、もっぱら本物の人間の子供たちが楽しく遊んでいる様子。ほかにも、風車が回ると野原にCG映像が出ることがある。第1話では動物の行進である。まぼろしのように行進していくのを、タビーたちは丘の上に並んで座って眺めている。この動物たちが2匹ずつなので、ゆくりなくノアの箱舟を思い出させる。大洪水で世界が亡ぶというときに、あらゆる動物をひとつがいずつ箱舟に扶け上げたというノアの物語。この第1話をある講義で学生たちに見せたところ、「世界のはじまりの状態が「テレタビーズ」の世界観なのかも」と書いてくれた人がいた――これは非常に興味深いコメントで、後でまた取り上げるが、ひとまず前提としては、「ノアの箱舟」がリンクするのは「世界のはじまり」よりはむしろ「絶滅/カタストロフ」である。例えば2010年代からしばらく前から、次のような企画が知られていた。
Photo Arkとは「写真の箱舟」の意味で、2006~7年くらいに始まったプロジェクトのようだが、簡単に言えば、世界のあらゆる動物の写真をあつめた写真図鑑をつくる。その図鑑に写真を載せることを「箱舟に載せる」ことに見立てているわけで、もちろんその図鑑を販売したり公開したりするのに併せていろいろな形でお金を集めて動物保護に充てるので、「写真を撮って図鑑に載せる」こと自体によって動物が絶滅から救われるわけではない。この企画で集めたお金で保護活動を行っても、間に合わずに絶滅してしまう動物はきっといるだろう、その場合には、地上にすでに存在しなくなったその動物の生きた姿は、この写真図鑑という箱舟のなかで、映像としてのみ生き延びることになる、そのことも、この企画はおそらく念頭に入れていることだろう。箱舟Arkという語はそんなふうに、絶滅/カタストロフとセットになった語彙で、「写真の箱舟」という命名は、(何もしなければ)絶滅/カタストロフがやってくるという確実な予測を内包しているのである。そして、私たちでさえあのタビーランドの「アニマル・パレード」を見て「箱舟」を連想するのだから、基本的にキリスト教文化に深く根ざしている英国の人たちがその連想をしないわけはないだろう。1990年代後半の未熟なCGで、それゆえに可愛らしくも見えるゾウ、キリン、蛇、ペンギン、蝶々……みなまぼろしで、ウサギだけ本物――この丘陵にはどうやら、ウサギの他には生き物は何もいないようで、タビーたちが目にすることができる他のあらゆる生き物は映像としてしか存在しないらしい。タビーたちは4人だけで地下のシェルターに住んでいて、外は本来とっくに絶滅しているのではあるまいか、ウサギと、若干の樹木以外はすべて! そしてウサギは、もちろん養殖されているに違いない、このタビーランドが実は死滅した世界であるということを隠蔽するために! 「ウサギだけが生々しい」というコメントも学生たちからあったが、このコメントの良いところは、「生きている」とか「本物である」とかではなく「生々しい」と書かれている点であった。実際、ウサギしかいないために、その本物っぽさが、タビーランドの他の実に無機質な様相に照らしたときに妙に浮いてみえるのだが、その有機体性とでもいうべきものが非常に異質に見え、タビーランドではタビーたちやロボット基地や人工食糧などが「自然」だとすれば、それに対してウサギの際立った「生々しさ」は逆に人工性・人為性を呈示するものとしてそこにあるように見える。ウサギもいなくて樹木もなければ、「ここは地球とはぜんぜん別の世界なんだな」と思うことができるが、ウサギがいて樹木があるがゆえに、どうしても地球上のどこかであるように見えてしまうし、そのうえで、にもかかわらず樹木とウサギ以外みな「映像」であるがゆえに、タビーランドは純然たる異世界ではなくて「何かが違ってしまった地上」であるかのように見え、違ってしまったその際に「箱舟が召喚され、その箱舟に乗ることで他の生き物たちは映像となって生き延びたのでは……」というような連想が(私の場合)導かれてしまうようなのであった。しかしこの件はしばし措き、また別の観点から見てみる。
野原にとつぜん旗が一本あらわれて、ひとりのタビーがいぶかしんでいると、ナレーションの声が「旗だよ」と教えます。タビーは「はたflag?」「はたflag!」「はたflag!」と喜んで繰り返し、本能的に(かのように)振り回したりして遊ぶ。しかし旗というものがそうそもどういうもので、どういうところに立っていたりするものなのかとか、そういういわゆるコンテクストはいっさい画面上に(つまりタビーたちの前に)呈示されないし、ナレーションの声も教えない。タビーたちははそれが「flagというものだ」ということは知っても、それが何なのか、は知らないらしいし、また、知ろうとも思わないらしい。「Know-WhyではなくKnow-Howだけがお手本として示されている」というこれも鋭いコメントがあったのだが、実際、子供が何につけても「なんで?」「なんで?」「なんで?」としつこく訊いてくるようになるのはもう少し歳がいってからで、この年頃の子たちは、目の前にあるもの自体を自分の体でどう取り扱うか、いろいろ試しながらモノとの関係を取り結ぶことを覚えるので、この年頃の子のためのいわゆる知育オモチャというのはだいたいそういう構造をしている。動物たちのパレードを丘に並んで座ってうっとり眺めるタビーたちも、やはり、それらが「どうぶつ」であることを知っているのかどうか全くわからないし、あからさまなCG映像であるそれらのものを、タビーたちがどのように見ているのか、そもそも目の前をふたつずつペアになって行進していくものたちに対応する「ほんもの」というものがどこかに生きているという観念自体、持っているのかどうか、まるで定かではない。が考えてみれば、現代の、特に都市部に住む子供たちが、動物の「映像」に先立って「ほんもの」を知るというケースは非常に稀である。ライオンやキリンなどを最初に実物で知るイギリス人とか中国人とか韓国人とか日本人とかはめったにいないだろう。ウサギでさえ、たいていの日本の子は、まずぬいぐるみや絵本でその名を知る。まだろくに目も開かないようなころから、ふわふわしたウサギのぬいぐるみを与えて、「ほーらウサちゃんだよー」とか「クマちゃんだよー」と教える。目が開いたら絵本を読み聞かせながら、「もりのなかにクマさんがいました」――「もり」って何なのかも知らないうちからそうやって「クマさん」だの「ゾウさん」だのを、かわいらしく描かれた「像」の形態とともに覚えていくので、いざ動物園に連れていかれて「ほんもの」の檻の前で「ほーらクマさんだよー」と言われても、なんだか釈然としない顔をしている子供をよく見かける。そういう意味では、現代の子供が少しずつ世界を認識していくその過程の「はじまり」をこそ、まさしくこのテレタビーズたちのありかたは反映していると言えるのかもしれない。
タビーたちが旗を見て「はた?」「はた!」と喜んで繰り返しながらもてあそび、「こはそも何ぞ」と訊ねたりしなくとも、それがどういうもので、どういうところでふだん目にすることができるものか等々は、番組を見ている子供たちはいずれだんだん知っていく。だから、それがflagというんだよ、ほらこうやって振り回して遊んでごらん楽しいよ、ということさえ、タビーたちの姿や振舞いを通して伝えられればそれでよい。flagが何なのか、この世界の中でどういう位置づけにあるものかを知るのは、番組を見ているほうの子供たちの現在と未来に任されるのであり、子供がこの番組を見たあとで外へ出かけてどこかで旗を見たときに、それが番組のおかげで、なじみやすい、親しいものになっていれば、それでいいわけなのだ。
タビーのおなかに映る、自転車であそぶ子供と、タビーたちがだいたい同じような年齢設定がされているらしいということは、つまりこの番組の対象年齢もおおよそそのくらいだということを意味する。そのくらいの年齢のとき、自分がいったいどのようにいわゆる幼児番組を、あるいは他の番組を見ていたかというのは、もはや全く記憶になく、わかりようがないのだが、ふたたびウィキによれば、
テレタビーズは番組を通じて自然に身につく教えや、押しつけがましくない教育を目指して作られている。このため子供たちが自然に番組に引きつけられるよう随所に工夫がされている。例えばナレーションとキャラクターとの会話で、言葉と言葉の間隔を十分にあけることで、ナレーションの問いかけに対して、キャラクターよりも視聴している子供たちに先に答えさせようと仕掛けていることや、キャラクターの話す言葉や発音をたどたどしくすることで、同世代の友達と遊んでいるような感覚を演出し緊張感を無くしている。
テレタビーズはファンタジーな世界の物語だが、見ている子供たちに「テレタビーズは本当にいるんだ」という現実感を持たせるよう、番組中に実世界の子供たちの生活などをテーマにしたショートフィルムを流して、現実とのつながりを表現している。
出典がわからないが、前半は、よくわかるし納得もできるというか、とりあえず納得しておいていいだろうという気がする。後半、「現実とのつながりを表現している」ということについては、実際よく見ればタビーたちが出ているシーンと実写のシーンには繊細な対応関係がある、というコメントをしてくれた学生がいた。実写の子供が自転車のうしろのワゴンに乗っているのに対し、赤いタビーがスクーターに乗っていたり、実写の子供が何かにぶつかってころんと転ぶシーンに対して、旗を持つタビーたちがぶつかってころんと転がるシーンがあるとか、そういう、あからさまではないけれどもなんとなく対応しているような動きやできごとが周到に配置されているようだというのは、言われてみれば確かにそうかもしれない。こうした配置をして「現実とのつながりを表現している」と称するのが正確かどうかは大いに疑問ではあるけれども、繊細な配慮によってそういう配置がなされ、タビーたちのシーンの視聴と実写シーンの視聴との間になるべく断絶が生じないように工夫されている、というのはたいへん穿った見方である。が、仮にそういう配慮によって視聴の断絶が起こらないようになっているとして、それが「見ている子供たちに「テレタビーズは本当にいるんだ」という現実感を持たせる」ことに果たしてなるのだろうか? なるのかもしれないが、2~4歳の子供がこうした番組をみて、「テレタビーズは本当にいるんだ」とか「ガチャピンは本当にいるんだ」「ウルトラマンは本当にいるんだ」と思うものかどうか、私にはわからない――自分が子供のころのことはすでに忘れてしまったからだ(誰もが忘れてしまうでしょう)。実際に喜んで番組を見ている子供に、「テレタビーズって本当にいるの?」ときいたら、たぶんかなりの確率で、「いる……」という答えが返ってくるだろうなとは思う。しかし、「ほんとにいると思う?」ときかれて「うん、ほんとにいるとおもう」と子供が答えたからといって、それが「マテリアルな世界に実物としてのテレタビーズが存在すると思う」という意味かどうかはわからない。2歳や3歳の子に、「きみはそもそも、マテリアルな世界に実物としてのテレタビーズが存在すると思うのか?」などと訊くわけにもいかないだろう。「ほんとにいる」と子供が答えるとき、それはひょっとしたら、「夕日は、夕日として知覚されるという形で、映像において確かに存在する」「あの運動会は、あの映像においてのみ、真実あのようにある」というような意味かもしれない。「テレタビーズは確かに存在する、ここに、いまぼくが見ているこの映像において」という意味で、子供は「うん、ほんとにいるんだよ」と答えているのでないとは誰に言えようか。実際、子供は、映像というもののありかたについて、むしろ大人よりも敏感なのではないかと思っている。そうでなくとも、「テレタビーズは本当にいるんだ」というのは、子供らにとっては、「妖精はほんとにいるんだ」とか「幽霊はほんとにいるんだ」「座敷わらしはほんとうにいるんだ」というのと同じレベルの物事であるはずではないだろうか?
子供が映像を見る見かたというのは、決して一般に大人が期待するほど単純ではないのだということは、肝に銘じておく必要がある。子供というものはある意味たしかに「無垢」だけれども、他方、赤ん坊のころから意地悪もすれば、ひとを誤魔化すこともする(驚くべきことに、「照れ隠し」のしぐささえする)。しかし、映像を映像としてまっすぐに見る目、つまり、映像を「映像というありのまま」に見る目は、確かに大人よりもずっと無垢のままに持っているかもしれない。「フィクションと現実を混同」したりするのは実は大人だけではないかという気さえする。ついでに「無垢」ということに関して付言すると、赤ん坊の顔をしたBaby-Sunには(ニコ動などでは「赤さん」と呼ばれたりしているようだが)、おそらく「無垢な赤子=幼子キリスト=慈愛の守り神」という含意があるだろう。キリスト教と比較的無縁な者にとっては、わけのわからないシュールな形象に見えても不思議はないが。赤ん坊というものは一般に慈愛を以て庇護されるべきものでこそあれ、みずから慈愛を以て他者を見守ったりは決してしない、むしろ無慈悲な存在である。
2. Teleworking Teletubbies
さて、ときどき風車が回ると、テレタビーズはどうやら頭のアンテナで「受信」するらしく、おなかのディスプレイにものがうつる。「実物」の子供の「ショートフィルム」がそこに映し出され、カメラ目線の子供とタビーたちがお互いに手をふって「ハロー」「ハロー」などという。今回は紫色の「ティンキー・ウィンキー」のおなかに映像がうつったので、他の3人(?)はそのディスプレイを横からのぞきこんで、「ハロー」とやる。ティンキー・ウィンキーも「ハロー」と言って手を振る。彼も他の子たちも映像の中の子とは誰も目は合っていないではないかと思うわけだが、番組を見ている子供にとっては、自分がその「映像」の中のカメラ目線の子たちと目が合うわけなので、それでよいのである。製作者が期待するようにタビーたちと自分を同一視しながら見るというようなことが起こるとするならば、見ている子供自身としては、自分が映像の中の子と目が合っているのだから、「ハロー」とやっているタビーたちの目も、当然その映像の子と目が合っていることになるわけだ。そして、タビーたちと自分を同一視して見るというようなことが、繰り返すがもし本当に起こるのであれば、映像の子と自分を同一視して見るということも当然起こるのだろう。そうすれば自然に、自分と、映像の子と、タビーたちは、お互いに目を合わせながら交流している、という状況の中に身を置くことになる――そういう構想のものとしては、その通りによくできているらしいとは考えられる、つまり実写の中の子と視聴する子の「目合わせ」を媒介する者として、ここではタビーたちは機能しているということだろう。
他方、最後に「タビー・バイバイの時間」なるものがきて、ひとりずつ「バイバーイ」といって引っ込む(これも反復される)ときには、タビーたちはカメラ目線になっていて、こんどは画面を見る子供たちとタビーたちの目が合う。しかしそのバイバイのとき、カメラ目線のタビーたちは、実は画面を見ている子供に向かって直接バイバイを言っているのではなく、ナレーションの声に答える形でバイバイを言っている。姿の見えないナレーターが、「バイバイ、ティンキー・ウィンキー」「バイバイ、ディプシー」…とひとりひとりにバイバイを言い、ひとりひとりにバイバイを言わせる。「旗」のときにも、「はた、だよ」と教え、「はた?」「はた」と言わせる。この声は「赤さん」の声とは明らかに異なる声なので、別の存在なのだが、しかし「赤さん」と同様にタビーたちを見守り教え導く者であるらしい。そして、タビーたちと視聴する子供たちの間の「目合わせ」を今度はこの声が媒介しているという形になる。また、この声とはさらに別に、「time to tubby-byebye!」などのアナウンスをするシャワーヘッドに似たスピーカーのようなもの(ヴォイス・トランペットというらしい)がある。市町村によくある「こどもたちの下校のじかんです」などのアナウンスをする拡声器といったおもむきのものだ。それから「赤さん」の穏やかな笑い声。これら3種の声によって、タビーたちの生活が見守られ(声が見守るというのはおかしいが、ふさわしい用語が存在しない)、教示され、導かれ、制御される様子が観察される。この、声による制御について言及してくれたコメントがふたつほどあり、ひとつは「テレタビーズにも視聴者にも見えない、フレームアウトしたところにテレタビーズの行動を監視する「第3の存在」がいるのかもしれない」というもので、この感覚は私にもとてもよくわかる。「フレームアウトしたところに第3の存在がいる」のか、「フレームの外も内もなく、声だけの存在がある」のか、どちらなのかはしかしちょっと判断がむずかしい。前者は、「物語上の設定について考える」方向性、後者は、物語を度外視してひとまず画面と音声の関係構造を考える方向性になるので、どっちが正しいというようなものではないが、「タビーランドにタビーたちが住んでいます」という語りの地平においては、「どこかにいる別の誰かが、声でタビーたちを導いてくれます」となるのは自然なことである――これを「導いてくれます」とするか、それとも「監視しています」とするかで、「物語」は180度近く変わってしまうわけだが。この声に関するもうひとつのコメントでは「「音声だけ」の何者かの指示でテレタビーズの行動は支配されている」となっていて、「支配」という語が選択されている。ただこちらのコメントにはさらに興味深い続きがあって、「(親や保護者のメタファーか)/声だけの何者かは突如現れて指示をだし、消えていく→こどもの「遊び」に介入する大人と遊びに夢中になるこどもだけの世界との対比/この「声」を大人存在と捉えると、遊びの世界で夢中になっている子どもにとってはそれを中断する大人の声は、彼らの世界にとって実体のない存在であることを表す」とあった。このコメントの後半は、さきほどアニマルパレードのところで考察してみたこととかなり付合する。この年頃の子供たちにとっては、いま現在自分の体で触れながら遊んでいる対象、あるいは触れながら共に遊んでいる友人、以外の存在はすべていわば「映像的存在」なのかもしれない、つまり、そこに認知される限りにおいてそこにいる、あるとわかるけれども、そのものがマテリアルな世界において自分自身とどういう位置関係を取り結んでいる、あるいは取り結んでいくべきものなのかは、まだわからない、というそういう段階において、「ほーらクマさんだよ」とか「おいで、ごはんだよ」とかそういうことを語りかけてくる大人というものは、自分がいま手に握っている旗竿よりもはるかに茫漠とした存在であって、子供にとって大切なのはそういう大人の姿かたち=像などではなく、「世界」と自分をいまだ隔てているぼんやりした幕のようなものを明晰にくっきりと突き抜けて自分に届いてきて「おいで、こっちだよ」と導いてくれるその声のほうなのだと、だからこそ「おいで」という声がしたら駆け寄ってきて、手をつかんだり洋服をつかんだりしてその「実体」的存在を確認するのだ――というようなことは、児童心理学の本にいかにも書いてありそうな話ではある。事実、親を認識するのも最初は声によってなのだから。ただし母親に関しては多くの場合、当初から声に濃密な触覚が伴うであろうから、また少し話は別になるであろうけれども、タビーたちに話しかける声は男性のものであって、母親の声でないことは確かである。だから上の仮説にのっとるなら、このタビーたち(そして視聴者の子供たち)は、母親はすでに実体的存在として認知されているとしても、他の大人たちはまだ「声の存在」にとどまっている段階のものとして設定されていることになろうか(父親というものが抱える深い闇を垣間見るような気もするけれども、ここで深入りはしないことにする)。そして、そういう設定の上で、タビーたちとそれを教導する「声」の関係は、現実の子供たちにおけるそれを再びここでもよく反映していて、そういう意味でも子供たちにとっての「世界のはじまり」がここに呈示されているのだと言うこともできそうである。その場合、声は、家庭育児のフェイズでいえば「見守り・教導」の役を果たしていることになるけれども、これをして精神分析用語で語らしめるならば「支配・監視」ということにもなろうというわけである。これはたいへん面白い仮説だと思うが、今のところ仮説以上に出て、例えば児童心理学をよく勉強してこの説の当否を検証しようというところまでは手を伸ばさない。
こんなふうに見てくると、『テレタビーズ』は、この年頃の子向けの幼児番組としては実際とてもよくできていて、あのような造形をかわいいと思う人にとっては本当にかわいく、穏やかで平和でピュアな感じのする、よい番組になっているのだろう、とは認めることができる。おそらく制作者の意図はそのように成功しているのだろう、と思うことを妨げる要素は、ほとんど何もないように思える。子供のような無心の目で見れば、ひたすら楽しい20分間なのかもしれない。しかし、「子供のような無心の目」というものがだいたい上述してきたような成長段階のものであるとするなら、いったん大人になってしまった者がそのような目でこれを見るということがいったい可能なものかどうか。それよりもっと普通の意味で言っても、少なくとも私は最初に見たとき全く「無心」ではなかった。それどころか、冒頭でちらと述べたように、初発の時点でさまざまなバイアスがかかった見かたをするはめになっていた。ひとつは、もともと人形というものがコワイうえにタビーたちの造形が可愛く見えなくて(=好みではなくて)、むしろ「なんだか妙に顔色が悪い」ようにしか見えないというようなことがあったのだが、それ以上に、たまたまこの番組を最初に見たその直前にベルリンで訪れたユダヤ博物館で目にした、下の図のようなものの記憶が新しかったので、「タビートースト」が非常に衝撃だったということもあったのである。

いささか唐突ながら、上はベルリンのユダヤ博物館内部に設えられている「ヴォイド」と呼ばれる場所のひとつである。この博物館は2001年にベルリンに建設されたもので、ドイツにおけるユダヤ民族の歩みを、ホロコーストも含めて系統的に整理展示している博物館だが、この「ヴォイド」なる場所についてはウィキに正しい(とわかっている)記述があるのでまた引くと、
博物館の建物の真中には、何もない空虚な空間である「ヴォイド」がいくつも貫通している。これらはホロコーストによりできた空白を記憶するための空間で立ち入ることはできない。
地下から三階までの20メートルの天井高の「記憶のヴォイド」は立ち入り可能で観客は必ずこれを横切ることになる。ここにはイスラエルの彫刻家メナシェ・カディシュマンのインスタレーション、『Shalechet (Fallen leaves)』がある。これは10,000枚の丸い鉄板が床一面に敷き詰められたもので、厚さ3センチほどの鉄板には目・鼻・口に見えるような穴が開いている。これらの穴は非常に粗く開けられたもので、一枚として同じ形のものはない。これら人間の顔のような鉄板を踏まずにここを通ることはできず、踏むたびに大きな音がヴォイド内に響き渡る。
タビートーストを一枚見るだけでも実はけっこうな衝撃である。焦げた顔なのである(「トースト」なのだから当然ではあるが)。ユダヤ博物館の顔のプレートの大きさは上の写真からはわからないだろうが、『テレタビーズ』の画面から推し量られるタビートーストの大きさ厚さとほぼ似通った大きさ厚さを持っている。違うのは、博物館のは「一枚として同じ形のものはない」というところ、タビートーストは全部がほぼ同じ顔だという点くらいだ。上の第1話では、タビートーストを焼いてくれる大型トースター(とでも言うか)が壊れて、大量のトーストが噴水のように吹き上がって、食堂といわず寝室といわず基地のあらゆる部屋に降り積もる。

「空白の記憶」の中に堆積された無名の無数の犠牲者を表象する「顔」と、子供を喜ばせるためにパンケーキにつける「顔」が極めて似通ったものになってしまうという(それ自体はこれまた自然であるところの)現象そのものには、それなりに慄然とするものを覚えるのだが、これらのこと――ユダヤ博物館のことやタビーたちの「顔色の悪さ」のことなどは、『テレタビーズ』を視聴したり考察したりするにあたってそれ自体は全くどうでもいいことである。ヴォイド・フェイスとタビートーストが酷似していることなどはおそらく全くの偶然であって、そもそもユダヤ博物館よりもテレタビーズのほうが先にできているのだから、『テレタビーズ』を考える上ではこの点の影響関係などというものを考える意味も(たぶん)全くないだろうし、「箱舟」連想についても、こんな年頃の子供が2匹ずつの動物の像を見たからといって「絶滅」を連想などするはずがなく、顔色が悪い云々に至っては私という個人の全くもって主観的な印象にすぎない。しかし、そうした妙な要因がたまたまいくつかあったことで、私はこの番組を一見して「この世界はどこかおかしいのではないか」というような疑いを抱いたのである。そういう要因がなければ、特に何もひっかかりを覚えることなく「よくできた幼児番組だな」と思い、あるいは「かわいいなー」とか、せいぜい(巷でよく評されているように)「シュールだなあ」とか思って過ぎたかもしれないのだが(実際ときどきすごく可愛くもあるのである)、そうはならず、幸か不幸か懐疑の目でもってこの番組を見ることになったのだった。その懐疑のきっかけとなったという点において、これらの一見どうでもいい要因にも、意味がないことはないのだ。
懐疑の目で見るということは、すなわち「大人の目」で見るということである。映像と実物、写真と被写体というものがある等のことも知ってしまい、物語とかフィクションとかファンタジーとかいうものがこの世にあることも知っている(かつそれでいて児童心理学に造詣が深いわけではない)ような目で見たときに、否応なく発生する最も大きな疑問は、「なぜこの世界、あるいはタビーたちはこんなにも実世界と隔絶されているのか」ということだ。なぜウサギしかおらず、しかも、ウサギしかいないにもかかわらずなぜタビーたちはそのウサギたちと全く触れ合おうとしないのか。なぜ彼ら以外にはロボットマシンと「声」と赤んぼ太陽しかいなくて他のものはみな映像なのか。誰がいったい自分の子をこのような場所で育てたいと思うのだろうか。ウィキに「見ている子供たちに「テレタビーズは本当にいるんだ」という現実感を持たせるよう、番組中に実世界の子供たちの生活などをテーマにしたショートフィルムを流して、現実とのつながりを表現している」とあって、ウィキのこの記述自体が信用できるものかどうかは別として普通に幼児教育番組として見ればおおよそそういう意図のものだろうということは自明なくらいのものであるけれど、「「テレタビーズは本当にいるんだ」という現実感を持たせ」「現実とのつながりを表現」したいのであれば、タビーズにこんな隔絶した生活を送らせるような設定をする必要はそもそもないのではないだろうか、むしろ、タビーたちは朝起きてひとしきりあそんでごはんをたべたら、「遠足」とか称して「実世界」へ飛んでいき、いろいろな子供たちがいろいろなことをしているところへでかけていって、話しかけ、時に魔法のようなものを使ったりもして一緒に遊び、黄昏時におうちへ帰る子供たちには優しくバイバイ、そして夜がきて子供がベッドに入るときには、窓からタビーたちがそっと覗きこんで「おやすみ」を言ってくれる――そういう、まあいってみれば伝統的な設定にしたって一向に構わないのではないだろうか、そういう設定にしないのは、古くさいとか平凡だとかそういう理由なのだろうか? 子供が「妖精は本当にいるんだ」などと夢見るときには、だいたいそういうふうにして、「いつか自分のところへも妖精がやってきてくれるんじゃないかな……」と待ち望むものなのではないのか。ピーター・パンしかり、「ドクター・フー」しかり。ピーターパンはそうとう「昔の古典」と言ってもいいかもしれないが、同じく英国産の長寿SFドラマ『ドクター・フー』新シリーズ5(2010)では、やはり子供が「自分のところへそっとやって来てくれる不思議な友だち」を待ち望むところから話が始まる、してみればそういう「おとぎ話」は3000年紀にも全く無効になったわけではないだろう。サンタクロースの伝説さえ、贈り物をくれること以上に、煙突を通って「自分のところへやって来てくれる」というところにその核心があるのだし、ピーター・パンだって、「実世界」とは隔絶された「ネヴァーランド」に住んでいるけれども、眠っているウェンディのところへは、特別にやってきてくれるのであり、そういう形で従来のおとぎ話は、ファンタジー世界と、子供たちが実際に生きている現実の世界、との「つながりを表現」してきたのではないのか、なぜそれを、『テレタビーズ』は捨てたのだろうか――等々々々。しかしながらピーター・パンにせよドクター・フーにせよ、「子供向け」としては対象年齢は『テレタビーズ』よりもはるかに高いのであり(『ドクター・フー』は子供向けとすらいえないかもしれない)、ものごころついて読み書きも習って、自分で「物語を読む」ことができる年頃になって出会うお話であることを考えてみるならば、上記のようにまだ「ものごころつかない」年頃の子供たちが『テレタビーズ』を見るであろう/見るのかもしれない見かたからは、これらの怒涛の疑問は遥かにかけはなれて大人、といって悪ければ「ものごころついた後の」視点でタビーたちの「物語世界」を鑑賞することによって初めて出てくる疑問であるといえるだろう。さてそこで話を最初に戻すと、1999年に私はこれを一見してブキミだと思ったのに対し、友人は「こんな可愛いものは他にない」と言った。彼は私と違って「無心の目」でこれを見ていたのだろうか? そうは思えない。なぜなら「可愛い」という言葉はあくまでも大人が子供を見る目線に発する形容詞だからだ。それにかれが児童心理学にことさら詳しかったとも思われない。
『テレタビーズ』は子供のみならず大人からも大人気で、大人のファン(=「大きなおともだち」と称するらしい)も多く、ファントークのようなものはネット上にもたくさんある。がんばって検索しても、例の「ホラー」云々とLGBT論争関連以外には特にめぼしい議論記事にはヒットしない。そういう「大きなおともだち」たちにインタビューをすればきっと「かわいい」「癒される」「子供の純粋さがそのままそこにある感じ」あるいは「キャラクターが笑える、飽きない」などなどの答えが大量に返ってくるだろうと思われるけれども、そんな回答を集積したところでどうにもならないだろう。ただ、「幼児番組ではあるけど、これ自体、大人も楽しめる上質なファンタジーだと思います」とか、「世界観が好き」とかの回答がその中にどの程度混ざっているか知りたい、という気持ちは少しばかりなくもない。「世界観」という語の昨今のラノベ系の使いかた、すなわち「世界設定」とほぼ同義の使い方は、たいへん扱いにくいものだが、ファンタジーにおける「設定」には、どのみちその設定者の「世界観(=旧来の意味における)」が何らかの形で反映しているはずであるから、『テレタビーズ』の設定を、良いと思ってこのようにした設定者と、それを良いと思う大人視聴者とは、多かれ少なかれ「世界観」を共有しているのであるだろう。もっとも、制作者のほうでは上記のように、ある年頃の子供たちによって見やすく馴染みやすい知育番組を作ろうと思っただけで、ことさら「ファンタジー」の「世界観」を構築しようとしたわけではない可能性も高いのだが、できあがった番組を大人目線で見たら、結果的にそこに何かしらの「世界観」が読み取れるようなものになってしまっていた、というのは常にありがちなことである。が、ではその「世界観」はいったいどのようなものなのだろうか、と2000年当時私はたいへん戦慄しつつ興味深く思ったのだ。極限まで無菌化された、極めて限定されたリアルライフ、食べるものとては機械が供給してくれる妙な乾パン(タビートースト)しかなく、生活用品は極度に切り詰められて、わずかなおもちゃなどが時々配送されてくるだけ、少数の同居者の他には、装置を通じて配信される音声と映像しかなく、それらの配信映像・音声によってのみ「外界」と接続しているかのようで、その実、その「外界」が「ほんとうに」どこかにリアルで存在しているのかどうか、シェルターの住人には知りようもなく、それを知ろう、知りたいという意欲、好奇心すらあらかじめ除去されている世界。動物たちすら、生々しいがゆえに却って異質な、無表情な無機物に限りなく近いウサギ以外には何ひとつもはや生存していず、それ自体映像であるところの人工太陽に照らされる昼の時間のみが永劫に続く、閉ざされた世界。そしてその隔絶されたタビーランドから、タビーたちは「決して出てはいけない」……。そうした孤絶世界は、ある種の近未来ディストピアSF設定をちょっと幼児番組に導入してみただけなんだろうなと思えば、まあ無理に納得できないこともないかもしれないなどと2000年当時は思っていた。1990年代に入ってから、「シュール」な味で大人の人気を得る子供番組がなにかと増えてきていたから。けれども2021年以来3年間のコロナ禍を経て、この「設定」は決してアンリアルでファンタジックな「ちょっとした設定」にはとどまらないものになってしまっているのではないだろうか?
2025年現在、コロナ禍はほぼ終息したように見えるが、3年間のオンライン暮らしは私たちの生活に非常に大きな変化をもたらした。世界が完全に元通りになることはたぶんない。それにもし万一揺り戻しがきて、感染拡大が予想外にもっとひどいことになり、ふたたび緊急事態宣言の上どこもかしこも完全ロックアウト、誰も外へ出られないことになったら――そういう可能性はいつでもゼロではない。ウィルスというものはどんどん変異するし、どんどん新しいものが出てくるののだから、数年後にはもっと恐ろしい致死率の高い空気感染のウィルスが襲ってこないとも限らない、そうなったら本当に、一部の完全装備した業務者以外はテレタビーズ化するほかはない。極端に言えば一億総テレタビーズ化の時代がすぐにもやってくるかもしれないというのに、それでもなお、「テレタビーズたちは純粋でかわいい」と果たして言っていられるだろうか。それとも、そういう時代だからこそ、テレタビーズのようなありかたを「かわいい、純粋、癒される」と思って自らを欺くしか、生きるすべがないだろうということなのだろうか? そういう状態でも満足して楽しくピュア・ライフを送り、不安なく子育てができるようになるための、一種の予知的なマニュアルとして『テレタビーズ』は広く受け入れられてきた、のかもしれない。そういう時代の、外に出られない子供たちに見せるなら、あらゆる意味においてこれほどふさわしい幼児教育番組もないだろうと思うし、大人たちもそれを見て、ああ、こんな環境でも、こんなに無垢でピュアでいられるんだと言って癒されたりするのだろうか。もちろん1990年代後半だから、テレタビーズたちが見ている映像はインターネットではなくテレビ回線を通じて配信、というか放送されているという感覚の設定であっただろう。当時すでにインターネットはむろんあったが、「使う人は使っている」という段階で、一般の人が普通に日常使うようなものではまだなく、動画どころか静止画さえ、手軽にさっさと送受信できるような便利ツールではなかった。にもかかわらず現在の状況を予言しているかのごときこの番組は、なにか、やはり秀逸なところのある番組だったのだろうと思わずにはいられない。とはいうものの、この大人気を博した『テレタビーズ』を幼時から見て育った人はいまおおむね20台後半くらいか、その人たちがどのくらいコロナ禍下の「自粛」生活をピュアに楽しんでいたかというと、さてどんなものだろう。オンライン生活はそれなりに楽しかったのだが、禍が開けそうになってくると多くの人が「やっぱり対面が」「対面がいい」と言って、あれよあれよという間に表面的には「元通り」になってしまったし、コロナ禍のもとで高校から大学学部の生活を送った人々にとっては、その間の対面コミュニケーション不足がもたらした傷もそれなりに深いように見える。完全テレワークの世の中がもし訪れるとして、そこに幸せに順応するためには、ひょっとしたら人類は「ものごころつく前」の認知状態、いまだ自己見当識がはっきりしない状態にまで退行する必要があるのかもしれない。言い換えれば、そこまで退行しさえすれば、完全テレワーク状態にも人類は幸せに順応できるようになるのかもしれない。物品の生産と流通をAIにすっかり委ねることができるなら、それもまた、可能な未来であるのかもしれない。
私は何も、製作者たちが壊滅的な世界観を表出したくてこの番組を作ったなどと言いたいわけではない。番組の裏にそういう世界観があると言おうとするのでさえない。製作者たちは本当に頑是ない子供たちのために一番よい知育番組を作ろうと思って作り、子供たちがこれからそこで生きていくはずの世界から、ありとあらゆる敵意と不快と諍いとを可能な限り取り去って最低限の導きだけがそこにあるようなピュアなユートピアを仕立てようとしたのだろう、その結果、大人たちさえそれを見て「癒される」「可愛い」と思うものができたのだろう。これはとても良い知育番組なのだろうということを私は決して否定するものではない。あらゆる敵意と不快とを人為的に取り去れば残るのは必然的にディストピアでしかあるまいというようなひねくれた見かたはひとえに、私の側で偏頗した世界観によって来たるものなのだろうと、そうしておいても構わない。私もいつかこれを、可愛い可愛いと思って、それだけを思って見ていられるようになるのだろうか? そういうときが来るとすればそれは、もうこの番組以外のものは何ひとつ見聞きしたくない、あらゆる現実に対して目をつぶりたい、これが「番組」というものであることすら忘れて、ただただタビーたちの可愛いしぐさを見て、それのみを見聞きしつつこの世の生から立ち去りたいと願うときだろう。そのとき私の生はいかばかり悔悟に満ちていることだろうかと思うとそれが恐ろしいが、その恐ろしさすらも、そのときにはきっと忘れ呆けて、言語も忘れ呆けて、「はた」とか「ばいばい」とかタビーたちの発語を無心に真似る口元から涎を垂れ流しながら、幸せな、呆けた微笑みを浮かべていることだろう。
2022.05.22 講義として公開 / 加筆修正・再公開 2025.07.13