「ブラックホールの撮影に成功した」


2019年、「ブラックホールの撮影に初めて成功した!」という話題がひとしきり世上を賑わしたことがあった。例えばAstro Arts というサイトに「史上初、ブラックホールの撮影に成功!」という記事が載っていて、
ハワイや南米、南極などに設置された電波望遠鏡が協力する国際プロジェクト「イベント・ホライズン・テレスコープ」が、5500万光年彼方の銀河の中心に存在する超大質量ブラックホールを撮影することに成功した。ブラックホールが直接撮影された史上初の快挙だ。
とあって、当時有名になった上の画像も載っている。2019年4月、この「快挙」がいろいろなメディアで取り上げられ、上の画像がニュースなどでひんぴんと映し出されたが、そのつど「ブラックホールの撮影に成功」「これがブラックホールの写真」「初めて捉えられたブラックホールの姿」等々というキャプションがついていて、私はひとりでくすくすと笑っていた。ブラックホールというものは、上の記事の解説にもあるように「その強い重力のために光も脱出することができないという性質」をこそ最大の特徴とする天体なのであって、光だけでなく電波も何もかもそこからは出てこられないわけだから、ブラックホール観測のために投入された「イベント・ホライズン・テレスコープ」の「電波」解像度がいかに「天文学的に」高かろうとも、そこに観測すべき一切のものがなく、電波といえども出てこられないのであれば、そもそも何も撮影できないはずであろう。電波望遠鏡は光ではなく電波を媒介として観測を行うので、その観測において画像が取得されたときにそれを「撮影」と称することには今や何も異議を唱えるべきところはないが、上の記事を読めば、「史上初のブラックホール撮影成功」とは、「観測から得られたデータを画像化した結果、M87の中心に安定的に存在する構造として、光に取り囲まれた黒い丸が現れた。様々な解析と慎重な検証の結果、これが間違いなくブラックホールシャドウをとらえたものであることが確かめられた」ということを意味することがわかるのであり、「ブラックホールシャドウ」とは、そこからは電波も光も何もそのままの形で入っていることができず、したがってこちらへ向かってそこから何か反射してくることがなく、したがってそこには何も映らないような部分、のことである。この「撮影成功」は「銀河中心に超大質量ブラックホールが存在することを示す決定的な観測証拠である」ということであって、上の画像はすなわち、そこには決して何も映らないという特異な場所、がそこにあるということが可視的に呈示されている画像、に他ならない。「映っている」のはあくまでもブラックホールの周辺、なのであって、それも、パシャッとシャッターを切って撮影したわけではない。記事によれば、
「『スパース・モデリング』と呼ばれる新しい手法をデータ処理に取り入れ、限られたデータから信頼性の高い画像を得ることができました。4つの独立した内部チームが3つの手法でデータの画像化を行い、いずれもブラックホールシャドウが現れることを確認しました」(EHT日本チームの代表、国立天文台水沢観測所 本間希樹さん)。
「具体的な方法を変えながら、およそ5万通りもの画像化を行い、得られたブラックホールシャドウの画像の特徴が本当に信頼できるものであるかを入念に確かめました」(米・マサチューセッツ工科大学ヘイスタック観測所 森山小太郎さん)。
とのことであって、それはもう最高度の画像処理の産物以外の何物でもない。そしてこの画像のミソは、真ん中の、ブラックホールにあたる部分には確かに何も映っていない、ところにあるのである。NASAの研究所のディスプレイで見ればどうだかわからないが、少なくともこうして普通のディスプレイで小さい画像を私たちが肉眼で見る限りでは、真ん中の丸い黒いところと、周囲の黒いところとは、同じように黒く見えて、その違いはぜんぜんわからない。実際には、ブラックホールの部分とガスの輪の外の宇宙空間とでは、広がっている暗黒の性質は全く異なるはずだが(というかブラックホール部分に比べたら周囲はぜんぜん暗黒ではないだろうと思われるが)、こうしてみる限りではその違いはわからないどころか、むしろ中心のほうが外側よりも若干明るく見えるくらいだ。にもかかわらずこの画像を見ながらワイドショーなどでは人々が「これがブラックホールか!」「ブラックホールの姿をこうしてありありと見ることができるなんて!」などといかにも感極まったかのように語り合っているので、おもしろく思いつつも、そこでわざわざ投書かなにかをして「ブラックホールが撮影されたのではない、ブラックホールにあたる部分には何も映っていないということが示されている画像が取得されたのであるぞ」などとイチャモンをつけたいわけでは毛頭なく、ただ、なぜ誰もそこにツッコまないのだろうと不思議に思っていた次第であった。あまりにも当たり前すぎることだから誰もツッコまなかっただけかもしれないとも思ったが、どうなのであろう。
他方、そのようなことを考えつつも私自身もまた「へー、これがブラックホールか……」と素直に思って楽しく画像を見たりもしていた。「ブラックホールが映ってる」「ブラックホールってこういうものなんだ」というような言い方は、決して正しくはないにしても、そういう言い方で人々が楽しくブラックホールとその「写真」について語り合うこと自体は、おそらく一概に否定されるべきことではないだろう。「これ、ほんもののブラックホールの写真なんだよ」というのは、言い換えれば、「これは、ほんもののブラックホールというものがあって、その姿をうつした像なんだよ」ということであって、それは「この写真は恣意的な創作物ではない」ということを意味する。最高度の画像処理の産物という意味では「作りもの」以外の何物でもないが、少なくとも、「空想力を駆使して好きなように作り上げたお絵かきの作品ではない」、「そこには本物のブラックホールのありかたが投影されている」だろう。そのことをして「ブラックホールの写真」と称する、あるいは「ここに見えるのが、ブラックホールのありのままの姿なのだ」等と称する、そういうことは、人間が共に生きていく世の中においては、たぶん、許されるべきことなのだし、実際に許されてきたように見える。ブラックホールに限らず、火星でも木星でもその衛星でも、天体写真というものは現代おしなべて最高度画像処理の産物であって、「ありのままの夕日」と同じように、「ありのままの火星」とか「ありのままのタイタン」とかそんなものを写真上に見ることは決してできないはずだが、それでも、「火星ってこういうところなんだ」とか「タイタンってこんな衛星なんだ」「すごいなあ」「きれいだなあ」「こわいなあ」などと思ったり語ったりできないならば、天体写真を見る楽しみなど一体どこにあるだろうか。「土星が映っている」写真をみて「これが土星か……」と思えないならば、現代のいわば「映像生活」は極めて味気ないものになってしまうだろう。りんごが映っている映像にはりんごが映っているわけではないのにも関わらず、なぜその映像を見ながら我々はりんごについて語ることができるのだろうか。りんごの映像が映っているとき、確かなことは、そこに本物のりんごがあるのではないということである。そういう意味では、ブラックホールがそこに「映っている」と言っても別に間違いでもないのかもしれない。
2025.7.13