Litterae Universales / imagologia

星の眼

NGC7293

NGC7293 Coldwell63 と呼ばれるこの星雲の画像は、数年前に「神の眼」としてインターネット上で話題になって以来ひどく有名になったらしい。ネットがまだそれほど便宜になっていなかった2001~2年ごろの時点では、私は同様の画像を雑誌『Newton』あたりから拾ってカラーコピーするか、あるいは書画カメラで投影して講義素材としていた。それから同じ雑誌のページをスキャンしたものをPC&プロジェクタで投影するようになった。数年前からは、ハッブル宇宙望遠鏡HPのギャラリーページから直接落としたこの画像を用いるようになった。同様の画像がネット上には大量に転がっている。

星にも寿命というものがあって、燃えて光っている星も一定の年月をすぎると、燃えたり光ったりするエネルギーを失う、それを星の死と呼んでいるわけだが、質量の大きい重い星は、爆発したあと超新星になって生まれ変ったり、あるいはブラックホールに変身してしまったりする一方、それほど質量の大きくない星は、こんなふうにありったけのガスを放出したあと、縮んで、もう燃えも光もしない小さな塊になってしまう。この NGC7293 はもともと地球太陽系の太陽と同じくらいの質量を持っていたらしいとのことだが、中央に白色矮星が残って、ちょうど消え残る瞳孔の芯のように小さく光っている。星にも寿命というものがあって、燃えて光っている星も一定の年月をすぎると、燃えたり光ったりするエネルギーを失う、それを星の死と呼んでいるわけだが、質量の大きい重い星は、爆発したあと超新星になって生まれ変ったり、あるいはブラックホールに変身してしまったりする一方、それほど質量の大きくない星は、こんなふうにありったけのガスを放出したあと、縮んで、もう燃えも光もしない小さな塊になってしまう。この NGC7293 はもともと地球太陽系の太陽と同じくらいの質量を持っていたらしいとのことだが、中央に白色矮星が残って、ちょうど消え残る瞳孔の芯のように小さく光っている。

地球からの距離はそれほど遠くないようで、星雲としては非常に近い、650光年の距離だそうである。そうするともちろん爆発したのは少なくとも650年以前であり、ことによるともっと何千年も前で、20年近く前に撮影されたときには、実物はとっくに姿を変えていただろう。もう燃えも光りもしない黒い塊になっていたかもしれない。何百光年も何千光年もかなたにある星の光は、何百年も何千年もかかってやっと地球へとどくから、私が見る星は何百年か何千年か昔の星の姿で、空に見える星の中には、今はもう存在していない星がいくつも混ざっている。それらの星は、今は存在していないが、でも私の目にはうつる、そうして私の目に映っている限りにおいて、その姿においてその星は存在している、それ以外のかたちでは(もはや)どこにも存在してはいない。夕日以上にはるかに、星というものは映像的本質のものだし、星を見るという行為はそれ自体、極めて映像的な行為だ。すでに存在しない星は、いかなる意味においてもすでに、目に映っているそのかたちにおいてしか存在しない。まだ存在している星も、私の目に映っているような姿のものとしては、目に映っているその限りにおいてしかすでに存在しない。私が星を見るとき、その星の映像的本質がみずからを私に伝達してくれるのだが、星というものがそのように全面的に映像的存在であるなら、その瞬間において星はその存在を全的に、まるごと私に伝達する。そして私は、そのように見ることで、私に伝達されたその星の存在を、私自身の映像的本質とともに、天へ伝達する。そうした「伝達」は、その瞬間において生じる。

「私の見たこともない海の彼方の羊の目」のことを考えるときにはいつでもこの画像が思い浮かぶ。私がこの画像を思いうかべて「目だ…不思議だ…」などと思うとき、その思いうかび Vorstellung において生じているのは言語的伝達であるが、仮に何年か何十年かして私が臨終の床につき、肉体の機能をほとんど失って言葉もわからず、脳裏に展開する走馬灯イマージュをひたすら追うことしかできなくなったならば、そのとき私はひょっとしたら「純粋に見るはたらき」のものとなりおおせて、脳裏に思いうかぶこの星の映像と束の間ひとつの wesen のうちにおいてあるようなことになるのかもしれない。どうだか知れたものではないが、いずれにせよそのときには私の目もちょうどこんなふうに瞳孔が拡散しつつあることだろうから、そういう意味では私の目と星の目は等しくなっているだろうとはいえる。ハッブル望遠鏡もなかった時代からすでに人が死ぬことを「星になる」とは、よくぞ言い表したものだった。

2014.5.18

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