Litterae Universales / imagologia

ULOGOS―映像一般と人間の言語

「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語 (Sprache) として捉えることができる」と、これからここで読もうとするテクストの原著者は言う。それは一般にその名を日本語ではヴァルター・ベンヤミンと表記される人であり、「言語一般および人間の言語について Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen」は、この人が1916年、まだ若いころに著した論考であるとされている。その邦訳(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション1』所収、浅井健二郎訳、1995)をここで読むにあたって、しかし私の読解は「ベンヤミンの読解」としてはおそらく間違っているでもあろうことをあらかじめ断っておかねばならない。おそらく、というのは、これから読むのはこの長い論考の最初のほんの十数節のみであって、その先に何が書いてあるのか私はもうすっかり失念してしまったし、今すぐに全体を読み直そうというつもりは当座ないがゆえに、以下に記す読解が事実間違っているかどうか、今すぐに確証を得ることができないからである。間違っていないまでも、おいおい述べるように幾許か不適切であることは確かであるが、ここではヴァルター・ベンヤミンの思想を読みとくことが目的なのではなく(それを目的としたこの論考全体の読解はやがて別稿を立てる予定である)、あくまでもこのたびは、映像に関するある種のことがらを考えるためのよすがとしてこのテクストを使用するにすぎない、そしてその作業からなるべく煩雑さを排除するために、複雑に内容の込み入ったこの長い論考全体を読み直すことを今は避ける。それはしかしヴァルター・ベンヤミンにとっては不本意なことでもあろうし、翻訳者に対しても不敬に当たることがないとも限らないから、ここではこの短いテクストの著者を、本来の長い論考の著者ヴァルター・ベンヤミンと区別するために<ベンヤミン>と記し、<ベンヤミン>を読む限りにおいて、可能な限り綿密に読むことを心がける。時に原書を参照する。ちくま学芸文庫版には底本に関する記載がないが、照らし合わせる限り(また漏れ聞く限り)ではおそらく、言語参照に際して私が使用する版(in Gesammelte Schriften, vol.Ⅱ-1, Suhrkamp, Frankfurt a.M.,1991)は、ちくま学芸文庫版の底本と同一であるように思われる。読解は冒頭から順に行い、引用は特に断りのない限り、直前の引用からじかに続く。強調はちくま文庫版のままである。

人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語 (Sprache) として捉えることができる。そしてこう捉えたとき、そこで用いられる真なる方法のありようにしたがって、至るところに新しい問題提起の可能性がひらかれるのだ。音楽の言語、彫刻の言語、といったものを論ずることができる。

映像のことを考えるためにこのテクストを読み始めたからには、いきおいここに「映像の言語」と付け加えたくなるが、斯界に用いられる「映像言語」というタームはおおむね、ある種の映像編集上の情報伝達テクニックのシステムを指し、そこでの「言語」とは一種の伝達コード、記号システムというに等しい。そういう意味での「言語」、記号的な伝達コード・システムは何もいわゆる自然言語に限らず美術や映像や音楽にも内包されている、という話ではしかしここでは別にない。「言語」という語はこの論考においては、当初、およそ想定しうる限り広い意味で用いられる。

ドイツやイギリスの判決文が作成される際の言語と直接には何のかかわりももたない司法の言語を、また、技術者たちの専門用語とはちがった技術の言語というものを、論ずることができるのである。こうした連関では、言語とは、技術、芸術、司法、あるいは宗教といった当該の対象における、精神的内容の伝達をめざす原理を意味している。

「言語とは(……)精神的内容 geistige Inhalt の伝達をめざす原理」だというのだが、まず前提として、この「精神的」という深遠な語の意味を確定しておかなくてはならない。ここで「精神的」と訳されている geistig という形容詞は、このテクストがいささか神学的文脈にあるものであることを勘案して、その流れの中にある語彙として把握するならば、おおよそ「非物質的」という意味であると捉えうる。神学哲学的文脈で用いられるこの語は、少なくとも中世においては、現代同様 körperlich(身体的)の対義語に違いはなくとも、今日言う「精神修養」とか「精神力」とかいうときの「精神」がどうというよりむしろ、人間や諸生物の持つ属性や営為のうち、物質、マテリアに縛られた身体に依拠するそれらに対して、マテリアに縛られていないそれらを示す語であった。食べたり飲んだり歩いたり、ものを作ったり壊したり、当人の物質的肉体を以て他の物体に直接働きかけるのが身体的 körperlich な営みとされたのに対して、非物質的 geistig な営みとは、そうした直接の働きかけを用いない形で行われる営為のことであり、それは一口に言えば認識の営みのことであって、認識は知覚認識と知性認識とに大別されていたが、後者のほうが前者より格段に上位にあり、人間の営為のうちで最も純粋に geistig な営みといえばもっぱらこの知性認識を指していた。より厳密にいえば、人間の営為のうちで純粋に geistig な営みに最も近いものが知性認識のそれであるとされていた、というのは―あるいはそれゆえに―神こそは純粋な知性認識そのものであるとされていたからである(この点に関する種々の神学的議論・異論に関してはここでは措く)。神とは純粋に geistig な存在に他ならず、そして人間は、他の動物と異なり(とされていた)、知性認識の営みを行うがゆえに、その限りにおいて神の似姿だというわけなのである。知覚認識のほうは、動物も行う営為であるし、肉体の諸器官を用いるゆえに、純然たる知性認識(とは何か、というのも困難な問題であるがやはりここでは措く)に比べると相当に低位にある(すなわち神から遠ざかっている)が、中で、視覚・聴覚の二つ、ことに視覚は、嗅覚・味覚・触覚よりはずいぶん geistig な知覚だとみなされたようである。ここで「精神的内容の伝達をめざす原理」と言われているのは、本来は(つまりヴァルター・ベンヤミンの意図においては)おそらくは「知性認識的なものごとの伝達をめざす原理」ということに他ならなかったと思えるが、ここでは<ベンヤミン>のテクストに従って映像およびそれを見る営為について考察するために、この「geistig な内容」に「ある種の知覚認識的な内容」をも含めて考えることとする。そのさい、五感のうちどこまでをこの「ある種の知覚認識」に含めて考えるべきかは、厳密にいえば難しい問題ではあるけれども、ひとまずは映像とそれを見る営為に最も密接にかかわる視聴覚認識をもっぱら考察の対象とすることとし、これを知性認識と併せて geistig な営為として捉え、これを「知覚・認識的」な営為と呼ぶものとする。そして以下の引用と本文における「精神的 geistig」という語は、そのような意味で理解することとする。

この理解はむろん、よほど恣意的なものである。後に順次述べるように、ヴァルター・ベンヤミンはおろか<ベンヤミン>さえ、この語をもって視聴覚的認識について論じようというつもりはおそらく全くなかったであろう。その点でこの私の読解は、すでに冒頭のこの時点でさっそく<ベンヤミン>の読解としてすら相当に疑わしいものになるが、あえてこうした恣意的な語義解釈を投入するのはひとえに、それによって、この論考の内容を視聴覚的なものごと、それももっぱら視覚的なものごと、すなわち映像およびそれを見る営為に適用することができるようになるからである。そして、純粋な知性認識なるものが神学哲学的文脈においていかに抽象的かつ非マテリアルなものとして思考されていたにせよ。所詮は被造物である人間の不完全な知性認識の発動においては「ある種の知覚認識」が介在せずにはいないのであってみれば、geistig な認識のはたらきにあらかじめ知覚を含めておくことこそがむしろ<ベンヤミン>の読解自体にいつか資するかもしれないのである。

一言でいえば、精神的内容のどのような伝達もすべて言語に他ならない。その際、言葉 (Wort) による伝達は、単に、人間の言語が行う伝達という一特殊ケースにすぎない。つまりそれは、人間の言語の根底をなす言語(たとえば、宗教)、あるいは人間の言語に基づく言語(司法、文学)が行う伝達の場合をいっているにすぎない。しかしながら、言語の存在は、なんらかの意味でつねに言語を内在させている人間の精神表出の、そのすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる。生ある自然のうちにも生なき自然のなかにも、ある一定の仕方で言語に関与していない出来事や事物は存在しない。というのも、みずからの精神的内容を伝達することは、すべてのものにとって不可欠だからである。

生ある自然のうちにも生なき自然のなかにも、言語に関係ないものは存在しないという。例えば一個のランプも、一定の仕方で言語に関与しているという。それは、いま私がここに「一個のランプ」と書いた、そうした形で、私ないし人間との関わりにおいて一個のランプは言語と関係している、あるいは「これはランプである」というような言語と関係している、そんなふうに考えればわかりやすいことではあるが、しかし、「みずからの精神的内容を伝達することは、すべてのものにとって不可欠である」という―つまり一個のランプにとっても、みずからの精神的内容を伝達することは不可欠である、そういう意味でこのランプは言語と関わりがあり、このランプはおのずから、言語というかたちで、みずからの精神的内容を表出している、というのだから、ここで言われているランプと言語の「関わり」は、上記のような単純なものではないはずである。

とはいえ、このように用いられた<言語>という言葉は、決してメタファーなのではない。みずからの精神的本質を表現において伝達しないようなものを、われわれはなにひとつ表象することができないということは、それ自体十全たる内容認識なのだ。

ここまでの間、「内容」という語が頻出しており、この語 Inhalt の意味は少々とりにくい。Inhalt(内に含まれているもの)の対義語は一般に Form(形式)である。「内容認識 inhaltliche Erkenntnis」は、形式的ではない認識、実質的な、内実のある認識ということであろうし、「精神的内容」という語における Inhaltも同様の意味―内実、実質という意味で理解できる。しかし論が進むにつれて、この内実 Inhalt は、かたち Form と原理的に分かちがたいものとして示されてゆくようであり、それにつれて、「精神的内容」というタームの中の「内容」という語は、テクスト中で次第に「本質」という語に置き換えられてゆく。「本質 Wesen」という語については後に述べる。

「表象」とある語は、原文では vorstellen であり、「前方に設置する」の意であって、「思いうかべる」くらいに理解するのがわかり方がよい(英語で言えば represent よりもむしろ present に近いが、なんなら「思いうかべたり再現したり再生したり記述したりする」こと、と考えてもよいし、よりいっそう映像なるものに寄り添って訳すならば、映し出す、などと訳すことも可能である)。すると、「みずからの精神的本質を表現において伝達しないようなものを、われわれはなにひとつ思いうかべることができない」となる。私が一個のランプを思いうかべるとする。「ランプ」という単語など伴わずとも、端的にそのものの姿が思いうかぶとする。そのときに思いうかんだ姿、それがひとつの「表現」であるとするなら、その「表現」においてすなわちそのものの「精神的本質」すなわち知覚・認識的本質が伝達されていないということはありえないというのだが、このとき更に注意を払うべきは、「表現」というタームである。「表現」という日本語は、今日では一般に、誰それが何それを表現する、という、他動詞、およびその名詞化したもの、として使われる。一個のランプを思い浮かべたときに思いうかんだその姿がそのランプの「表現である」と言うと、あたかも、ランプがみずから意志をもって、何かみずからを理解してもらおうとして自己表現した、かのように思えてしまうかもしれず、一個のランプといえども一個の尊厳ある表現者なのであるというような話であると勘違いされてしまいかねない、それほどに現代では「表現」という語は、芸術ないし「アート」の領域特有の自意識に深く絡んだ語彙と化してしまっている。上の引用によれば生きとし生けるものはすべて「表現者」だということにもなるが、それは、生きとし生けるものはすべてアーティストだという意味では別にない(ちなみに翻訳書が出た1995年時点においては、「表現」という語はいまだ、かくも愚昧かる軽薄な語意をもって跳梁してはいなかった)。この「表現」の原語は Ausdrück であり、動詞 ausdrücken express と同じく他動詞ではあるが、そもそも ausdrücken にせよ express にせよ、語義はもともと out-put という意味以上ではない(しばしば出現する「表出」という語は原語は Äußerung のようであり、これも端的に「外に出すこと」の意である)。むろんもともとこの語が「表現」と訳されることは至当であるが、ここでは、読解に際してアーティスティックな余計なニュアンスがまとわりつくのを極力避けるために、この「表現」を「出力」と置き換えて理解する。また、「表現」という語を以下の本文で用いるときには、それは他動詞「表現する」の名詞形ではなく、自動詞「表現する」すなわち「そこに現れる、出現する、立ち現れる」、すなわち出力 output の結果としてそこに何物かが appear するという意味の自動詞の名詞化としての「表現」としてのみ用いる。

さて「表現」という語をそのように捉えたときに、例えば、誰かが机を叩くとする、私は目をつぶってその音を聞くとする。何の音だかはわからないかもしれないがともかく音がする、その音が知覚されたときに、知覚されたそのものは、そこで知覚されているものの精神的、すなわち知覚・認識的なある本質の「表現」すなわち出力の結果としての表れであって、その知覚にさいして、その本質の表れが伝達されている、という考えは、確かに決してメタフォリックな考えではないであろう。あるいは私が一個のランプを vorstellen するとき、すなわちそれを思い浮かべたり、思い描いたり、脳裏に映し出したりするときに、思いうかぶものは、すなわちその思いうかんだものの精神的表現、すなわち知覚・認識的な表れであって、その表れ、ないし、その表れを結果とする出力において、その表れが伝達されている―そのように考えるとき、そのような形ではなく行われる伝達というものを思いうかべることは確かに不可能であるだろう。これらのことを簡潔に言い直すならば、すなわち、あるものが何らかのかたちで知覚ないし認識されるとき、そこで知覚ないし認識されるものは、そこで知覚ないし認識されているものの知覚・認識的本質の表現(出力、ないしその結果としての表れ)であり、その知覚・認識的な表現においてその本質が伝達されている―と、このようにまとめるとたいそうトートロジックに見えるが、この一見した同語反復性は、テクストのもう少し後に出てくるフレーズを借りるならば、「命題を明晰さへと導く」ために招来されざるをえない現象であって、同語反復的ではあっても決して同語反復ではないことは、比較的容易に了解できる。

数行とばして次の段落へゆく。

右に用いた述語からすれば、いかなる表現も、それが精神的内容の伝達である限りにおいてすべて言語に数え入れられる、というところまでは正しい。もっとも表現というものは、そのいちばん奥深い本質全体からいって、言語としてのみ理解されねばならない。

そもそも冒頭で「言語とは、精神的内容の伝達をめざす原理」だと定義しているのであるから、「いかなる表現も、それが精神的内容の伝達である限りにおいてすべて言語に数え入れられる」のは当然といえば当然である。では、「精神的内容の伝達」でないような「表現」がありうるのかといえば、それはないのだということのようであり、すなわち、表現というものはおしなべて言語つまり「精神的内容の伝達をめざす原理」である、という。平たく言い直せば、およそ表現が生じるとき、そこでは常に精神的内容の伝達が行われるはずであるということであり、さらに(しつこいようだが)言い換えれば、およそ何らかの出力とその結果としての表れが生じるとき、そこでは常に知覚・認識的なものごとの伝達が行われ、その伝達原理自体がそこに「表現」しているはずだということである、そしてそれは「表現というもの」の「いちばん奥深い本質全体からいって」そうなのだ、という。「表現」の「いちばん奥深い本質全体」とは何なのかに関して述べてあるように見える続く十数行をいったん飛ばして、次の段落を先に読みながら、言語が伝達するものについてもう少し考えておく。

(……)言語は何を伝達するのか? 言語は自身に合致する精神的本質を伝達する。この精神的本質は自己を言語において (in) 伝達するのであって、言語によって (durch) ではない。このことを知ることが肝要なのだ。

in は英語の in と同じで、durch は英語にすればこの場合 by にあたるだろう。言語における伝達は in the language に行われるのであって by the language にではないという。例えば「このランプは明るい」という文があるとすると、この文の形で出力が行われたその結果がこの文であって、この文に「おいて」何事かが伝達されるのであるが、それは、by the language という形においてではない、つまり、「このランプは明るい」という文「によって」何事かが、つまりこのランプが明るいという事実とかそういうものが伝達されるのではない。「このランプは明るい」という文は、このランプが明るいということを伝達するためのツールであるのではない。では何か。in the language、この文「において」、何事かが伝達されるというのは、つまり、この文がこういうかたちをしている、つまり「このランプは明るい」という文である、というそのこと自体、その全的なありかたにおいて、それにみあう全的な何事かが伝達されるということである。全的なありかたとは何か、それに見合う全的な何事かとはなにか。

(……)精神的本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである。

本質、という語は原語は Wesen で、現在はほぼ例外なく「本質」と訳されるが、もともとは geistig が知覚・認識的、非物質的という意味だったころには―「存在」ないし「存在物」という意味の語であった。現在のドイツ語では「存在」はもっぱら Sein という語で表されるが、そうなったのは比較的新しいことであり、今でも、英語の be動詞にあたる動詞 sein の活用には、wesen 由来の形が部分的に残っている。wesen はもともと「在る」という意味の動詞なのである(その名詞形 Wesen が「存在」という意味を担っていたころ、「本質」という意味を担っていたのはあえて挙げるならば Natur という語であって、これは現在ではむろんもっぱら「自然」という意味である)。geistig を知覚・認識的と理解する語彙系列においては、Wesen の語義もそのような文脈を勘案して理解すべきであろうから、本質とは何か、あるいは、本質と存在とはどう違うのかというような難しいことを深々と思惟するよりは、何ものかの Wesen とは、そのものの本質的な「ありかた」のことであり、また○○な Wesen とは、本質的に○○であるような存在物、というあたりの意味で捉えておくのがおそらく適切である。存在といい本質といえども、いずれ同一の wesen という語に帰着しているには違いないのだからである。つまり、「精神的本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである」という文は、「(本質的に)精神的な(である)ものは、それが伝達可能な限りにおいてのみ、(本質的に)言語的な(である)ものと同一なのである」というふうに砕いて考えても構わないのであり、そのほうがむしろわかりやすいだろう。そうすると、さきほどの「表現……のいちばん奥深い本質全体 ganzes und innerstes Wesen」は、「全的な、いちばん奥深い、本質的なありかた」ということになり、当該箇所の文は、「表現というものは、その全的な、いちばん奥深い本質的なありかたからいって、言語としてのみ理解されねばならない」となる。全的なありかた、とはそういうことであって、「このランプは明るい」という文において何事かが伝達される場合には、この文がこういう形をしている、その ganzes und innerstes Wesen において、それに合致する何がしかの ganzes und innerstes Wesen が伝達されるのである。ではそれは何か。「言語は自身に合致する精神的本質を伝達する」という。そして、「精神的本質は、それが伝達可能な限りにおいてのみ、言語的本質と同一なのである」と。そして、

ある精神的本質にあって伝達可能なもの、それが、この精神的本質のもつ言語的本質である。言語は、したがって、事物それぞれの言語的本質を伝達するのだが、しかしその精神的本質については、それが直接に言語的本質の中に含まれている―伝達可能になっている―限りにおいてのみ、言語はその精神的本質を伝達する。

例えば、一個のランプという事物があり、そのランプの言語「において」何かが誰かに伝達されるとしたら、そこで伝達されるものは、このランプという事物のもつある言語的なるものである。言語的なるものとは何かといえば、精神的すなわち知覚・認識的なものにあって伝達可能なものである。このランプが私の目に映るとする、そこで何事かの伝達が行われているとすればそれは、私のその目に映っている姿の形「において」、このランプにおいて知覚・認識の領域にあるものごとのうち伝達可能なものごとが全的に伝達されているのだ……。知覚・認識的なものごとにあって伝達可能なものとは、すなわち言語的なものであるから、私の目に映った、つまり vorstellen されたその姿において伝達されているものはすなわち、そのランプのもつ言語的本質、すなわち、ランプが言語的であるそのありかた、である。

言語は事物の言語的本質を伝達する。だが、言語的本質の最も明晰なる現れは言語そのものである。それゆえ、言語は何を伝達するのか、という問いに対する答えはこうなるどの言語も自己自身を伝達する

このランプというものにおける精神的本質つまり知覚・認識上のものごとのうちで伝達可能なものがあって、それが例えば私がこれを見て何らかのものが目に映るという形において伝達されるのだが、それは、目に映っているその姿「によって」その伝達可能なものがくっきりと伝達される、のではなく、あくまでも、目に映った姿「において」、伝達ということが生じる。誰が伝達するのかというと、テクストのこの時点においては、ランプがというよりはランプの言語が、であり、すなわちランプにあって知覚・認識的な領域にあるものごと、が己れを伝達する、ただし伝達可能な限りの形において、つまり目に映ったその姿のかたちにおいて。そこで伝達されているのは、その姿そのものの形において伝達可能な限りのものであり、それが自己自身を伝達しており、それがすなわちランプの言語である―ならば、ランプではなく何らかの映像が私の目に映るならば、映っているその映像の姿において伝達されているのは、映っているそのままの映像の姿そのものであり、それがその映像の知覚・認識的本質にあって伝達可能なものごとであり、すなわちそれがその映像の言語である、ということである。そういう形において、映像の言語的本質は自己自身を伝達する。

たとえば、いまここにあるこのランプの言語は、ランプを伝達するのではなくて(なぜなら、伝達可能な限りでのランプの精神的本質とは、決してこのランプそれ自体ではないのだから)、言語‐ランプ、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ。つまり言語においては、事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う、ということになる。言語理論の理解は、この命題を、そこに含まれているかに見える同語反復性を完全に払拭してしまうような明晰さにもたらしうるかどうかにかかっている。この命題は同語反復なのではない。というのもそれは、ある精神的本質にあって伝達可能なものとはこの精神的本質の言語を謂う、ということを意味しているからである。一切はこの<……を謂う>(これは<そのまま直接に……である>と言うに等しい)に基づいている。―先ほどこの段落に移ったところで言ったように、ある精神的本質にあって伝達可能なものが、最も明晰にこの精神的本質の言語のうちに現れるのではなく、その伝達可能なものがそのまま直接に言語そのものなのである。言い換えるなら、ある精神的本質にあって伝達可能なものが、そのまま直接に、この精神的本質の言語にほかならない。ある精神的本質にあって (an) 伝達可能なものにおいて (in)、この精神的本質は自己を伝達する。すなわち、どの言語も自己自身を伝達する。あるいは、より正確にいえば、どの言語も自己自身において自己を伝達するのであり、言語はすべて、最も純粋な意味で伝達の<媒質> (Medium) なのだ。能動にして受動であるもの (das Mediale)、これこそがあらゆる精神的伝達の直接性をなし、言語理論の根本問題をなすものである。

この<……を謂う>は、一見したところ、原語は<heißt>(「~という名である、~のことを指す」を意味する動詞)であるかと思われる。しかし私が参照している版の原文では<ist>(「~である」)となっており、ちくま文庫版の底本が同じものであれば当然やはり<ist>のはずである。また、これも専門家の教えを乞うたところによれば、現行のすべての版において当該箇所は<ist>になっているそうであった。が思うに、訳者がこれを、他にもあまた頻出する ist とは区別し、この箇所を初めとする若干の箇所のみ、あたかも原文が ist ではなく heißt であるがごとくに<謂う>と訳したのには、何らかの根拠があったはずである。いささか脇道にそれるが、昔―私がドイツ文学科の学部生ないし修士課程学生だったころに、当該箇所が ist heißt かという議論を、おそらく授業中に耳にしたことがあり、そのさい、当該箇所が heißt になっているヴァージョンを、正規の版でないにせよ何か、断片的な手稿あるいは何らかのものの写しの形で、示されたことがあったような記憶があるのである。全くの記憶違いかもしれない、そうでないかもしれない。ひょっとしたらちくま学芸文庫に底本が記載されていないことと何か関わりがあるのかもしれないと勘繰ったりするのだが、わからない。原文が ist であるとすればここの趣旨は、「〇〇が△△である」とは「〇〇は直接にそのまま△△である」ということ「である」。訳文によれば、「〇〇は△△を謂う」とは「〇〇が直接に△△である」ということを「謂う」。前者の読解の道は、「である」ist、すなわち sein 動詞というものとそれが統べる存在論の領域へとつながってゆき、後者の読解の道は、「~という名である」heißt、すなわち「名づける」動詞が統べる命名論の領域へとつながっている。どちらの読解をとるべきかは、ここで決定すべきことではないだろうが、げんに今読んでいる<ベンヤミン>の短い論考は、すぐ後のところで、人間の言語の「名づけ」の特質に言及するに至るので、ここでは、ちくま学芸文庫版の訳者にならって、当該箇所があたかも ist でなく heißt であるかのごとくに読解を進めることとする。いずれにせよ訳文によれば、heißt「謂う」とは「そのまま直接に」ist「である」「の謂である」のだから、当該箇所が heißt であるかのごとく読んだとしても、それは同じ個所が ist になっているものを読むのと同じことである。

さて、「直接に」は原語は unmittelbar であり、Mittel すなわち媒介手段なしに、という意味であるが、「言語はすべて、最も純粋な意味で伝達の Medium」であり、このことが「あらゆる精神的伝達の直接性をな」すと言われるとき、それはすなわち、言語の伝達においては自己自身以外の媒介手段が必要とされないということを意味するだろう。通常、言語「によって」、すなわち言語を媒介手段 Mittel として何事かの伝達が行われるとされるのだが、ここでいう広い意味での―「全的な、最も奥深い本質」からいうところの―言語「において」の伝達に際しては、伝達するものは「直接に」そのまま伝達されるものであり、それはまた「直接に」伝達のMittelそのものでもある、すなわち、伝達するものとされるもの以外の Mittel は存在しない。そういう性質が、「純粋な意味での Medium」の特性を構成するのだという。Das Mediale とは古代ギリシャ語などにおける「中動態」を指すのであろうが、これは、ドイツ語やフランス語などにある動詞の再帰用法にいくらか近い態であって、動詞が指し示す行為あるいは運動がその行為主体へ無媒介的に回帰する、確かに「能動にして受動で」もあるような態であるには違いない。

そして、この直接性を魔術的と呼んでみるならば、言語の魔術こそが言語の根源的問題であることになる。同時に、言語の魔術という言葉はいまひとつ別のものを、すなわち言語の無限性を指し示している。この無限性には直接性が前提条件となっている。なぜなら、なにものも言語によって自己を伝達しはしないからこそ、言語において自己を伝達するものは、外側から限定されたり量り比べられたりすることはできず、それゆえどの言語にも、同一尺度では量れない唯一無比の無限性が内在しているからである。言語の限界を表示するのは、言語の言語的本質なのであって、その言語の語義的内容ではない。

「魔術」に関してはここでは措き、ただ、実物大の夕日のことを想起しておくにとどめる。私が夕日を見るとき、その夕日が私の目に映った像「において」伝達可能な限りのその夕日の言語的本質が自らを伝達するが、このとき、この像「によって」夕日が自己を伝達しているのではなく、ここで自己を伝達しているものは夕日の言語的本質そのものであるから、それを夕日の「外側」と量り比べることはできないのである。夕日の言語的本質―この場合、目に映っている限りの夕日の像―は、それ自身以外の何物と量り比べることもできず、「外側」からの尺度では量れない唯一無比の無限性を内包している。

事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う。この命題を人間に適用して言いかえれば、人間の言語的本質とは人間の言語を謂う、となる。すなわち、人間は自身の精神的本質を人間の言語において伝達する。

人間の言語的本質とは人間の言語を謂う(筆者の参照版ではここでもistである)、とは、ここではまだ、事物の言語的本質とは事物の言語を謂う、あるいは映像の言語的本質とは映像の言語を謂う、というのと同じことであり、この「言語」は、きわめて広い意味での―「全的な、最も奥深い存在から」いうところの言語一般を指している。ここでの「人間の言語」は、例えば私がある人を見て目に映ったその人の姿においてその人の言語的本質が伝達される、そこで自己自身を伝達しているその人の言語的本質がその人の言語である、という意味での「言語」であり、目に映った夕日の像がその夕日の言語的本質である、と言うことが可能な意味での「言語」である。

人間の言語は、しかし、言葉となって語る。

ここで、「人間の言語」というタームと「言葉 Wort」というタームが改めて使い分けられる。この「言葉」という語のほうが、いわゆる「自然言語」を指しているだろう(通常、英語とか、日本語とかそういう人間が日常使うコトバのことは Wort ではなく複数形で Worte といい、Wort という単数形は「単語」をしか意味しないが、ここであえて Worte ではなく Wort という形が選択されているのは、後に述べるような、神= Logos = 言葉 (Wort) という図式が意識されているからであろう)、つまり、人間の言語的本質が自己自身において自己自身を伝達するとき、その伝達が言葉という形、自然言語の形をとる―ことがある―と。人間の言語的本質は、ランプのそれとは異なり、自然言語という形での「言葉」「において」自己自身を出力する―ことがあるというのだが、この短い<ベンヤミン>のテクストにおいて最も読解が難しいと思われる部分のひとつはここである、つまり、彼―<ベンヤミン>が、人間の言語は常に「言葉」となって語ると考えているのか、「言葉」となって語る「ことがある」と考えているのか、判然としないのである。これまでの文脈からすれば、「ことがある」というのでなくてはおかしい、人間といえども、生きとし生ける万物に含まれるという意味では他に異ならず一種の事物であり、現象だからである。ただ、ことは「人間」の定義に関わる。「人間の言語は、しかし、言葉となって語る」というのが、「人間の言語は、常に、言葉となって語る」という意味であれば、ここでいう「人間」とは、「その言語が常に言葉となって語るところの何者か」を「謂う」ことになる。言い直せば、その言語が常に言葉となって語るところの者を人間と呼ぶ、ということである。これはつまり、人間はむろんこれまでの文脈でいえば言葉となって語らない言語的本質をも併せ持つが、そうした本質を持つ局面を度外視して「人間」を定義するということであって、いわば、そうした特性を持つ「人間 Mensch」と生物種としてのホモ・サピエンスを峻別し、前者だけを考察の対象とするということに他ならない。ひとまず続きを読む。

したがって、人間はほかのあらゆる事物を名付けることによって、自身の精神的本質を(それが伝達可能である限りにおいて)伝達するのである。

ここで「名づける」と言っているのは、名詞に限った話ではなく、私があるランプを「明るい」と言い、「明るい」という言葉でそのランプの持っているある種の Wesen、本質、ありかたを呼ぶ、あるいは「風が吹いている」とか「お天気がいい」とか、ありとあらゆる言明を人間は自然言語をもって行う、そのように動詞であれ名詞であれ形容詞であれ、物事のいろいろな様態を概念化して言葉をあてはめるということを不断に行う、そのことによって自然言語というものは構成されているわけだが、そのようなことをひっくるめて名づけと呼ぶのだと理解しておく。そういうことをするのは人間の言語だけではなくひょっとしたらイルカや象も名づけているかもしれないということはここでは考えない。もしイルカや象も名づけているのであれば、彼らもまた「人間の言語」の類を持っていて、それらもまた「常に」「言葉になって語る」のだとすれば、彼らもまた「人間」なのだと考えればよいだけの話である。そして「人間の言語」は、他の言語一般とは違う特質をもっている。その特質とは、名前をつける―文節し命名する点であると。

だがわれわれは、事物を名づける言語をまだほかに知っているだろうか? 人間の言語以外に我々はいかなる言語も知らない、などと異議を唱えることなかれ。この異議は誤っている。われわれはただ、命名する言語を人間の言語以外には知らないだけなのだ。命名する言語を言語一般と同一視すると、それによって言語理論は、最も深遠なる洞察を奪われてしまうことになる。つまり人間の言語的本質とは人間が事物を名づけることを謂う

「人間の言語的本質とは、人間が事物を名づけることを謂う」―すなわち、「人間の言語的本質とは、そのまま直接に、人間が事物を名づけることである」。であれば、人間の言語的本質とは、「常に、全的に」、人間が事物を名づけることとイコールであるのだ。上記の、生物種としてのヒトから峻別された「人間」の定義が採用されていると考えざるをえない。

何のために名づけるのか? 人間は誰に自己を伝達するのか?―だがこの問いは、人間に向けられた場合、ほかの伝達(言語)に向けられた場合とは異なる問いになるのではなかろうか? ランプは誰に自己を伝達するのか? 山々は? 狐は?―こうした事物に向けられる問いに対しては、答えは、人間に伝達する、となる。これは決して擬人観アントロポモルフィスムスに立って言うのではない。この答えの真実性は哲学的認識において証明されるし、またおそらく芸術においても証明されるだろう。

ここで注目すべきことは、人間が事物を名づけるという形で自然言語を出力するにあたって、そこで生じる伝達はまず以て事物から人間へ向けてのものだということである。私が狐を見て「あ、狐」と言ったとき、そこではまず以て狐が私に「狐」という言葉に全的に合致する自らの言語的本質を伝達してくれているのであり、狐がそこにいるということを私が連れの友人に伝達するというような意味での伝達は、「最も深遠な洞察」とも、言語の「最も奥深い本質」とも何ら関係のない、派生的に生じる現象にすぎないし、狐が「伝達してくれている」などと言っても、それは狐と私との間に何か童話的な交流が成立しているという意味でもない。

しかも、もしランプ、山々、狐が人間に自己を伝達しないのだとすれば、どのようにして人間はそれらのものを名づけられよう?

この箇所が言わんとするところは―ランプ、山々、狐が人間に、彼ら自身の伝達可能な精神的本質を、人間の言語ではない言語で出力することにおいて人間に伝達する、という話ではおそらくない。なぜなら、ランプがその明るさにおいて、狐がその姿において表現可能な限りの精神的本質を伝達するということであれば、相手は人間でなくとも、ランプや狐でも同じことだろうからである。「ランプが蛾に自己を伝達しないのだとすれば、どのようにして蛾はランプに慕い寄ることができよう?」―しかしそこに疑問も生じる。夜にランプが蛾に伝達するのは、精神的本質ではなく、körperlichな、マテリアルな本質ではないのか。あるいは兎が狐に伝達するのは決して精神的本質ではなく、したがって言語的本質でもなく、そのものの伝達はこの論考の考察対象にはなっていないのではないのか。「みずからの精神的内容を伝達することは、すべてのものにとって不可欠」だといっても、それは必ずしも「すべての伝達は、精神的内容の伝達である」ことを意味しない。ランプは誰に自己を伝達するのかという問いに対して一義的に「人間に」という回答が用意されるのであれば、逆に、ここで考察されている事物からの伝達は人間へのそれに、つまり「人間の言語」を持つ者へのそれに限られ、となれば結局は「人間の言語」におけるそれに限られてくるのではあるまいか。「みずからの精神的内容を伝達することは、すべてのものにとって不可欠」だが、結局はその不可欠な精神的内容の伝達は、すべてのものにとって、人間に向かってしか生じないということのようであり、ある事物がその伝達において自らを伝達する相手がそうして「人間」に限られるのであれば、それは「人間の言語」においての伝達に限られた話でなくてはならない。人間が発する人間の言語すなわち自然言語において、事物は人間に自らを伝達する。

以後、「言語」「言語的本質」という語は、「人間の言語」すなわち「自然言語」「自然言語的本質」の意に限定して用いるものとする。その段階に至って初めて、言語ないし言語的本質に、映像ないし映像的本質、を対置させることが可能になる。例えば私の目にうつる狐の像において表現し、伝達される狐の精神的本質のことを、映像的本質、と呼んで、同じ狐が「狐」と呼ばれるときに伝達されるその(自然)言語的本質と区別することが可能になる。

そのような区別をすることは、おそらく<ベンヤミン>の読解のためにはとりあえず意味がない、あるいは、当座不適切である。 geistig という語を「知覚・認識的」という意味へ拡張して理解することの恣意性がここで改めて明らかになる。誰かの目に映る事物の像において伝達される精神的本質―映像的本質―というものが<ベンヤミン>の考慮のうちにあるならば、事物はやはり人間だけでなく視覚を持ったあらゆる生きものがそれらを見ることにおいて、自己を伝達するだろうからである。もっとも、狐やチーターやコウイカがどのようにしてものを「見て」いるのかについて、私は何事も知りようがないし、私が見る見かたから若干の類推を働かせたとしても、その類推が正しいと考えてよい根拠はない。だから結局は、映像的本質に関しても、人間への伝達に限って考察する他はなく、その限りにおいてはむろん、事物の映像的本質が自己自身を誰か伝達するとき、その伝達は人間に向かって行われる。しかし<ベンヤミン>自身は、おそらくこうした映像的本質の伝達のことを(それほど)考えてはいないし、 geistig という語に視聴覚認識的という意味をことさら含めてもいない。それどころか、「命名する言語を言語一般と同一視すると、それによって言語理論は、最も深遠なる洞察を奪われてしまうことになる」と言い、自然言語における伝達に関する図式を、自然言語以外の伝達に当てはめて考えることに対して警告を発しているではないか。それにもかかわらず、「言語」を「映像」に置き換えて映像的伝達について考えることを可能にするために geistig の意味を恣意的に拡張するとすれば、映像的伝達をもまた「命名する言語」として考えるべく注意を払わねばならないだろう。そのことは後に考察するが、映像を見るという営為がかつてなく人間の「精神的生活」に深く根を下ろしている現代において、自然言語に準ずる「人間」特有の伝達営為としてこれを考えることには、おそらくそれなりに意味がある。

「ランプが明るい」「あそこに狐がいる」「きれいな夕日だ」……何でもよいが、あるものを私が語るとき、私が語るその言語のかたちにおいてそのものは自らの言語的本質を私に伝達する―あるものを私が語るとき、そのものは私が語るその言葉の形において表現可能な限りの自らの精神的本質、すなわち言語的本質を私に伝達する。それは、そのときそのものの言語的本質が自己自身をその言語において私に伝達する、というのと同じことである。このテーゼの中の「言語」という語をそのまま「映像」に置き換えてみるとこうなる―「あるものを私が見るとき、私が見るその映像のかたちにおいて、そのものはみずからの映像的本質を私に伝達する」、そしてこのことは、「そのときそのものの映像的本質が自己自身をその映像において私に伝達する」というのと同じことである。映像的本質とは、映像的なるもの Wesen のことである。そして、この世で最も映像的なるものとは、すなわち映像である。ある映像の映像的本質、映像における映像的なるものとは、それが映像であるということであり、その映像自体のこと以外ではない。したがって、ある映像を私が見るとき私が見るそのかたちにおいてその映像はみずからの映像的本質を私に伝達する、というのは、私が映像を見るとき私が見るそのかたちにおいてその映像は自己自身を私に伝達する、というのとまったく同じことである。

たいへん当たり前の話になった。私が映像を見るときその映像はみずからを私に伝達する―私が映像を見るとき、そのような当たり前のことが起こる。では、私が映像について何か語るときにはどうか。いまのテーゼをそのままあてはめてみると、こうなる―私が映像を語るとき、私が語るそのかたちにおいて、その映像はみずからの言語的本質を私に伝達する。例えば私がこの映像を「美しい」と語るとき、私が語るその「美しい」という言語のかたちにおいて、この映像は、「美しい」という言語のかたちにおいて表現可能な限りのみずからの言語的本質を私に伝達する。この際には、私が出力するのが言語であるから、そのかたちにおいて、映像のほうも言語的なるものを伝達してよこす。そのときそこでは、映像の精神的本質すなわち映像的本質にあって、その(自然)言語において伝達可能な限りのもの、すなわち言語的本質が、自らを私に伝達しているのである。あるものが何をどのくらい、どのようなかたちにおいて伝達してよこすかは、ひとえに、私の出力の形態による。私が、語るのではなく「見る」だけのときには、私は言語を出力しない、したがって映像も、言語的なるものを伝達してよこしはしない。では、「見る」ときには、私は何を出力するのか? 人間は、見るという行為において出力したりは通常しない。目がぴかーりと光ってそこらの壁に映像を投影したりすることはない。ものが目にうつる、網膜にものの像が映るというのが、スキャナーがものをスキャンすることや、カメラがネガに像を焼き付けることと同じレベルのものごとであるなら、それは入力である。入力されておおよそ0.5秒後に脳に格納されるが、格納されるだけで出力されないならば、それは、スキャンデータがメモリに格納されただけでディスプレイに出力はされない状態と同じである。ディスプレイに映像が出力されたのと同じ状態は、人間においてはどのように出現するのであろうか。見たものを想起している状態、あるいは、それを見ていると意識している状態、それを、出力している状態として考えてみるとしても、それを具体的にどのような状態として規定すればよいのかは難しい問題である。見ていると意識している状態とはどういう状態なのか。例えば、私が一個のランプを見ているとする。ランプを見ているつもりで、「今私はランプを見ている」などと言ったりするが、実のところそのとき私の目、網膜には、ランプ以外のものもたくさん映っているはずである。ランプが置かれているデスクの天板、そこに置かれているランプの隣のコーヒーカップ、その向こうの書棚、その他その他、もし私が私の目のかわりにカメラのレンズを装着していて、シャッターを切ったならば、そうした数多のがらくたや、がらくたでないものが、まんべんなく撮影されることだろう。しかしそのことは意識せずに、あくまでも自分はランプを見ていると思っている。そうして仮に「ランプしか目に入っていない」と言われるような状態であっても、実のところ網膜にはいろいろなものが映っているだろう。人間がものを見るときには、常に、網膜に映っているもの全てを意識するわけではない。意識しなくとも目の端には色々なものが映っている。そのうち、いってみればほとんどのものは、全く意識されることなく脳のなかに格納される。そして眠っている間に夢の作業か何かでもって、不要な情報が速やかに選別されて廃棄されたりするわけなのだ。ちなみに、眠って夢を見ている時にも、脳の視覚野の活動が観察されるらしい。覚醒した状態でものを見ているときと同じ部位のシナプスが活動しているそうで、してみると夢というものはやはり「見る」ものであるらしい。現に夢を見ている最中の意識状態がどうなっているのかなど、およそ見当もつかないが、ともかくも目覚めて「夢を見た……」と思うとき、「見た」ものとして想起されるその映像はかつて網膜に映ったことは一度もないであろうし、そのままの形で脳に静かに格納されていたこともないであろう。網膜に映っているものと、脳に格納されるものと、私が「見た」と思うものとは、それぞれかなり相当に違うものであって、それはちょうど、あるピクセル数でとりこんだ画像が、その通りにデータ化されて格納されても、ディスプレイに出力されるときには全く違う大きさや鮮明度や色合いになったりするのと似ている。網膜に映ったものがどのようなかたちで格納され、意識にのぼるかは、脳のスペックにもよるだろうし、さまざまな要因によっても変わってくる。いずれにしても―私が映像を見るとき、私が見るそのかたちにおいて、その映像はみずからを私に伝達する、という、この場合の「見る」は、網膜に映っているという意味ではないだろうし、脳に格納されているという意味でもないだろうし、あくまでも、何らかの形で出力・再出力、再生が行われている状態のことだと考えなくてはならない。私の出力において伝達が生じるのだから、私が出力しなければ、伝達は生じない。この「見る」は、入力の「見る」ではなくて、出力の「見る」でなくてはならない。ただしこの出力は、「私は○○を見ている」というふうに言語化することではない。それは言語出力であって、「見る」出力ではない。「○○を見ている」というふうに言語化はされないけれども、単に網膜に映っているだけではすでにない、非常に中途半端な段階の状態のことを、ここでは「見る」出力として、人間が行う映像出力として捉える。その状態を具体的に想定するのは極めて困難であるが、そのような状態がおそらく、データが脳に格納されてやがてそれが意識へ出力されてから、ほぼただちに何らかの言語化が始まるまでのほんのわずかの間、必ず現出するに違いないという想定、もしくは、何らかの言語化が行われていてもそれと同時に全く言語化されていない映像出力も何らかの形で行われているに違いないという想定を行うことは可能である。そして、そういう想定を行わない限り、このテクストにおいて言われるところの、映像が「自己自身において自己を伝達する」「最も純粋な意味での伝達」の「能動にして受動である」「Medium」であるような、映像から人間への伝達は決して生じない。「どの映像も自己自身を伝達する。あるいは、より正確にいえば、どの映像も自己自身において自己を伝達するのであり、映像はすべて、最も純粋な意味で伝達の Medium なのだ。能動にして受動であるもの (das Mediale)、これこそが伝達の直接性をなし(……)」。あるいは、「ランプの映像は、ランプを伝達するのではなくて(……)映像‐ランプ、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ」。

私が、「このランプは明るい」と発語するとすれば、このランプは、「明るい」あるいは「このランプは明るい」という言語において表現可能な限りのみずからの言語的本質を私に伝達する。とすると、もし他の誰かが、この同じランプを「暗い」と発語すれば、そのときこのランプは、「暗い」という言語において表現可能な限りのみずからの言語的本質をその人に伝達することになる。誰かがこのランプに対して何らかの言語を出力すれば、そのかたちに応じて、そのかたちに合致する言語的本質を、ランプはそのまま伝達してよこす。このとき注意が必要なのは、私が言語を出力するからそれに反応してランプが同じものを返してよこす、のではないということである。また逆に、ランプがそのものを伝達してよこすからそれに合致した言語「によって」私が応答を返す、のでもないということである。時間的経緯の話ではないし、等価交換の話でもない。出力があってレスポンスが返るという順番でものごとが起こるのでもないし、同一のものの交換が行われることでコミュニケーションが成立するのでもない。あくまでも、言語が発せられたとき、言語が発せられるというその行為において、向こうからの伝達も生じるのである。映像の場合もそうである。誰かがこのランプを「見る」出力を行うならば、その人がこのランプを「見て」いるそのかたちにおいて、ランプは自らの映像的本質をその人に伝達するが、これも、「見る」その行為「において」まさに伝達が生じるのであって、見たからレスポンスが返るのでもなければ、伝達してくれたからそれを見るという順でものごとが起こるのでもない。いわば、「見る」こと自体が、ランプによって伝達されている状態なのである。したがって、このランプが明るく見える人に対しては、そのような形の Wesen を、またこのランプが暗く見える人に対してはそのような Wesen を、ランプはそれぞれの人の出力において伝達してよこしているわけだが、ここでまた注意すべき重要なポイントがある。

ランプには、実体がある。いかようにその精神的本質が自ら表現しようとも、ランプそのものは事物であって、körperlich な物体であるから、それを見る人によって様々に異なる千差万別の像が伝達されたとしても、このランプはこのランプであって、いわゆる、「同じひとつのものが人によっていろいろに見える」というだけの話である。みずからの映像的本質というものは、ランプにとってはおそらく、それほど重要なものではない。ランプは映像的本質以外の本質をもたくさん持っているから―重さとか、手ざわりとか、熱、あるいは光源としての実際的な機能、その他もろもろの物質的本質のほうが、ランプにとってはより本質的であるだろう。いやそうではない、という考えかたもむろんある、人間が知覚の束であり世界は人間の知覚の束であるといったような―しかしそういう経験論的な考え方はとらず、ランプはそれ自体としての物体として存在するという考えかたのほうをとることも、ランプにおいては今なお可能である。しかしながら映像は、そうはいかない。ある人にとってある映像が何か青いようなものに見えたとき、そこでは何か青いような映像的本質が伝達され、また別の人にとってある映像が何か赤いようなものに見えたときそこでは何か赤いような映像的本質が伝達され、そのように千差万別の映像的本質が人それぞれに伝達されるとき、つまり千差万別の映像が「表現」するとき、それもまた、「同じひとつの映像が人によっていろいろに見える」話であるかのようである。しかしながら映像は映像的本質だけでできており、映像に実体はない。ランプが実体をもって存在しているようには、映像は実体をもって存在してはいない。ランプも人によっていろいろな見え方をするけれども、秤にのせて計れば一定の質量を持っているし、ものさしで計れば一定の大きさがある。しかし映像は、秤で計れるような質量を持ってはいないし、ものさしで計るような一定の大きさを持ってもいない。それぞれの映像の「表現」には、「同一尺度では量れない唯一無比の無限性が内在している」のであって、例えばスクリーンに何かが映っているその大きさをものさしで測ることはできても、それはたまたまの大きさにすぎす、固定的なものではない。ランプがここにこうしてあるように映像がどこかにあって、それが人によって色々に見えるということではないのである。映像は、どこか一定の場所にあるのではない。スクリーンがここにあって、そのスクリーンの上に何かが映っていたとしても、そこにあるのはスクリーンであって、映像は、そこにあるのではない。私が「見る」出力を行うとき、その出力のかたちにおいて、映像的本質がみずから表現する、その表現において映像はある。そして映像とは映像的本質以外の何物でもないのであってみれば、私が「見る」出力を行うそのかたちにおいてしか、映像は存在しない。私の出力においてしか存在しない、スクリーンには存在しない。スクリーン上に存在しているものがあるとすれば、それは言ってみれば光の粒子であり、ドットの集合にすぎない。それは映像ではない、あるいは、いまだ映像ではない。

さて、

ところが、人間はそれらを名づける。それらのものを命名することによって、人間は自己を伝達するのである。では、人間は誰に自己を伝達するのか?

これはむろん自然言語の話なのであるが、人間の言語出力が命名という形をとり、その命名において人間は自己を伝達するのであれば、人間の「見る」出力に際して「言語」を「映像」と置換可能であるような同様に全的な伝達が生じうると考えるためには同じくこの命名に相応する何らかの行為が想定されねばならない。それもまたなかなかに想定困難なことである。なぜなら繰り返すが、ある映像を見て、「美しい」と、あるいは「これは〇〇の夕日のドキュメンタリーだ」というふうに「命名」したとしたらそれは発語であって、言語出力だからである。言語出力ではない、純然と「見る」出力における、命名に相応する行為とは何か、それは、「見る」出力とは具体的にいかなる行為であるかが想定困難であるのと相具して同程度に想定困難であり、きわめて抽象的に、そのような行為が存在することを想定することのみが可能である。その上で、その行為において、「人間は誰に自己を伝達するのか?」と問う。

この問いに答える前に、もう一度、人間はどのように自己を伝達するかを吟味しておく必要がある。深い意味をになう区別がなされねばならない。つまり、言語についての本質的に誤った見解がその誤謬性を確実に露呈させずにはいない、そのような二者択一の問いを立てねばならない。人間がその精神的本質を伝達するのは、人間が事物に与える名によってなのか、それとも、そうした名においてなのか? この問い質しに含まれる背理性のなかに、この問いに対する答えはある。人間は名によってみずからの精神的本質を伝達すると信ずる者は、他方また、人間が伝達するのは自身の精神的本質であるということを受け入れることができない。―なぜなら、人間がみずからの精神的本質を伝達するのは、事物の名によって、とはつまり、人間が事物を言い表す際のその言葉によって、行われるのではないからだ。このとき彼が受け入れることのできるのは、彼がある事柄を他の人間に伝達する、という見解だけである。というのもこの場合の伝達は、私がある事物を言い表す際のその言葉によって行われるのだから。こうした見解こそが市民ブルジョワ的言語観にほかならず、その根拠のなさ、内容の空虚さは、以下においてしだいに明らかに示されるだろう。この市民ブルジョワ的言語観の言わんとするところは、伝達の手段が言葉であり、伝達の対象は事柄であり、伝達の受け手は人間である、ということである。これに対して、もう一方の言語観はいかなる伝達手段も、いかなる伝達対象も、そして伝達の受け手となるいかなる人間も知らない。この言語観が言わんとするところはこうだ。名において人間の精神的本質は自己を神に伝達する

ここでいう「言語についての本質的に誤った見解/ブルジョワ的言語観」は、そのまま「映像についての本質的に誤った見解/ブルジョワ的映像観」と置き換えて考えるならばたいへん教訓的である。また、「事物」「事柄」を「映像」と置き換えてみても同じく教訓的である。「人間がみずからの精神的本質を伝達するのは、映像の名によって、とはつまり、人間が映像を言い表す際のその言葉によって、行われるのではないからだ。このとき彼が受け入れることができるのは、彼がある事柄を他の人間に伝達する、という見解だけである。というのもこの場合の伝達は、私がある映像を言い表すその言葉によって行われるのだから。こうした見解こそが市民的映像観にほかならず(……)この市民的映像観の言わんとするところは、伝達の手段が映像であり(それを言い表す言葉であり)、伝達の対象は事柄であり、伝達の受け手は人間である、ということである」。要は、伝達は言語ないし映像「において」行われるのであって、言語ないし映像「によって」ではないということが再びここで繰り返されているのだ。この箇所で重要なのはこうした言葉の置換遊びではなく、最後の一文である―名において人間の精神的本質は自己を神に伝達する。

名において、というのは、上述の映像の文脈では、「見る」出力において、となる。それが具体的にどういうことなのかは、わからない。わからないが、そのような出力が行われるならば、その出力において、見ている映像のかたちにおいて、人間の精神的本質―映像的本質―は自己を神に伝達するだろう。一方また、映像を見て、「美しい」あるいは「これは〇〇の夕日のドキュメンタリーだ」等と発語するならば、それらの命名=発語において、人間の精神的本質―言語的本質―は自己を神に伝達するだろう。

「人間の精神的本質は自己を神に伝達する」という一文で、<ベンヤミン>のこの短い論考は終わる。言い換えれば、神という語が出たところで、<ベンヤミン>から、さらにはヴァルター・ベンヤミンからここでは離れることにする。神についてより深く考え、神という語をこれ以上使ってさらに考察を推し進めることは、ここにふさわしくはないと考えるからである。しかし実のところ、この短い論考において神という語が登場するのは、ここが初めてではない。冒頭近く、上で飛ばした部分にまずこうある

言語となんの関係ももたない存在とは、ひとつの理念ではありうる。だがこの理念は、神という理念の圏域をも表示する諸理念の範囲においてさえも、実りあるものとはなりえないのである。

「神という理念の圏域をも表示する諸理念の範囲においてさえも」とは、神という理念が認められる範囲において最大限に抽象的・形而上的に拡張した諸理念の範囲においてさえも、というにまずは等しいが、「言語となんの関係ももたない存在」という理念がこの範囲において無効なのは、神というもの自身がそもそも純粋な知性認識であり、ロゴス logos 自体だからである。ロゴスとは、理、ことわり、摂理の謂であるが、一方では「言葉」の謂でもある。であれば、言語となんの関係ももたない存在という理念を有効にしたいならばむしろ、神という理念の圏域からはずれてある文脈の中にそれを求めるべきであろうし、神の圏域「においてさえも」それが無効だと言うよりはむしろ、その圏域「にある限りは」無効だと言うほうがよほど適切なのではなかろうかと思わないこともない。ヴァルター・ベンヤミンは何といってもこの神の圏域に自らを置く人であった。

(……)ある事物の精神的本質はまさにその事物の言語のうちに存しているという見解―仮説として理解されるこの見解は、すべての言語理論がいまにも陥らんとする大きな深淵をなしている。そしてこの深淵のうえに、まさにこの深淵のうえにこそ漂いつつみずからを保ち続けること、それが言語理論の使命なのだ。精神的本質と、その伝達をになう言語的本質との区別は、言語理論上の研究における最も根源的な区別であって、この区別はきわめて疑問の余地なきものとみえるので、しばしば主張されてきた精神的本質と言語的本質の同一性の方が、むしろ、ロゴスという言葉のもつ二重の意味〔事物の本質(理)と、その本質を表す説明方式(言葉)=訳注〕に見いだされてきたような、深遠で不可解な矛盾背理パラドクシーをなしている。それにもかかわらずこの背理は、解き明かしの答えとして、言語理論の中心にその位置を占めており、しかし背理であることをやめず、それが論の冒頭に置かれた場合には解き明かしえぬものであり続ける。

言語理論の深淵についてここで検討することはせずにおく。ただ、<ベンヤミン>が神と呼ぶところのものを、「ロゴスという言葉のもつ二重の意味に見いだされてきたような、深遠で不可解な矛盾背理」それ自体であると考え、これを「ロゴス」という名で呼ぶことにする。ロゴスのもつ二重の意味が「事物の本質(理)」と「その本質を表す説明方式(言葉)」という言葉で十全に説明されうるものであるなら、その限りにおいては、そこに「深遠で不可解な矛盾背理」があるわけではないが、この二つが同じひとつの Wesen のものであると考えることで、ニワトリタマゴに似た背理が生じ、これが「言語理論の中心にその位置を占め」るようになる。つまり<ベンヤミン>はこの論考において、「事物の本質(理)」としてのロゴスの精神的本質は、「その本質を表す説明方式(言葉)」としてのロゴス「によって」ではなく「において」伝達可能な限りにおいて自己自身を伝達するが、「その本質を表す説明方式(言葉)」において伝達可能な限りの精神的本質とはすなわち言語的本質であって、ロゴスのこの言語的本質がそこで伝達する自己自身がそのまま直接かつ全的にロゴスの言語、すなわちロゴス‐言語、ロゴスとしての言語に他ならない、ということを述べているのである。そしてロゴスとは言葉であって、純然と言語的本質であるから、ロゴスとしての言語とは、すなわちロゴス自身のことである。

さて、そのようなものであるロゴスに向かって、人間は命名という出力において自己自身の言語的本質を伝達する。では、映像を「見る」出力においてもまた、人間は自己自身の映像的本質を同じロゴスに向かって伝達すると考えてよいだろうか。上の二重の意味、不可解な背理を考えずに、単にロゴスとは森羅万象を統べるところのある絶対的な理、摂理のことであると考えるならば、映像もその権能の圏域に入るであろうし、論考前半に見たような、「あらゆる精神的表現は言語とみなしうる」という立場からすれば、映像の映像的本質もまた言語なのであるから、映像的本質の伝達の受け手がロゴスであっても問題はないと考えられもする。しかしせっかくこうして「言語」という語を自然言語の意味に限定して、言語と映像を分けて考えてきたのであるから、受け手に関しても一旦は分けて考えるべきものだろう。言語化されるまでのほんのわずかな間に成立するかもしれない人間の映像出力において伝達されるべき映像的本質の受け手がいかなる者であるかは、再度、「見る」という出力あるいはそこにおける「命名」に相応する行為とともに想定困難ではあるが、そういうものがあると想定することは可能であるので、これを想定し、ロゴスと同じくギリシャ語由来の否定辞 u- logos につけて u-logos、ウ・ロゴスという名でこれを呼ぶことにする。この命名行為およびこの名において、私はこの命名において伝達可能な限りの私の精神的本質を、ロゴスへ伝達する。

(一橋大学社会学研究科2014年度紀要『一橋社会科学』第七巻別冊
(特集:「脱/文脈化」を思考する)所収)

*東京大学文学部ドイツ文学科在籍当時、学生だった私はこの論考の訳者・浅井健次郎氏の授業を履修し、単位を頂いたものの、すでに失念した何らかの事情により最終レポートを提出し損ねたままになってしまったことがあったと記憶している。いわば氏に二単位を借りたまま三十年近くを経て現在に至っているので、この考察を、当時のレポートに替えるとともに、恩師のひとりである浅井先生に謹んで捧げる。

2014.05.12 / 最終更新;2015.04.06

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