安息はまだ来ない ――石川九楊『日本書史』を読む
1 苦痛をもって読め――奇怪の書史
この本(京都大学学術出版会、2001)が刊行されて間もないころ、書店で平積みになっているのをみつけ、ちょうどよかった、この機会に求めておこうと何の気なしに片手でひょいと持ち上げようとして、ごと、と角を落としたのが、植木屋ではじめて煉瓦を買ったときに似ていた。
よろけながら自宅へたどりつき、厚さ四センチほどもある大判の荷をようよう肩から下ろして、秩入りのまま畳の上に平らに安置する。そのまま放っておくと三日後くらいには畳の中に埋まっているのではないかと思われた。
いったいなぜこんなに重くなければならないのだろうか。実は紙製本ではなく石枚かと疑われるほどのこの重さは、それだけですでに何か決定的な事柄のように思えた。「書く」とはつまり「掻く」「欠く」ことに他ならず、紙に書くという行為の奥には常に石枚にものを刻む行為が孕まれているのだという説に照らせば、その説をひとつの核心とするこの「書物」が石枚のように重いこともうなずけはするのだが、そうした主張をいわば比喩的に補強する以前に、この重さは、この書物の書物としての避けがたい物体性を悲痛に主張するもののようだった。抱えて歩く両腕の痛みは、この本が紙とインクという鈍重な物質でできていることの悲痛さの転嫁であると思われ、それはなにか非常に不当な転嫁であるような気もし、だが同時に、その転嫁を不当だと思うこと自体に対する非難の叫びのようなものが、ぎっしりした頁紙の間からひりひり漏れ出てきて、それが両腕にしみて痛いのだという気もした。なぜこのものは、本でなくてはならなかったのだろう。
ぎっしりした頁紙――そのなかにはきっとその答えが書いてあるはずだ。期待に満ちて順次めくっていくと、だが案に相違して、なぜこのものがかくも重量のある印刷書籍であるのかについての記述は全くなく、そして書かれていることにはむやみに繰り返しが多かった。日本の書史の枠組みや、書というものの本質に関するさまざまな枢要な話題が、枢要ゆえにという水準を超えて過剰に繰り返され、しつこく説かれる。初出の雑誌連載では不可欠だったかもしれないそれらの反復を、単行本化に際して削除整理したなら厚さも重さも三分の一で済んだろうにと思うにつけ、なぜそうしてより簡潔で薄くて軽い本にすることを考えなかったのか、著者の惜しんだその手間ぶんの負担をそのまま両肩に負わされ、遠路運び帰ったその負担で全身が発熱し瘧のように震えて整体師のもとへ駈け込まねばならないほどの苦痛を読者に強いるに足るいかなる「価値」をいったいこの書物は持つというのです。くどくど繰り返される主張や議論はすべて、この書物以前の著者の諸書に、しかもより簡潔にわかりやすく説いてあることばかりではありませんか、あなたのページを繰るわたしの指先が今は発熱ゆえでなく憤りゆえに震えているのがわかりませんか。いや、いや、その憤りかたは誤っています、それこそ不当な転嫁というものだ、一巻の書物を購い持ち帰る際に苦痛なしで済まそうなどという甘い考えをいったい人はいつから持つようになったのか、そのことに対する反省があなたにはないのですか、書物を読む快楽を獲ようとするならば代価は代価としてそれなりの肉体的苦痛をもって購うべきものであったはずです、書物とはそもそも苦痛の塊なのだと知りなさい、字をひとつひとつ岩盤に刻みつけるその鑿の痛みの長年の集積がすなわち「書物」なのだと忘れてもらいたくないがゆえにこの本は重く、痛いのだと知ってください。あなたに与えたのと同じ苦痛がわたしのなかに宿っていないとでも思うのですか、あなたの問いに対する簡潔で有益な解答によってではなく、いたずらな反復と停滞によっていや増されたこの無為で無慙な重みをこそそのまま読もう、「なぞろう」とはなぜしてくれないのです。
読むということは、そこに書かれてあることがらの意味を汲み取ることではなく、書かれてある文章の律動に添ってゆくことだというのは、常々わかっていたことのはずだった。読むことは、なぞることであり、そこにこそ快楽もある、だがそれは同時にとても消耗を強いられることなのだ。
「書は指でなぞればわかる」と『書史』冒頭にある。だが「指でなぞる」とはいったいどういうことなのか。『日本書史』にはたくさんの書の図版がある。だがそれらの図版はお習字のお手本のように、筆なり指の太さに合わせた「実物大」ではなく、それらの書における運筆=「書きぶり」を緻密に克明に分析していく記述は、あたかも懇切な「指のなぞり」の手ほどきのようでありながら、やはりあくまでも「指」そのものではなく、指先から流れ出した文章をもって行われている。その手ほどきに従って例えば藤原行成「白楽天詩巻」中の「五」という字の「書きぶり」をなぞってみようとする以前に、読者たるわたしは、行成の「五」をなぞろうとする記述そのものの「書きぶり」をまずなぞってみることを余儀なくされる。
第一に、起筆が遠くから、筆尖の一毫から、「繊細」に入筆する表現。しかも第一、第二、第三横筆の起筆が形状こそ異なるものの、劇的な展開と発展性をもたずに、基本的に左斜め上方からほぼ同じような手つきで順筆(左上から右下に率直に入筆し、起筆すること。逆に右上から入筆し反転する起筆を逆筆と呼ぶ)で書かれようとしていることである。第三横筆(第四画)は右上から入筆しているにもかかわらず、中国風の逆筆へと「反転せず」、いくつかの動きの節に微分されてはいるものの、曲転を描いて順筆で書かれようとしている。(……)
「五」字は、もともとは算木を二本交差して置いた「X」の形に発し、「X」と表記されていた。(……)ところが、この「白楽天詩巻」においては、その「原形に無頓着」である。第三画は起筆部で「沈み」、いったん「浮き」、「つ」の字を描くかのように右回転を経て沈み込み、そのまま最終の第四画になだれ込む。(……)
最終の第四画の起筆は、前述のように逆「つ」字型の、「⊂」型が文節されて描き出されている。その終筆部では筆尖が「傾い」ているため、字画の左側(前倒)に残ったまま筆毫の腹側を右下へ向けて沈めている。横画は逆転した「つ」字型の「⊂」と、「つ」を組み合わせ、「S」字を横に倒した「∽」字型で描かれようとしている。実は、一つの横画を中国式に「起筆+送筆+終筆」と書くのではなく、それらが溶け合い、漸減、漸増する、すなわち「流れる」ように書く、この「∽」字型の「階調」的、拍動なき旋律こそが、日本の書を象徴する基本運筆となり、近代に入るまでの日本の書の書きぶりを決定していくのである。「五」字の最終画において、起筆にいささかの文節のこぶ(角)が見られ、終筆で「沈め」られるのは「白楽天詩巻」が中国の書とのつながりをわずかに、皮膜一枚残しているからであり、その点で、中世、近世のように流れるばかりの軟弱な陥穽に陥らずに、緊張感をもって踏みとどまる表現を残している。
そして、この「五」字を書き出しの第一画の起筆の入筆部から指でなぞっていくと、(……)
(p.161-162)
『日本書史』全体を通してこの箇所は、最も克明かつスリリングな「なぞり」のひとつだ。書に限らず、絵画や音楽や映画などの一こまを言語でもって「なぞる」ときに幾分なりと混ざり込まずにはいない印象批評的な形容詞句が、その種の叙述をいつもどこそこ弛緩したものにしてしまうのが常だが、ここでは、「微細」とか「流れるように」など下手をすれば印象的形容に堕しがちな語句が逐一「用語」として「」にくくられているためもあって、そうした軟弱な陥穽に陥らずに凛とした緊張感を保っている。「」がむやみに多いのは、「微細」に「浮き」「沈み」「傾い」てひたすら「流れる」日本風の書体の特徴がこの藤原行成筆の「五」という一字の中に遺憾なくその姿をあらわしていることを指摘し、「和様の書」がここに完成しつつあることをいやが上にも明らかにするために、「読者にはいくぶんか負担をかけることを予想しながらも」「少々煩雑になる」ことを厭わず今回の「なぞり」に限り特別に付与してあるもので、なぞりのお稽古のあとで、これらの用語についての講義が行われる予定なのだった。振仮名が妙に多いのは、ひとつには書の用語に慣れない読者の便宜のため(「順筆」「起筆」)、あるいは、わかりやすいからといって安易にカタカナ語に依存するのを潔しとしないが、かといって人口に膾炙したカタカナ語のわかりやすさを排除するほど狭隘でありたくないというやや屈折した用語選択意思に発すると覚しいもの(「曲転」「階調」)、さらには、東洋における書は西洋における音楽にあたるという持論から、あえて音楽的用語にカタカナ西洋語をふって二重化する場合(「拍動」「旋律」)など、さまざまなケースがこの一節にぎっしり詰めこまれているのがわかる。()による説明の挿入も、一見「煩雑」だが初心者には適切かつありがたい補足であるといえる。
なにより第一に目を引くのは、冒頭近くの「書かれようとしている」に傍点が付されていることである。傍点こそここだけだが、「書かれようとしている」「描かれようとしている」となお両二度くりかえされる「ようとしている」が、この「なぞり」の際立った特色をなしている。「なぞる」とは、そこに「書かれている」ものをなぞる以上に、そこで刹那刹那なにが「書かれようとしている」のかをなぞることだ、ということに力点が置かれているのがよくわかる。筆尖の物理的・力学的な運動がひたすら即物的に記述されていき、書道用語としての「トン・スー・トン」以外のいわゆる擬態語もここではひとつも使われていない。「ズーズー・ズルズルズル」とか「べたべた」とか「くねくね」といった著者自身あまり好まないらしい擬態的表現をここではいっさい使わずにすんでいるのは、行成の「五」の字そのものが、そうした表現を必要としないほど緊密な物理力学的運動で構成されているからなのだろう、とそう思わせるだけの緊密な物理力学的運動をここでの「なぞり」は持っている。ここでなぞられているのは行成の書の「書かれた」姿形である以上に、そこで真性和様の書が「生まれようとしている」その力動なのであり、それがここで「なぞられている」以上に、「なぞられようとして」いて、そのためにA4版二段組の一ページ以上をまるまる「五」一字のために費やしてもなお、弛緩した擬態語など使っている「暇はない」のだ。『日本書史』全篇にわたってこれほど躍動的な叙述が満ちみちていたなら、多少重かろうと痛かろうと何でもないと思えるほどに、この箇所は「なぞる」営みの快楽と歓喜に満ちている。
なぞろうとする書が、何らかの「書かれようとする力動」に満ちているとき、著者の「なぞり」はその力動を反照するように「なぞろうとする力動」に満ちて張りつめている。逆に、さしたる力動を見出さない書をそれでもなぞろうとするとき、著者の「なぞろうとする力動」も衰える。『日本書史』 をずっとなぞっていくと、後半をすぎたあたりから徐々に力動の衰えが目立ってくるのがわかる。江戸時代はじめのいわゆる「寛永の三筆」のひとり松花堂昭乗筆「秋」の字については例えば、
「S」字型運筆を基調とする流儀様においては、「秋」の最終画は、前行の「原」の最終画のように深く沈み込むように書かれるのが常である。しかるに、ここでは、「うねうね」と蛇行するような表現の中に、はっとするような直線的な転調が生じ、左上から右下方向へ細く直線的に、切り込むように書かれている。この転調表現はもはや、古代、中世的な表現ではなく、本阿弥光悦の書の表現とも共通する近世的な表現である。
(p.476)
と、うってかわって「流儀様」「古代、中世的」「近世的」といった抽象化された既出の用語や、「うねうね」「はっとするような」「切り込むように」などの定型的な形容詞をずらずらと連ねただけの、おざなりで退屈な表現へと堕してしまっている。それはつまり著者自身が、なぞられている昭乗の書そのものに「おざなりで退屈な表現」しか見出していないということであり、それでも一生懸命になぞろうとしてはいるものの、最終的に「松花堂昭乗には、時代に寄り添っていながら、古代にもまた新しい近世、近代という時代にも開かれた複雑自在な表現がある」というどこか無理のある空疎な誉め言葉でしめくくってしまうその「終筆」には何となく力がなく、著者自身が実はとても退屈しているのがわかる気がする。そして『日本書史』によれば、寛永の三筆あたりから日本の書は実際ほとんど何の力動もない、どうしようもなく退屈で停滞した局面へ突入してしまうのだ。そこで主張される書史論に、それを記述する筆がぴったりと寄りそっているのが、驚くほどまざまざとわかる。とても興味深い、けれどもとても疲労する「なぞり」が、そこで確かに行われているのだった。
みずから書家である書論家の手になる「画期的な書論」というのが、目下『日本書史』に向けられている大方の評価らしく、そのことにたぶん疑いはないのだろう。「記念碑的著作」だとも言われ、だから碑板のように重いのだとすれば、それは確かに「画期的」なことであるに違いなかった、なぜなら記念碑というものは常に何らかの画期において建てられるものだからだ。けれどもそこで画期をなしているのは、書の歴史よりもむしろ、著者が、あるいは書というものが蓄積してきた、なぞりなぞられる営みの長年にわたる疲労ではないかと思われた。
この本で説かれる重要な書史上の「画期」は、わたしがなぞった限りでは三つある。古代における中国文字=漢字の全面的流入、近代における西洋語ならびに印刷術の全面的流入、そして現代におけるワープロの全面的普及——以前に上梓ずみの『中国書史』(京都大学学術出版会、1996)で、漢字と、その集積としての中国語・中国書についてあらかじめ綿密に説かれた、その続編である『日本書史』は、この最初の画期から説き起こされ、おおよそ年代順に進んでゆき、第二の近代の画期が訪れる直前で終っている。だから厳密にいえば、『日本書史』において描出される大きな「画期」は、最初のひとつだけなのだ。言語も国家もばらばらだった原始日本に漢字とその体系が流入してきて、それを懸命に咀嚼することで日本語ははじめて日本語になり、日本は日本になった、それはミニ擬似中国としての日本で、厳然と屹立する漢字の呪縛から今度はいかにおのれを解放するかが日本の書の課題となり、それはそのまま「日本語」すなわち「日本」の課題でもあったという、その静かでたゆみない遅々とした独立運動の歩み、そしてその成果としての平仮名連綿体——それが、『日本書史』前半を構成するスリリングな楽しいストーリーだといえる。
「聾瞽指帰」に始まる奇異、奇怪の表現は、空海のいわば中国書論の誤読と書の誤解――誤解や誤読と言って悪ければ、空海固有の理解――にある。
(p.103)
現在の我々から見れば、奇怪な空海のこれらの表現は、おそらくは、中国の書の主流、つまりは中国への違和に発するものであろう。むろん日本は中国の書(語彙と文体と表現)を学習し、それをとり入れるわけであるが、(……)空海期(弘仁期)においては、それへの齟齬と違和を感じ始めたのである。その中国への違和が、現在の我々の目から見れば、奇異・奇怪としか言いようのない形で書に表現されている。その違和の中にわずかではあるが、中国とは異なる文化・日本が自覚されはじめたのである。
(p.107-108)
空海をはじめ「三筆」とよばれる人々の書が、平安初期におけるひとつの小画期としてこの本で高く評価されるのは、彼らの書が普通言われるように闊達であったり風格があったりすがすがしかったりするからではなく、ひとえに「奇怪」だからなのだが、『書史』中に比較的ひんぴんと出現するこの「奇怪」という語は、例外なくそのつどの時代規範からの何らかの逸脱性を指し、著者にとっては相当にグレードの高い誉め言葉であるらしかった。鎌倉期の藤原俊成の書にこの形容があてられるときは、すでに完成し爛熟の段階に達していた「流れるような」和様仮名書の規範から鋭く逸脱する筆尖の斬り込みのなかに日本独自の内発的「近代性」の萌芽が「なぞられようとする」のだが、空海にこの語があてられるに際しては、彼の筆の力動の珍妙な歪みや企みに、それまで「のしかかって」いた中国語とその文化からみずからを引き剥がしていこうとする一種の強烈かつ若気の至りめいた「地方的」革命意識の噴出が見てとられようとする。「複雑怪奇な、奇異な表現」「奇怪の書の権化」「奇怪としか言いようのない」「まことに奇怪、奇妙としか言いようのない書」「一見したところ奇怪な」「珍奇、奇怪、グロテスク」「奇怪な書」「奇怪な表現」「奇怪」「奇怪」「奇怪」——空海の項だけで何度出てくるかわからないこの「奇怪」という語がしつこく連呼されるにつれて、しかし奇怪なことに「空海の書は奇怪である」という主張そのものは返ってだんだん説得力を失ってゆくようにも見え、そのかわりに、空海の書に「奇怪」という語を繰り返し宛てるその「書きぶり」を貫く随喜——いってみれば「空海には奇怪という字がよく似合う!」とでもいうような取り合わせの発見の随喜が、ぞくぞくとこちらに伝わってくるように思われ、こちらもだんだんと空海に奇怪という字を書かせてみたいとか、奇怪と書いてクウカイと読む等といった、馬鹿ばかしくも晴れやかな気持ちに襲われ、「なぞり手」のその随喜を通して、故空海自身の書字の随喜が活々と見える気がしてき、このような随喜が生まれてくるのであれば、それはこういう奇怪ななぞりかたをする無二の正当な根拠でもあろうとこれも奇怪な納得のしかたをせずにはいられないあたりが、この空海の章が『日本書史』中でも一、二をあらそう闊達ですがすがしい章だと思える所以なのだった。
一方、ずっと時代が下って江戸期に入ると、例えば禅僧白隠の書がやはり「奇怪の極み」と形容されるとき、言葉は同じでもそこにはもう空海の頃のような随喜はみられず、「奇怪な書」「極めて特異な書」等々といった本来いくぶんか特権的であるべき評語がなんだか各々の書に適当に割りふられているがごとき投げやりさが目につくようになる。昭乗の「秋」字にみたような惰性的な「なぞり」がずるずると所在なく続くようになるのもそのあたりからだ。空海のころに発生した「中国への違和」がやがて平仮名を生み、和様連綿体の極致としての「上代様」を完成させ、その爛熟のなかから日本独自の「近代性」が芽生えようとしたのだが、折あしくそのころまた大量に宋王朝から新たに流入した漢字とその思想に呑みこまれて、せっかくの萌芽は藤原俊成・定家親子二代ではかなく潰えてしまい、そのまま鎖国時代へなだれこんで日本の書はずるずるべったりの「流儀様」に沈緬停滞したまま徒に明治期を、つまり西洋からの近代の流入を待つことになったのだ、というストーリーに照らしてみれば、つまり俊成・定家以降日本書史は基本的にすっかり「待ち」の姿勢に入ってしまうのであり、とすればそれを「なぞる」著者の筆致がやはりどこか「待ち」の筆致となるのに不思議はないだろう。『日本書史』前半三分の二のストーリーが上のようなものだとすれば、後半のストーリーはもっとずっと簡単で、たぶん一言でいうことができる、つまり「近代はまだ来ない」——それは『日本書史』後半というよりもむしろ後続予定の『近代書史』の長大な予告編に等しい。前半でとりあげられているいろいろな故人の書はもっぱら「中国」ないし「漢字」との距離において測られ、その距離が遠いほど『日本書史』的には高い評価を与えられるのだが、俊成・定家を境目として後半でとりあげられる諸書は今度は来たるべき「近代」との距離においてその価値を測られ、その距離が近いほど好しとされる。年代順に網羅的に書史を追っていくこの本がいかに分厚くとも、とりあげうる書の数は限られる。寛永期の新「三筆」を最後として江戸期の書が従来の書史でほとんど取り上げられないことを著者はしばしば不当とし、江戸期がそうした長い長い「待ち」の時代であったことそれ自体をこそきちんと辛抱強く「なぞら」なくてはならないのだといいたげに、あえてこの「待ち」の時代に本の三分の一を宛てるのだが、それでも著者として「見どころがある」ものをピックアップしてとりあげざるをえず、となれば、堕落した和様の規範からいくらかでも奇怪に逸脱したもの=この場合「近代性」を懐胎しているものを選ぶことになり、それでも近代はまだ来ないから、必然的に、ほぼあらゆる章が「奇怪な書」「近代性の萌芽」「しかし真の近代はまだ遠い」という構造になり、基本的にこの同じ構造を持つ章がずっと続いていくとその連続自体が和様流儀様をなぞるごとくずるずるべったりに連綿して、その連綿を辛抱強くなぞっていく間中、「ああ、まだだなあ、まだだなあ」という声ばかりが聞こえる気がしてやりきれなくなるのだったが、それはおそらく著者自身のやりきれなさで、「待ち」の書をやるせなくなぞりながら著者はじりじりして近代の書の到来を、というより、近代の書をなぞり近代の書について書くそのときを待っているように思えるのだった。前半の諸書の「書きぶり」が中国との、後半の諸書のそれが近代との距離で測られているのならば、それを測る著者の「書きぶり」は、前半は『中国書史』との、後半は『近代書史』との距離において測られる。前半の晴朗な随喜は「中国書史」から剥がれて遠くへ行こう、前へ進もうとする力動のなかから生まれ、後半の停滞は「近代書史」への待機から生まれる——つまりこの書物『日本書史』は一方で同じくらいの厚さの『中国書史』に「のしかかられ」、一方で同じくらいの厚さになるだろう『近代書史』にぐいぐいと引っ張られているのだった。この本が過剰に重いのは、ひとつにはそれゆえなのだ。
購入してから三ヶ月もたつと、もはやこの重みを持つこの容以外の容をした『日本書史』などは考えられなくなっていた。畳の上に半ば埋まりながら、少し傾いでしずしずと横たわっているその容はちょうど、西洋の墓地で、一人分の枕のあたりに平らに植えてある小さな四角い墓碑のようだった。そこには何か生々しいものが、いつまでもいつまでも、何かを待ちながら埋まっているのだ。読み疲れた『日本書史』をそのまま枕にして横になると、わたし自身もまたそこに埋まって何かを待っているものの仲間入りをしたような感じがする。子供のころ家の裏の墓地で、草むらの中のこぼたれた墓石を枕によく寝ころんで空など見ていたことを思い出した。この本は記念碑的というよりもむしろどこか墓碑的なのかもしれなかった。
2 それはいつ読まれたか――書を恋う書物のバラッド
ベルリンの郊外には、「○○森林墓地」と名づけられた広々した墓地がいくつもある。どこまでも続く整然とした参道からはずれて、芝生のなかの潅木の茂みにうずまっているような墓碑の間をぬって歩きたいと思いながらも、日本の火葬墓地と違って、そこに埋まっている人の頭や胸をいつ踏むかもしれないと思うと、あまり大胆に碑に近づいてみることははばかられた。手入れの行き届かない荒れた墓地では、石碑の傍らに植えられた櫟や樅やいろいろな木が、当初は小さな苗木だったとおぼしいのにすっかりこんもりと茂って、しだれる枝のなかに当の碑をすっぽりとうずめていて、べつに墓標でもないらしい潅木の藪と一見まるで区別がつかない。もしかしたらそれらの潅木もみな、もとは石碑だったのが長年のあいだに石から芽ぶいて茂ったのかもしれなかった。いったいにベルリンでは、墓とそうでないものの区別があまり判然としなかった。旧東ベルリン地区の街中の小さな古い墓地に、優美な十字架型の墓標が散在するのをしばし眺めようとしてベンチに座ると、低い塀のすぐ向こうに並んでいる五階、六階建てのアパートの窓の桟がやはりなぜかみな綺麗な十字架型をしていて、ぼうっと眺めているとそれらのアパートの簡素な十字架の列と、墓標の十字架とがまぜこぜになって、いったいどこまでが墓地なのか、そこに埋まっているものは何なのか、生死の時空のはっきりしない不思議な気持ちになる。振りかえって背後の塀の向こうを見ると、やはり墓標の十字架を隔ててそびえる瓦解した建物の廃墟めいた壁に、荒荒しいペンキの殴り書きで「兵隊はみな人殺し」と落書きしてあるのがやはりどこかしら墓標めいていたりする。わたしは記念碑とか文学碑、歌碑のたぐいは実はあまり好きではないから、たいてい素通りしてしまうが、墓碑だけはとても好きで、ベルリンにいる間じゅう墓場ばかり巡っていた。広大な墓地を歩いてはカフェで休む。墓地のベンチに座っているのとカフェのテラスに座っているのと、それほど違いはないような気がした。墓地の陽だまりに碑が並んでいるのと、カフェのテラスに人が並んでいるのとでも、やはりたいして違いはないのかもしれない。とある由緒ある聖堂では、代々その地下に埋まった人たちの何百年も前の壮麗な墓碑の残骸と、近代諸侯の肖像画と、現代の彫刻家による等身大に近い木彫りの像が渾然と入り混じって展示されているなかを、生きた人々がゆらゆらと歩き回っていた。一方「旧ユダヤ人墓地」と称される場所を訪れると、そこはがらんとした芝生の広場になっていて、墓はなく、ひとつだけぽつねんと立っている真新しい碑には、「ここにかつて墓地があった」と彫り記されている。そこにあったユダヤ人墓地をかつてゲシュタポが破壊した跡地だというので、その種の記念碑が常にそうであるように、この碑にもまた「忘れるなかれ」と大きく記されていたが、それは記念碑というよりむしろ、そこにかつてあった墓地それ自体をまつる墓碑なのだと思えた。真新しいその碑のもとには、ひとつの墓地がまるごと埋まっているのだった。
二週間ばかりしてベルリンから帰ってみると、『日本書史』はやはり畳の中に埋まっていた。というより、平らに植えこまれた『日本書史』のもとに、かつての膨大な日本の書史が埋まっているのだということが改めて感じられるような気がした。それはすでにない墓地そのものを埋葬した墓碑に似ていた。
相変わらずぎっしりしたページをめくりながら、たくさんの書の図版を眺めるともなく眺めていると、陽だまりの墓地の散策のように心楽しい気分になる。当然ながらそれらの図版はみな写真で、むかしの書画の写真図版がいつもそうであるように料紙の地の部分が灰色で、つやつやした真新しい日本の墓石の色に似たそのグレーのなかに、散らし書きの歌や、単独の文字が黒々とあざやかに浮き上がっている。本文の解説では酷評されている書でさえも、写真にみるそのすがたはとても美しかった。ことに、一字一字が切り取られそれぞれ真四角な枠に入れられてクローズアップされて並んでいると、サイズを揃えて丁寧に置かれたそれらの字画構成物は、そのように丁寧に配置されることによって、経文や歌色紙を埋めるたくさんの字の群れの中にあっては見えにくかった微細な美しさをもって目の前に次々とあらわれてくる。真四角な灰色が均等な間を置いて整然とページの端に並んでいる様子はちょうど、森林墓地のはずれに設けられて常に静かに手入れされている無名戦没者地区のようだ。わたしはベルリンで『日本書史』と少しだけ似た感じのする本を一冊手に入れた、それは『ベルリン諸墓地に残る彫金芸術』という、題名通りの内容の本だが、モノクロの写真図版がたくさんあって、ある墓地の門の正面写真や、誰かの墓所の全体像にまざって、囲柵に絡まる鋳鉄製のバラや唐草のアップが時折はっとするほど美しい。ベルリン市を構成する一地区ごとに一章をなしていて、その地区にある墓地をあらまし紹介したうえで個々の解説に移っていくのだが、話はいっさい彫金芸術のことに限られていて、墓地によっては「ここには見るべき彫金芸術はない」ととりつくしまもなく言われるだけで、その墓地が他の観点から見てどうであるのかには全くお構いなくほぼ素通りされていくのだった。鋳鉄製のバラがユリでなくバラであることが、そこに埋まっている人にとって何を意味したのか等の事情もどうでもよいらしかった。そこにバラがあること、それがどのように鋳造され彫金されたのかだけが重要で、そしてそのバラの写真はうつくしい。それは一見『日本書史』とはまるで似ても似つかない書物なのだが、それでもわたしは例えば行成の「十五夜」という字と、ベルリンのその鉄のバラはどこか似ていると思った。行成がなぜ、どういう気持ちでそこに「十三夜」ではなく「十五夜」という言葉を書いたのかが重要なのではなく、行成という人によってそこに現に「十五夜」という字が書かれたこと、それがどのように書かれたかということ、そしてかつて「十五夜」という字がそのように書かれたことがあったということが重要なのであり、そしてその字は美しい。
このベルリン墓地芸術の本をわたしは最後まで読んではいないから、その著者がはたして、現代において彫金芸術がすっかり廃れてしまったと嘆いたり、それを文明そのものの衰退のしるしと考えていたりするかどうかはわからない。でも現代の新しい墓地に、そういう技術の粋をつくした墓標や囲柵、あるいはその発展形がほとんど見られないことはたしかだ。
『日本書史』によれば、日本の「近代」は、西洋文字・文化および活版印刷術を伴って外部から到来した。そうしていわゆる「近代的自我意識」を獲得するとほぼ同時に、ひとは筆をペンに持ち替え、かつ活字で出版するようになった、つまり『日本書史』で待たれている「近代」、すなわち『日本書史』後に訪れるはずの「近代」とは、「書を書く」ことと「字を書く」ことの分離がはじまった時期なのだ。それまでは手紙であれメモであれ人の書くあらゆるものが「書」だった——厳密にいえば、いまわたしたちが「書」とみなすもののなかに、昔の人が筆で書いたものは全てふくまれてしまう。書いた当人の心づもりとは関係なく、いやでもふくまれてしまうのだ。この書論が「画期的」である点のひとつは、あらゆる種々雑多な書きものを、それがいったい「書」であるかという疑問を付すことなく全て書であるとあらかじめ断定しそれを前提とするどころか、書とは、筆で書いた全てのものがそれであるようなものであると逆定義することによって、かつ漢字文化圏の言語は「書字中心言語」つまり「字を書くこと」を中軸とした言語であると考え、かつ文化の歴史とは言語活動の歴史であるというテーゼを媒介として、文化=言語=書字=書=史といういわば絶対唯書主義を打ち立てている点なのだろう。「書は人なり」ではなく「人は書なり」であり、書が文化なのではなく文化が書なのであって、さらには国家も、いっさい人間の知的営為とはすなわち書であり、歴史とは書史に他ならない。書が死ねば、たちまち歴史も死ぬのだ。奇怪の書史——それは何事かに対する強烈な違和から発している。
(……)力はない。速度もない。深さもない。しかし「間」と垂直性だけは存在する。それはもはや筆蝕を生命とする書ではなく、文字と構成に意匠をこらしたデザインである(……)
(……)これらの本阿弥光悦の氷結したがごとき書から透けて見える人物像はと言えば、生々しさと生気と作者を失った死者の魂である。徳川家康や上層階級を驚かすだけの力量の意匠と悪意なき意匠集団を率いた並はずれた詐欺師的組織者であったように思われる。(……)
(……)それは創造性を失ってコラージュや詐計に走る現行のいわゆるコンピュータアートやインターネットにつながるものである。その点で本阿弥光悦の再評価が高まっていることの意義は首肯できるが、書を見る限り、本阿弥光悦のこれまでの評価は変えざるをえない。
(p.466-467)
著者は光悦の一面しか見ていないという批判——「書を見る限り」といっても、光悦の営みはべつに書を中心としてあったわけではなく、刀剣の鑑定家であり研師であり茶人でありインテリアデザイナーであった総合的知識人光悦においてはそれらもろもろの営みの総体を形成する一環として書があったにすぎないのだから、その書に「力もなく速度もなく深さもな」いからといって、茶と数寄の文化全体を見渡しもせず詐欺師呼ばわりするのは不当だという批判は、ある正当な一面を持つだろう。だがおそらく著者にとっては、もろもろの営みの中心に書を置かないというそのこと自体が、すでに憤りの対象なのであり、およそ一級の「知識人」たる者が書を書くのであれば意識的にであれ無意識にであれ書を中軸にすえて自らの活動を営まないということが、そもそも許すべからざる怠慢なのだった、なぜなら著者の用語では「知識人(=文化を担う人)」というのは本来「字を書く人」すなわち「書を書く人」のことだったからで、近代以降「字を書く人」と「書を書く人」が分離したあと、現在の「知識人」の第一の義務は、なぜおのれが書を書かなくなったのかということについてもっと真剣に考えることだというわけなのだ。そしてその問題意識はそのまま、著者がなぜこの「なぞり」の書物を、文字通り書を「なぞって」みせる『石川九楊臨書作品集』ではなく、活字文章によってみっしりと記述された「書論」として出さねばならなかったのかという痛切な問いとなって、著者自身へ跳ねかえってゆかずにはいないだろう。
昨今(2003年時点)のいわゆる「ワープロ・手書き論争」において著者は最右翼の反ワープロ主義者として夙に知られ、『書史』にもその過激派ぶりが散見されるが、十年前まだようやくワープロが普及しはじめたばかりのころは、その反ワープロ主義も今ほど先鋭ではなかった。
ワープロ=印刷文字の普及によって、言葉はいっそう言葉自身の中に差異を盛り込むように厳密になるのではないだろうか。肉筆や「書くこと」の深みの中に内包していたロマンが剥がされ、文体やレトリックや文の展開構成によって微細、精密に表現することが要求される。
「ありがとうございます」というひとことの葉書が「肉筆」では、その自己同一性と送信、受信者の関係から何かを言い得ていても、ワープロ=印刷文字の葉書では、暗号文か、店員の義務的な挨拶のような軽浮な意味しか結果しない。そのため、私的領域においてさえ印刷文字は、言葉自体のより微細、正確な表現を促すことになろう。/(……)
つけ加えておけば、私はこの原稿を明朝体印刷文字で完成した姿として生みおとすという前提において書いている。この原稿の肉筆文字は、いまだ私の言葉に相応しい形象に到達してはいない。肉筆は思考を引き出し、飛躍させ統整し、表現する前段階に分かちがたく結びついているだけだ。明朝活字となって、はじめて文は完成する。肉筆では、もうすべて書き切ったと思ったのに、校正ゲラが出ると、言い足りない箇所が見つかって加筆したり、逆に、余計な表現のように思えて削除することがあるのは、肉筆の中に溶かされていた文体が、明朝体では裸にはがされているからだ。
(『文字の現在、書の現在』芸術新聞社、1999)
当時すでに姿を消しつつあった活版印刷への過度の恋着を潔しとせずに、写植出版とタイポグラフィの隆盛に希望をたくし、また当時全盛だった変体少女仮名=丸文字に、横書きに対応しようとする日本語書字の必然的な自己変革運動を見いだしていた著者は、むしろ誰よりも進歩派だったのだろうと思える。千数百年ものあいだ書字の規範であり続けた楷書体にかわる新しい規範文字が、少女たちの無意識の筆致から生まれつつあるのだという観察は本当に卓見だったのかもしれず、それはもしかしたら藤原俊成の筆蝕が独自の近代を孕んでいたのと同じくらい「奇怪な」書字群としてやがて『現代書史』の一ページを飾るものとなりえたのかもしれなかったが、予測をはるかに越えてワープロはいっさいの書字領域をまたたく間に覆いつくし、嘘のような勢いでインターネットと携帯メールが氾濫して、変体少女仮名はその奔流のなかにあっという間に呑みこまれてしまった、ちょうど、俊成・定家親子二代のささやかな「革命」が、宋王朝からなだれ込んだ新たな漢字群の奔流に呑みこまれて、はかなく潰えてしまったように。そしてワープロの全面的普及が「言葉自体のより微細、正確な表現を促すことになるだろう」という著者の楽観に反して、そのような現象は生じなかった。
書とは書きぶり=筆蝕であり、紙という世界に向かってはたらきかけ、はたらきかけられるなかでおのれを常に変成してゆく自己生成の力動なのだという著者の持論、そしてやがてワープロでしか字も文章も書けない世代が育ってくれば文字の自己変革機能は失われ、したがって「書」も完全に死滅するだろうという予測が「正しい」のかどうか——あまたの著書のなかで数々の持論が再々繰り返され、その集大成である『書史』においてもそのつどかなりの紙面をさいてなお再々繰り返される、その執拗で過剰な繰り返しの偏執ぶりによって返ってそれらの論の説得力は徐々に落ちていくのに、本の厚みをいや増して「読者にいささかの負担をかけることを承知で」いったいなぜそれほどに繰り返されなければならないのか、説得力が落ちるにつれて、その持論と予測に対する著者の確信、あるいは死守の姿勢だけが、なぞる指先から反比例的に切々と伝わってくる。ワープロを撲滅し、みなが手で字を書く世の中に戻そうといくら声高に主張しても、そんな逆行がもはや可能なはずはないことは著者とて百も承知だろう。たぶん、著者は間に合わなかったのだ。十年前の己れの予測が甘すぎたこと、いったい現在のこの映像文字の氾濫をなぜ自分は押しとどめることができなかったのか。今ではもう遅すぎる、90年当時こそもっと先鋭に、もっともっともっと苛烈に警鐘を発するべきだったのではないのか、自分にはそれができたはずではなかったのか。かつてナチの台頭を押しとどめることができなかったドイツ・オーストリアの「知識人」たちが戦後ずっと引きずり続けた自責に似た悔いが、著者を過剰なまでの苛烈さへ、そして繰り返し繰り返したくさんたくさんたくさん書く行為へと駆りたてているのではないのか。そんな自責を一身に引き受けようとする姿勢を気張って見せつけようとすればそれはそれでロマンティックな甘ちゃんヒロイズムだということも著者は先刻承知なのかもしれず、言うだけ言ってそれが遅ればせの警鐘たりうればよし、たりえずとも害があるわけでは(読者の肩が少し痛くなる以外は)ないという悪く開き直った確信犯的道化の役割をこそ、著者はむしろ疲労とともに進んで引き受けているのかもしれなかった。いずれにせよ『中国書史』『日本書史』『近代書史』と続くはずの三部作は、おそらくさらに『現代書史』へとつながっていくことはない、なぜなら現代において完全に字と分離した書はすでに「史」を形成しはしないからだ。書の歴史がそのまま全的に「史」であった時代が回帰してくることはもはやないのだという思いに裏打ちされているのならば、この三部作は「書」への三幅対の巨大な鎮魂碑でなくて何なのだろうか。この書物が書家によって書かれたことが重要であるなら、それはこの書物が碑文だからだ。碑文を彫るには「書家」でなくてはならない、そしてそのこと自体、「知識人」と「書家」が完全に分離した現代特有の現象なのだというところに、この「書物」の痛々しさがあるのだろう。おそらく鎮魂のためにこそ、ほとんど奇怪なほどにたくさんの字が書かれねばならなかったのだが、そこで鎮魂されるべき「書」を刻銘になぞりつつ文章が書かれるのであれば、それら文章を構成する明朝活字の字列そのものもまた、なぞられる「書」以上に直接的に自ら鎮魂の対象となる。
字が古来、黒い色で書かれるのは、字というものがもともと岩盤や木や石に掻かれ、彫られていたものの「影」だからだ、と『書史』はいう。石に彫りつけられた碑銘のうえに白い紙をかぶせて、タンポでたたいて写し取る――それが、筆で書かれる書というものの原型ならば、書とは本質的にとても「うつりのよい」ものであるだろう。書が写真になるというのは、なにかとても背筋のぞくぞくすることのようだ。ある写真家が、写真は光の傷痕だといっていた。光でフィルムをひっかいて傷つけた、その痕跡が写真だというのだった、それなら書は、写真になることでよりいっそう書であることの本質に近づくのかもしれない。写真は、そこに映っているものが、「それがかつてあった」ことを否応なく顕わにするといったのはロラン・バルトだったが、また別の写真家は、このことは、「それが/かつて/あった」というかたちではなく、「それは/いつ/あったのか?」という解答不能な問いのかたちで現れなければならないという。行成の、定家の、良寛の書はいったいいつあったのか。それらがもともといつ書かれたのかではなく、『日本書史』のページの上にわたしが見る、いま現に目の前にある図版に映っているそれらの書は、いつ、どこに「あった」のか――わたしは墓碑は好きで、墓碑に字が刻んであるのを眺めるのも好きだ、でもその字を読むのは嫌いだから、なるべく読まないようにしている、そこには必ず「忘れるな」と書いてある気がするからだ。「忘れるな/それがかつてあったことを/この人がかつて生きていたことを」と、そういわれてもわたしには、それがあるいはその人がいつどこにどのように「あった」のかわからないから、忘れずにいたくともいようがなく、わかるのはただその碑がそこにあり、そこに文字が刻まれていたりするというその眼前の光景だけだ。それでも、文字が刻まれているのを眺めていれば時としてつい読んでしまわざるをえない、字とはおそらく読むために書かれるのではなくて、「そこに字が書いてあるから読む」ものだからだ、山が登られるためにあるわけではないように。刊行されて間もない本を隅から隅まで読むという行為は、埋められて間もない棺をあばいて中を見る行為に似ている、それはまだ骨にもなっておらず、化けて出るまでにすらまだ相当の間があるというのに。そのものがどのような肉付きをし、どのような屍衣をきていて、副葬品は何と何か、そんなことをわたしは本当は知りたくはない、わたしは単に、墓碑がそのまま生きた人間で生きた人間がそのまま墓碑でありながら両者がともどもに渾然として活発にゆらゆら歩きまわりつつお茶を飲んで座っているような場所が好もしいと思うのであり、そのような場所がこの世からなくなってしまったら居場所がなくなってさぞ途方にくれるだろう。行成というひとがどのような肉付きをしどのような衣をきていたか、ではなく、行成の「十五夜」がそこに刻んであるから読むのだということ、その「十五夜」という字を書いた人がどのような肉付きをしていたにせよ、その書字の行為の痕跡としての字がそこに書かれていて、それゆえにそれをなぞり、読んだ石川九楊という人がここにいた、そしてその人の「読書」行為の痕跡としての文章がここに書かれていて、それゆえにわたしはそれを読んだのだということ――それ以上のことを記憶しようとはいまは思わない。それらの行為がいつどこで行われたのか、解答を得ることなく問うにとどめなくてはならないのだ。ベルリンのあの森林墓地をわたしはまたいつか訪れるだろう、それは死者のことを知り追憶して悼むためではなくカフェに座って街行く人を見たり友達を待ったりするためであり、ちょうどそのようにわたしはまたそのうち『日本書史』を読むだろう、そのころにはこの石碑からも何かの潅木が芽ぶいて、畳の上にこんもりした藪をつくり、それがいつどこにあったのか、定かでなくなっているだろう。それが現に目の前にある以外のありかたでかつてどこかにあったことなど実は一度もなかったのかもしれないと思えるほどに、目の前に現存するそのものは、まざまざと古びているだろう。
物体であるということは古びることができるということだ、いつか塵となって失せること、その時が来るまでそこに刻みつけたものを決して更新できないことを代償として、物体は墓碑のように古びることができる。本をつくるということは今や、古びることをみずから進んで選択することに他ならず、したがって本などというものはあらかじめ、それがやがて古びたあかつきに初めて読まれるのかもしれないことをこそ前提としてつくられるものなのだろうと思うのだ。本のページを埋めている印刷文字、いまや活版ですらない写真文字が、そのなかに植えこまれている灰色の四角い写真図版と同じくらい古くなり、藤原行成と石川九楊といったいどちらがより古い人だったのかもうまるでわからないくらいに古びたときにこそ読まれるために、更新しがたい刊行年を刷りこまれてこの本はいま現にここにある。そしてできるだけ早く畳の中へ沈みこもうとしている。その重さは、可能な限り急いで古びようとするがゆえの重さではないのだろうか、まるで生き急ぐ人のように、間にあわなくなる前に責務を果たそうとする人のように、この本は滅びる前に急いで古びようとしているようにみえる。
だんだんとわたしにはこの本は、いつしか「書」からはぐれてしまった「書物」が、「書」を恋うて絞るように歌う悲痛な恋歌のように思えてくるのだった、はるか昔に生き別れたまま今は死の床にあるという「書」のもとへようやく駈けつけようとする「書物」が、夫の枕辺にたどりついてその死を看取りながら自分も同時に逝けるように、途上でみずからの衣を引裂き、できるだけ急速に老いながら、いくつもの山を越え、森を抜けてゆく。その道々にうたう歌は、出会いと、蜜月と、いくつもの波瀾と、思いもよらぬ不意の別れ――そのリフレインが繰り返し繰り返しこだまになって響き、耳と目とにつながったわたしの肩を重くする。結末がまだわからないからなのか、それともわかりきっているからなのか、わからない。続篇『近代書史』が出れば、きっとわかるのだろうと思う一方、わからないままにこの物語自体がやがて古びていくほうが、むしろ良いのではないかという気がしないでもないのだ。だがそうはいかないだろう。きっとそうはいかないだろうという切迫感で肩はいよいよ重くなり、ほとんど目のくらむ思いがする。
*初出は『文字』創刊号(京都精華大学文字文明研究所、2003)、これに若干の改訂を加えた。
2021.08.31