Litterae Universales / humanismus

測れよ、さらば与えられん(1)
Quantification to Visualisation―A・W・クロスビー『数量化革命』に学ぶ

ルネサンスという一大ムーヴメントの根底に「計測」という行為があったことは昔から夙に言われてき、1970年代に私が高校生だったころには、古典古代をモデルとして新たな建築スタイルを獲得するために遺跡のサイズをあちこち測ってみたのに始まる等と教わった記憶がある。それはそれで理解できないこともないが、物差しを当ててものの長さや大きさを測ったり、土地の広さや木の高さ、経費や人口密度を計算したりという現代の我々にとってはごく日常的な営みに当時の人びとがこぞって夢中になった理由が、単に古代ローマ建築を模倣したいというだけのことであったはずもないだろうとは思っていた。そもそも誰もがそうそうローマへものを測りに行けたわけでも、行きたがったわけでもないのである。この間の事情については、A・W・クロスビー『数量化革命』(小沢千重子訳、紀伊国屋書店、2003。原書1997)にたいへん詳しい。このとても面白い本はまず1560年のピーテル・ブリューゲルの銅版画『節制』を例にとって、近代初期の西ヨーロッパにおける「計測」ブームを概観する。「当時大人気を博した」というこの「『節制』の登場人物の多くはなんらかの形で、現実世界の素材を均質な単位ユニットの集合体として、すなわち数量として、視覚的に表現する作業に従事している。ここで用いられている単位は、リーグ、マイル、角度、文字、ギルダー、時間、分、音符である。西ヨーロッパの人々は(少なくともその大部分は)、一つないし二つ以上の特性において均質な量という観点から、世界をとらえ直してみようと思い始めていた」、そしてそのようにして「ルネサンス期の西ヨーロッパ社会は、現実世界のできるだけ多くの要素を同時に視覚的に認知するという方向を選択し」、「事物やエネルギー、行動や知覚を均質な部分に分解して、その数を数えるという道を邁進した」(p.22-23)。そのことが、それまではイスラーム知識人たちから「呑みこみが悪く」「愚かしく粗野」(p.15)等と馬鹿にされていた西ヨーロッパ人を変貌させ、やがて近代文明の覇者たらしめた動因であったということだが、このように「ものごとを数量的に考える兆しが現れたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した1300年前後のことだった」(p.35)という。

西洋文明と数量化の出会いは、少なくとも新石器時代までさかのぼれるにちがいない(たぶん、「僕はヤギを12匹持っているが、君は7匹しか持っていない」というぐあいに、数量的に把握することを知ったのだろう)。だが、事物を数量化することがいわば情熱を捧げる対象となったのは、それから数千年後のことだった。プトレマイオスやユークリッド[前300年頃]など古典古代の地中海世界の数学者たちは、計測と数学にかかわる問題を精力的に研究して、みごとな成果をあげた。だが、中世初期の西ヨーロッパには、これら先人の業績を理解できる者はほとんどおらず、その著作に接したことのない者もまれではなかった。彼らが信仰のよりどころとしていた聖書には、神は「寸法と数と重さによって、万物に秩序を与えた」(『ソロモンの知恵』11章20節)と記されている。それにもかかわらず、1200年前後の西ヨーロッパには、数量的に構成された現実世界という概念をまともに考察する者は、ほとんどいなかったのである。

そうした中で、ゴシック聖堂の建築に携わった石工の親方たちは、例外的な存在だった。彼らは純粋に実用的な幾何学に基づいて、堅牢で調和のとれた聖堂を建設した。彼らはユークリッドこそ知らなかったものの、現代の優れた大工と同様に、三角形、四角形、円などの基本的な図形を―しばしば文字どおりに―操作することによって、幾何学を実践していた。彼らの技と知識は、通常は口頭で受け継がれていた。現場での計測は、親方が杖で石の一部を指し、「そこを私の言うとおりに切れパル・シ・ミ・タリエ」と命じるという形で行われていた。

やがて1250年から1350年の間に、理論面はともかく実際の応用面で、著しい変化が現れた。この100年はたぶん、1275年から1325年までの50年に絞りこめるだろう。この時期に、ヨーロッパで最初の機械時計と大砲が作られたのだ。これらの装置の出現によって、ヨーロッパ人は数量的に把握できる時間と空間という概念を直視せざるをえなくなった。後述するポルトラノ海図、遠近法、複式簿記が出現した時期を正確につきとめることはできない。なぜなら、これらは特定の発明品でなく、新たに出現した技法であるからだ。とはいえ、これら三種類の技法の現存する最古の例が、いずれも前述した50年間ないしその直後につくられたことは確実である。

この時期に、ロジャー・ベーコン[1214頃~1294頃]は虹の角度を計測し、ジョット[1266頃~1337]は幾何学を念頭に置いて絵を描いた。また、過去数世代にわたってアルス・アンティクア[(古い技法)]と呼ばれる技法で荘厳なポリフォニーを作曲していた西ヨーロッパの音楽家たちは、アルス・ノヴァ[(新しい技法)]とともに飛翔し、彼らのいわゆる「精密に計量された楽曲」をつくり始めた。(……)/

(……)この100年の間に人口は激減し、戦争は恒常化した。破壊と荒廃が人びとを突然襲い、教会の権威は失墜した。周期的に飢饉が訪れ、黒死病ペストを筆頭にさまざまな疫病が繰り返し発生した。14世紀の間にダンテ[1265~1321]が『神曲』を書き、オッカムのウィリアム[1300頃~1349頃]が鋭利な剃刀を振るった。ウォリングフォードのリチャード[1291頃~1336頃]が時計をつくり、マショー[1300頃~1377]が数々のモテットを作曲した。そして、イタリアのある船長が操舵手に、スペイン本土最西端のフィニステレ岬からビスケー湾を横断してイングランドに向かう針路をとれと命じた。船長はこの針路を口頭ないし文書で伝えられた情報に基づいて決めたのではなく、海図の上で決めていた。さらに、この船の所有者とおぼしいもう一人のイタリア人が、一種の貸借対照表バランスシートを作成した。

(p.34-36)

13世紀から14世紀にかけてのこの文化的な変動を、クロスビーは「二十世紀初頭にラジオ、放射能、アインシュタイン、ピカソ、シェーンベルクが現れ」た時期のそれになぞらえ、この二十世紀初頭に至るまで、かかる変動に「匹敵する時期は訪れなかった」という。この本が出たのが2010年代であれば、「ラジオ、放射能、アインシュタイン……」という列挙に定めし写真・映画・録音およびコンピュータテクノロジーとインターネットが加わっていたことだろうが、それらが示唆するであろう20世紀の100年間における「変動」がどのようなものであったと将来記述されることになるのかは今ここでは措くとして、13~14世紀に先鋭化していった西ヨーロッパの「数量化」志向が意味するのはむろん単なる技術の進化ではなく、世界観そのものの変動であった。ルネサンスで世界観が変わったということはむろんこれも以前から中学高校で教えられてきたことである。それまでのキリスト教的世界観から人間が解放されて云々というのだが、では人間がそこから解放されたキリスト教的世界観とはどういうものかといえば、クロスビーによれば「ドラマチックで、時にはメロドラマチックでさえあり、かつ目的論的である」「すなわち、神と神の目的があらゆるものを覆っている」世界観であり、これを彼は「敬うべき世界モデル」と呼び、このモデルは「非常に長きにわたって、ヨーロッパ人のコモンセンスをほぼ独占的に支配していた」(p.69)という。「なぜなら、このモデルは古典古代文明のお墨付きを得ており、さらに重要なことに、人間が実際に経験することと総じて一致していたからだ。しかも、このモデルは、宇宙を明瞭かつ完全に、そして人々の心を麻痺させない程度に畏怖させるような形で叙述するという要求を満たしていた。(……)/「敬うべきモデル」が呈示したさまざまな構造とプロセスは、人間が知的に理解できるとともに、感情的にも受け入れられるものだった」(p.39)

プラトンとアリストテレスはあらゆるデータを、真の実在であると確信できるものとできないものという二つのカテゴリに分類した。その際に彼らが設けた基準は、私たちが今日採用している基準とは明らかに異なっている。だが、彼らが指摘したように、日常の体験から得られるなまのデータが変動すること、人間の感覚が当てにならないことは、読者も私と同様にすんなり納得するだろう。(……)

ここで強調しておかなければならないことが、少なくとも二点ある。第一に、古代の人々は計量という概念を現代人よりはるかに狭く定義し、往々にして事物を計量する代わりに、もっと広範に適用できる評価法を採用していたということである。たとえば、アリストテレスはこう述べている。すなわち、数学者はさまざまな次元を計量するに先立って、「あらゆる感覚的な性質を、たとえば重さとか軽さとか、硬さとその反対の性質とか、さらに熱さとか冷たさとか、その他の感覚的な反対的諸性質を剝ぎ捨てる」。中世のヨーロッパで「かの哲学者」と称され、ほかの哲学者とは別格に扱われていたアリストテレスは、定性的な叙述と分析の方が定量的な手法より有用であるとみなしていたのだ。

現代の人々は、重さや硬さや温度という性質も「その他の反対的諸性質」も、数量的に把握できると主張するだろう。だが、こうした主張は、これらの性質そのものからしても、人間の精神に特有の性質からしても、絶対的に正しいとは言えない。(……)これらは状態であって、独立して存在するものの集合体ではないうえに、しばしば流動的に変化する。それゆえ、これらの性質をあるがままの状態で数えることは不可能である。まず心の目で観察して、なんらかのルールに基づいて数量化し、しかる後にその量を数えるという手順を踏まなくてはならない。こうした操作は、長さを測る場合には容易に実行できる。たとえば、槍の長さが何フィートあるかを測るには、地面に置いた槍の端から端まで歩いて、それに要した歩数を数えればよい。だが、硬さや熱さ、速度や加速度となると―いったい、どうやって数量化すればよいのだろうか?

そもそも、いかなるものが計量の対象となるのかという問題は、先人が犯した失敗から多くを学んでいる私たちが思うほど、単純な問題ではない。たとえば、14世紀のオックスフォード大学マートン・カレッジの学者たちは、ものの大きさだけでなく運動や光、暑さや色といったとらえどころのない性質も計量する価値があると考えるにいたるや、その考えをおしすすめ、さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しようと試みた。たしかに、温度計が発明される以前に熱さを計算する方法を考え出せるのであれば、確実さや徳や優美さを数量化の対象から除外しなくてはならない理由はないだろう。

第二に、プラトンやアリストテレスと異なり、私たちはほぼ例外なく、数学と物質世界は密接かつ直接的に結びついているという前提条件を受け入れている。そして、感覚を通じて認知できる現実世界を対象とする物理学は高度に数学的であるという見かたを、自明の真理として受け入れている。だが、こうした概念は自明の真理というより、むしろ驚嘆すべきものであり、今日にいたるまで多くの賢人たちが疑念を表明してきた。

手足の指で数を数えるというレベル以上の数学は、どのようにして生まれたのだろうか? それはおそらく、計量する必要性が増したことに端を発したのだろう。(……)だが、やがて、実用的な計測と数学が枝分かれし、その傾向は今に至るまで続いている。重さを量ったり、数を数えたり、土地を測量することは、世俗的な行為だった。これに対して、数学には超越的な性質があることがわかってきた。こうした数学の特性は、現世を超越した真理を求める人々の心をとりこにした。測量技師たちははるか以前から、ピュタゴラスの定理(直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい)を知っていたにちがいない。その後、何世紀も経ってから、測量技師の一人がこの定理の哲学的・神秘的含意を悟るにいたった。この技師にとって、ピュタゴラスの定理は調節者の存在を示すあかしにほかならなかった。なぜなら、この定理は抽象的で、完璧で、霧と雨の中から現れる虹のように神秘的な示唆に富んでいたからだ。その後、このプロトピュタゴラス主義者はぬかるんだ畑地を抜け出して、宗教的な結社を築いたものと思われる。その日から今日にいたるまで、純粋数学と度量衡学は別個の学問領域となっている。

(p.27-30)

数学のこの「枝分かれ」の結果は、度量衡学というよりもむしろ応用数学と純粋数学という現代の数学区分に端的に示されているだろう。要はこの時期から「今にいたるまで」応用数学がカバーする領域がおそろしく発展したということなのである。純粋数学も発展したであろうけれども、人間の限られた知性に対して謎めいたこの世界の秘密を開示してくれる絶対的な鍵としてかつてそこに付与されていた重みと高位とが、現実世界のあらゆる事象を数量化してみせてくれる「世俗的な」実用性のほうに、徐々に譲渡されていったというべきか。実学に対する虚学という語がいつごろできて、どういう意味なのかについては諸説あるようで、実/虚の区分についても現在ではそうそう分けられるものではないというあたりで議論は曖昧に推移しているとおぼしいが、ここでは「実学」とはその対象および探求成果が数量化可能なもの、「虚学」はそれが不可能なもの、と考えてみるとわかりやすいかもしれない。アリストテレス研究だの神学研究だのというものはおおむね、区分するとすれば虚学に区分されるだろうが、それは、そうした研究が実際に人生において役に立つか立たないかというよりも、仮に役に立つとして、どのようにどれだけ役に立つのかを数量化して可視化できないというところに「虚」とされる所以があると考えてみる。例えば本州と四国の間に橋をかけ、それがどのようにどれだけ役に立っているかは、日々の通行量と、その増加による経済効果の増大などを数値化することで可視化できるが、ある人がアリストテレスを読んで深く思うところがあったとして、その人がやがて功成り名遂げて莫大な資産を築いたからといってその資産のうちのどの部分がアリストテレスを読んだことによる経済効果だったのかを測ることは不可能である。その種の「効果」は、21世紀の今でさえなお計量することができないのだが、「確実さや徳や優美さ」は、現在においてはほぼ計量可能なものとみなされつつあるといって過言ではないだろう。上の引用では、14世紀の計量ブームに夢中になった人々が「さらに飛躍して、確実さや徳や優美さといった性質まで数量化しようと試みた」ということを幾分揶揄的に、現代の我々の感覚からはややナンセンスに思われることとして描かれているように思えるけれども、その実、21世紀に至って、世界の全面的数量化の志向がついにここにまで及んだと考えてみるべきである。統計学の躍進とビッグデータ解析・データサイエンスなるものの大々的な台頭と歩みを一にするAIの科学において、何が確実か、何が価値あるものかを数値化・可視化して再現することはほぼ必須であり、それが可能だという見込み(あるいは恐れ)があるからこそAI社会の到来にこぞって備えようとするのであろう。いかなる「データ」も、数値化できない限りコンピュータ処理できないのであるから、数値化できない不可視な「価値」は存在しないものとして切り捨てられる他はない。あらゆる価値が定性的にではなく定量的に測られるようになってゆくのであり、例えば大学においても、学生の成績が「優・良・可」で評価されていたころにはその評価はむしろ定性的であったのが、現代ではGPA数値に換算されるし、ある授業が「良い授業」であるかどうかはその「需要」すなわち履修者数によって測られ、ある論文が「良い論文」であるかどうかもまた、「被引用数」を数えることで指標されるというありさまである。そうしたことの是非はともかく、それが13世紀以来の数量化の流れからそのままきたった帰結であることは確かであり、一部の大学人・知識人がこれらのことを全くナンセンスなものごとであるかのように非難するのは、少なくともクロスビーのこの本の文脈からすればお門違いだと言っては言い過ぎであるとしても、いかにも遅きに失した批判にとどまるとは確実に言えるだろう。数量化不可能な「測りえないもの」の位置づけが、アリストテレスやプラトンの頃から中世を経てその後漸進的に下落していったのであって、現代の全価値数量化傾向はその赴くところ必然の帰結である。当のアリストテレスらの時代には多くのことが「測りえないもの」であるとされ、実際に測りえず、それゆえに彼らは、数量化できないそれらのものを包摂しうる定性的な叙述のしかたを選択したのであって、世界を包括的に記述しようとするならばそれこそが唯一無二の選択可能性だったのである。世界の混沌を、数量化して秩序化するのではなく、定性的記述によって処理しようとする態度は、(アリストテレスは失われても)12世紀までヨーロッパに普通の態度であった。

ヨーロッパ人はごく身近な現象を例にあげて、現実世界が本質的に不均衡であることを説明しようとした。たとえば、炎が上がり、石が落ちるのは、それらのいずれをも構成する抽象的な要素の量、つまり重量が異なるためではなく、火と石が本質的に異なっているからだと解釈した。しかしながら、現実世界は―たしかに苦悩に満ちているものの―ことごとく混沌としているわけではなく、ある程度は予測できる。とはいえ、そうした予測可能性は現実世界そのものに由来するのではなく、唯一絶対の神に由来するとみなされていた。カンタベリーのウィリアムは、こう述べている。「創造主は万物を創造するにあたって、彼の公明正大な掟に従わないものは、善きものであろうと悪しきものであろうとけっして生じないように、事物の法則を定められた」。

神が定めた法則は、現実世界を人間風情が数量化できる対象としたのだろうか? おそらく、そうだろう。かたじけなくも神は人知の及ぶ存在である、と仮定するならば。だが、現実世界の解釈にとりくんだ人々は、第一原因すなわち神は測り知れないという固定観念にとりつかれてしまった。そのため、彼らは長きにわたって、直接認知することが可能で、おそらくは計測も可能な―速度や温度という類の―第二原因に関心を向けようとはしなかった。

(p.40-41)

こうした世界観のありかたがかつて「中世の闇」などと呼ばれ、また、当時は測れなかったことどもがいろいろに測れるようになってきたことをもって「近代の夜明け」とし、また人類の「進歩」として語るのが従来一般的であった。その種の語りが一概に間違いとも言えないだろうし、測れなかったことが測れるとわかり「目が開け」たことの結果として宇宙船が飛び冷蔵庫を電子制御できるようになったのは確かであるけれども、現代においてあらゆる価値が上述のように計量可能なもののみに限定されてゆきかねない情勢を以て今ひとつめでたくないものとするのであれば、こうした「ルネサンスの夜明け」が「夜明け」としてめでたく語るべきものであるかどうかも再考する必要に迫られることだろう。それはともかく、13世紀に至って「西ヨーロッパ社会では、現実世界を従来のように定性的に認知するのではなく、数量的に把握しようとする気運がめばえていた」(p.71)のであるが、そういう気運がめばえるに至ったその背景、「必要条件」として、クロスビーは大略以下のことどもを挙げる。(p.72-101)

  1. 通商・交易の拡大による新興階級(商人および「都市の住民ブルジョワジー」)の勃興。
  2. 当時の西ヨーロッパでは中央集権化が進まず権力が分散しており、政治的・宗教的・文化的に確たる「権威」が存在せず、迷宮的に錯綜した諸組織の間の相互抑制と均衡を保つことで社会が成り立っていたため、上記新興階級がその均衡の中にすみやかに取り込まれて根を下ろす余地が十分にあったこと。
  3. 旧来の世界観(「敬うべきモデル」)自体がそもそも西ヨーロッパ人にとっては外来のものの混淆物であり、混淆物ゆえに内部に本質的に相容れない要素(たとえばギリシア的要素とヘブライ的要素)を抱え込んでおり、しかも彼ら自身の固有の伝統文化に根差していたわけではなかったため、西ヨーロッパ社会は「彼らのライバルたちとは異なり、説明する者、調整する者、再統合する者を絶えず必要としていた」こと。
  4. 説明し、調停し、さまざまに新しい知識・言説がせめぎあうのを取りさばく役目としての「教師や学者、官僚や説教師に対する需要」が生み出され、「思索と学問に従事する専門家に職を与える永続的な機関」としての大学が誕生し地歩を固めたこと。
  5. この大学に集った哲学者・神学者(いわゆるスコラ学者)たちが、自他ともに認める「是認された思想を編集して統合する者」として粉骨砕身したこと。そして「たとえ視野が狭かろうとも、学識が深いうえに、とてつもなく熱心だった」彼らが、きりもなく流入する膨大な情報を系統だてて整理し呈示するために、画期的な整理システムおよび明晰な論理的記述法を数多く開拓したこと。
  6. そのスコラ学者たちが先頭をきって推し進めてきた学問が、緻密な論理と体系化とによって限りなく数学に近づきながら、「数量的なものの見かたをしなかった」ために行き詰ったこと。
  7. 貨幣経済への移行。

「現代では」とクロスビーはいう、「中世的という言葉はしばしば、支離滅裂な考え方の同義語として用いられている。けれども、実態に即して考えるなら、この言葉はむしろ精密な定義と緻密な推論、すなわち明晰さの同義語とみなすべきだろう」(p.91)。実際、「学識が深いうえに、とてつもなく熱心だった」スコラ学者たちの営為を活写するこの本にのっとれば、ルネサンス/近代初期に花開いたとされる多くの華やかな(「知の精神史」なるものの最も華麗なクライマックスとして多くの学徒を誘引してやまない)学術的営為の多くは、すでにこの時期に十全に準備されていたというべきだろう。

知識の収集と整理、および言語そのものの研究に専念するという姿勢は、中世後期のスコラ学者の特徴でもあった。中世初期と後期のスコラ学者の違いは、前者が縮小しつつある知識体系からできるだけ多くの知識を救い出そうと努力した―いわば藁をつかもうとした―のに対し、後者は拡大しつつある知識体系を総合的に―いわば納屋の床にばらまかれた乾草を積み上げて、乾草堆として―理解しようとしたということである。

スコラ学者はまず、古典古代の異教徒やイスラームの文化、過去のキリスト教世界から受け継いだ膨大な知的遺産をいかに系統立てて整理するかという、気が遠くなるような難問を解決しなければならなかった。(……)/宗教的なものであれ、世俗的なものであれ、古代の文献類はまったく整理されていない状態で、西ヨーロッパにもたらされた。それらは分類されておらず、また分類する手がかりもなく、浜に打ち上げられた鯨のように扱いにくい代物だった。スコラ学者は本文を章に分けて、章ごとにタイトルをほどこすことを考案した(章の冒頭部分は多くの場合、最初の文字を特大の飾り文字にしたり彩色したりして目立たせた)。彼らはさらに、欄外見出しや相互参照システムクロス・レファレンス、引用文献の一覧表示まで考え出した。西暦1200年頃、スティーヴン・ラングトン[1228没]は同僚とともに、それまで人跡未踏の森のような状態だった聖書に、章と節を導入した。(……)13世紀には、パリ大学の神学教授を務めたドミニコ修道会士のセント=チャーのヒュー[1195頃~1263]が学者のチームを率いて、数々の優れた参考書の類を著わした。その中の『コレクトリア』は大部の著作で、ウルガタ聖書の異本をまとめたものである。これらの学者や彼らと志を同じくする学者たちが、聖書や教父たちの著作の用語索引を作成した。その後、アリストテレスをはじめとする古代の思想家の著作にも、事項索引などの索引がつくられた。彼らはこうした学問のための足場に数字を用いる場合、おおかたの商人や銀行家に先んじて、ローマ数字の代わりに登場したばかりのインド・アラビア数字を用いていた。

何世代もの間、スコラ学者は膨大な量の情報を検索しやすいように配列するルールを模索して、途方にくれていた。そのルールは何よりも、情報の総体的重要度を反映したものでなくてはならない。図書館の蔵書目録を例にとるなら、最初に聖書、ついで教父の著作というように重要度の高いものから記載して、自由学科関連の書物は最後に記載すべきである。しかし、書物の格式だけに基づいて序列をつけるというルールは、とりわけ些末なレベルになると、必ずしもうまく機能しない。そこで、スコラ学者はこのルールを補うために、アルファベット順の配列というシステムを採用した。(……)

スコラ学者が考案した諸々のシステムの中で、おそらく最も革新的で有用だったのは、書物の内容を小分けにして示す目次というシステムだろう。(……)目次は特定の事項を見つけるのに役立つだけでなく、論述の流れを追うのにも、まるで数学の技法さながら筋道を立てて推論するのにも役立った。目次は、目の粗さが異なる篩面を何層か重ねた篩にたとえられる。(……)目次を最初に導入したのは、フランシスコ会の修道士でパリ大学の教授だったヘールズのアレクサンデル[1180以前~1245]とみなされている。彼は全体をまず部(partes)に分け、ついで部分(membra)と項(articuli)に分類した。聖トマス・アクィナスは何かを論証する際に、論理の筋道を失うようなことはけっしてなかった。彼は全体をまず部(partes)に分け、ついで部を問題(quaestiones)と区分(distinctiones)に分類し、さらにこれらを項(articuli)に細分した。

スコラ学者が開発したものごとを系統立てる技術が、彼らの真摯な姿勢と結びついて、意図的に難解・不明瞭にする難解主義やシニシズムに逃避する道を断った。彼らは思いのままに文献を読みこなした。そして、(……)彼らはその散文の中で、緻密な思考を適切に表現するシステムを完成させたのである。

(p.86-90)

事典、索引、コンコーダンスの編纂、欄外見出しにクロス・リファレンス、コレクションと整理目録、アルファベット順の配列、章立て構成そして目次―こと学術書籍の読み書きに関わる営為において現代の我々がその恩恵を被っていないものはひとつもないし、我々が恩恵を被っているものの中で彼らがすでに考案していなかったものも実はほとんどないのではないかと思わせる。中世後期とはいっても、ほとんどすでにルネサンスと言ってよいのであろうけれども、ただなお活版印刷が生まれていないという一点において未だ近代ではないにすぎない、と極言したくなるほどである。活版印刷こそまだないが、冊子体の書物はすでにあり、そのことが上記のような記載メソッドの開発を可能にした。アルファベット配列、事典、索引は巻物ではなく冊子体であって初めて機動的に機能する。そして言うまでもなくこれらの機能は視覚を前提にしているのだった。印刷術が世の中の視覚化を加速させたのではなく、視覚化が加速したから印刷術がすみやかに急速に受け入れられた、あるいはむしろ要請されたのに違いないということがだんだんにわかってくる。数量化の道というのが「事物やエネルギー、行動や知覚を均質な部分に分解して、その数を数えるという道」であるならば、活版印刷術もまたこの道の途上に必然的に萌え育った技術であるだろう。活版もまた工芸であり、ひとつひとつの活字の大きさを測り、行の長さを測り揃えて、ぺージの中に設置した四角い版面にきっちりとおさまるように並べていく―行の幅や字間を細かに均質に調整し、字数を数えるのが容易になる。印刷紙面においては言語そのものが「均質な部分に分解して、その数を数える」営為を経由して発せられるようになるのである。そして索引・目録・リファレンスという、現代でも校正が最も面倒で誤植の発生しやすいものを、あやまたず迅速に複製でき、多くの人がそれを可及的すみやかに入手できるようにもなる。クロスビーが挙げた上記の「数量化の必要条件」は半ばはそのまま、印刷術誕生の必要条件でもあったに違いないのだった。せっかく精魂込めて全体を区分し、アルファベットで配列してクロスリファレンスを設置したものを、うかつな写字生によるだらしのない写し間違いのせいで台無しにされる危険は、避けられれば避けるにこしたことはないのだ。全体を大きなひとつの統一的な構築物として、それを部分に分けてゆき、ひとつひとつの区分の中に大切なものを納めておいて、必要に応じてその区分々々を経巡り回るというのは、昔ながらの記憶術と同様のメソッドではあるが、古代ローマのそれのように、ひとつひとつの箱の中身を覚えるために奇態な「イメージ」を賦与するなどという手間暇のかかることは、膨大な知的遺産を統合整理する「緻密な思考」の集大成summaの構築に到底ついてゆけるものではなかっただろう。中世後期における知識と認識の体系化の試みは、すでにそれ自体、外部記憶装置としての冊子体書物を前提としていた。書物というこのメモリー・メディアの運用に関するスコラ学者の発明品としてクロスビーが挙げていない、それでいて「数量化」と最も関係の深そうな要素はノンブル(ページナンバー)であるが、書物にノンブルがついたのはいつごろで、なぜそのようなものが発明されるに至ったかについては、また別途どこかで学ぶ機会もあるであろう。

クロスビーのこの本の中でノンブルに言及されているのは、複式簿記の誕生に関する章においてである。「複式簿記の父」と呼ばれる数学者ルカ・パチョーリの『算術・幾何学・比および比例全書』(1494)には、「帳簿のすべてのページに通し番号を振り、悪事を企む輩が事実を隠蔽するためにページを破りとることを、未然に防がねばならない」とあるそうであり、「項目ごとに仕訳帳の該当するページを記載し、資産を一方の欄に、負債を別の欄に転記する」ようにとも、また「貸方と借方の項目をアルファベット順に並べた索引を、元帳に付す」のがよいとも述べているといい、クロスビーは「アルファベット順の配列という便利な方法を、商人は直接ではないにしても、スコラ学者から学んだのだろう」と付記している(p.279)。一枚一枚のページにノンブルを付して相互参照を容易にする方法もまた、スコラ学者の発案によるものであったかもしれない。

パチョーリ自身は商人ではなくフランシスコ会の修道士であり大学教師・学者であって、「西暦1300年頃に、すなわち眼鏡と機械時計が発明され、アルス・ノヴァとジョットが出現した驚異的な時期に、イタリアの会計係の一部が、今日複式簿記と称されている簿記法を用い始めた」(p.262)そのさらにおよそ100年後、15世紀後半から16世紀初頭にかけて生きた人である。

パチョーリはイタリアの指導的な数学者の一人となり、フィレンツェ、ミラノ、ぺルージャ、ナポリ、ローマの大学で教鞭をとった。彼はチェスについての本や、数学パズルやゲームを集めた本など、多数の書物を著わした。また、ユークリッドの著作の翻訳という骨の折れる仕事も行った。彼は革新者というより翻訳者であり、人気を集めた素材をもとに書物を編纂した編集者だった。そういう点で、彼は歴史家にとって貴重な存在である。なぜなら、パチョーリの著作を通じて、彼の時代の知的エリートである書物の購買者が何を重要視していたのかがわかるからだ。

(p.269)

『算術・幾何学・比および比例全書』は「数学を学びたいと思う読者のための、純粋数学と商業数学の実用的な入門書」であり、「一般大衆を対象にしたという点で、この著作は最も重要」でありかつ「数学の歴史上、最も重要な著作の一つ」だといい、「活字が密に組まれた600ページの大冊で、数学のさまざまな側面を網羅した百科全書」としてのこの書物は1494年に初版、1523年に完全版が出て以来「16世紀に代数を筆頭に数学のさまざまな分野がめざましく進歩する礎となった」という。汎西欧的なその「めざましい進歩」ゆえに数学理論書としてのこの本の価値は半世紀ほどで薄れたが、「パチョーリの威光は、新プラトン主義の思索家あるいは数学の教師としてより、簿記論の解説者として、最も長く保たれた」という(p.269-273)

知識人や学問の愛好家たちは簿記係の元帳を、大工の仕事場に散らばったおがくずやかんなくずと同類の、栄光とは無縁のものと軽視してきた。(……)パチョーリをモンテーニュやガリレオと同列に論じること自体、おおかたの現代人は滑稽に感じるだろう。まるで、サラブレッドの中に、荷馬車を引く駄馬が混じっているようだ、と。しかし、私たちがどのような好みや美意識を持っていようと、それは私たちが日々実践していることほどには、文化や社会の発展に影響を及ぼさない。簿記法は日々実践されることによって、私たちの思考様式に強大かつ広範な影響を及ぼしてきた。

複式簿記を用いると、収集した大量のデータをとりあえず保存しておいてから、しかるべく配列して分析することができる。この技法が考案される以前には、大量にデータを集めても、それらはやがて散逸して失われてしまっていた。商業や製造業や行政に携わったルネサンス期のヨーロッパ人と彼らの後継者たちが会社や行政制度をつくり、こうした組織を運営してゆくうえで、複式簿記は重要な役割を果たした。今日では、パチョーリが夢にも思わなかったスピードで、コンピュータが会計処理を行なっている。だが、その枠組みは(支払勘定や受取勘定、その他一切を含めて)、パチョーリの時代から全く変わっていない。効率を追求したこの修道士は、落ち着きのない子どものように一時もじっとしていない食料品店や国家を静止させて数量的に処理する方法を、私たちに教えてくれたのだ。/(……)

過去七世紀にわたって、簿記法は哲学や科学の分野で生まれたいかなる単一の新機軸よりも、聡明な人々が現実世界を認識する枠組みを形成することに貢献してきた。ごく限られた数の人々がルネ・デカルトやイマニュエル・カントの著述について思いをめぐらせている間に、何百万人もの熱心で勤勉な人々が几帳面に帳簿をつけていた。彼らはやがて、彼らの帳簿に適合するような形で世界を解釈し始めた。(……)//

西暦1200年、アッシジの聖フランチェスコは、人間にはどうすることもできない不可思議な力で沸き立ち、騒然としたこの世界で、清貧を奉じることにより信仰をまっとうした。それから300年後、フランシスコ会士のルカ・パチョーリが還元主義の古典を著わし、世界をプラスとマイナスに還元する技法を解説した。この技法は世界を目に見えるもの、数量的に把握できるものに還元し、それによって世界を理解することのできる―おそらくは制御することもできる―存在に変容させた。パチョーリは私有財産の所有を認める特免状を教皇から授けられ、相続人に500ドゥカートを遺贈したとされている。

(p.278-283)

上の箇所は、『数量化革命』結尾にあたる「新しいモデル」の章の直前に置かれているせいか、叙述がいくぶん昂揚的である。「効率を追求」し、「世界をプラスとマイナスに還元」し「静止させて数量的に処理する方法」の普及の責任をパチョーリひとりに負わせることはむろんできないのであって、彼が『全書』を編纂する15世紀末に至るまでの二世紀をかけてすでにそれは民間に広く普及しつつあり、パチョーリは、すでにそのようになっている世界をそのようなものとして記述することによって事後的に確定する役割の一端を担ったのである。「+」「-」という記号自体はもっと後になってようやく確定したし、アラビア数字が従来のローマ数字にほぼ完全にとってかわったのも早くて16世紀以降とのことだが、パチョーリの簿記論においてはほぼ全ての数字はアラビア数字で記されているという。純粋数学よりも、実用的な簿記技術のほうがはるかに早くアラビア数字を受け入れていたというのはたいへん面白いことだが、この受け入れは簿記技術よりもさらにスコラ哲学のほうがいっそう早かったというのもまたたいそう興味深いことである。聖トマス・アクィナスが『神学大全summa theologia』を盛んに執筆していた頃、世界の「数量化」はまだ本格的に始まってはいなかったとはいえ、テクストを章節に分けて目次をつけたりしている時点で、それはテクストを均質な、数えられるユニットに分ける行為であり、すでに数量化の準備段階に他ならなかったのである。

アラビア数字を受け入れると言うことは、十進法を採用するということであり、それを用いた計算法を受け入れるということである。アラビア数字の西欧への到来自体は古く、12世紀にさかのぼるようだが、従来のローマ数字からアラビア数字への全面的移行までに何世紀もかかったのは、計算ということ自体はローマ数字でも一応できていたし、算盤に似た計算盤もあってたいへん便利に用いられていたからである。しかし商業の爆発的な拡張に伴う計算の複雑化、世界の全面的数量化に対応するにはローマ数字だけでは限界があった。

(……)ローマ数字で数を表わすのは、とくに数が大きい場合は、きわめて困難な作業だった。(……)ローマ数字を用いてこみいった計算をするのは、不可能ではないとしても実用的でなかった。また、ローマ数字がローマ字を借用していることから、数字と文字がいりまじって混乱が生じるのは避けようがなかった。

計算盤は、こうした状況を克服するのにおおいに役立った。だが、この西ヨーロッパ版の算盤アバクスには、これに特有の諸々の短所があった。第一に、非常に大きな数と非常に小さな数を同時に処理できない。第二に、記録するための機能を備えていない。第三に、計算盤で計算をする場合、それまでの計算を一度ご破算にしないと先に進めないので、検算ができない。つまり、計算を誤っても、どの段階で誤ったのかをつきとめる術がないので、一からやり直すしかないのだ。計算結果を記録する必要がある場合は、ローマ数字で記録した。ここでふたたび、長々と数字を書くという問題に直面する。/(……)///

ローマ数字と計算盤の組み合わせよりインド・アラビア数字の方が優れていることは、私たちには自明のことのように思われる。もし、これら競合する二つの記数法のどちらも使ったことのない人が比較検討したら、私たちの見かたが正しいことが立証されるだろう。インド・アラビア記数法では、「0987654321」という10個の数字でどんな数でも―どれほど大きな数でも―表わすことができる。インド・アラビア数字を用いて行う計算は、時に「筆算」と呼ばれた。筆算では計算の全過程が書き残されるので、容易に検算できる。しかも、計算と記録を同じ数字で行えるのだ。

(p.149-151)

同じ数字で行えるどころか、「筆算」においては、計算がそのまま記録である。十進法の採用に伴い「どんな大きな数でも」、またこれに加えて小数点の採用によってどんな小さい「端数」でも書き表し、計算し、記録することができた。そのようになる以前、つまり商取引が比較的単純で規模も小さく、それほど国際的でもなかった時代には、

ルカ・パチョーリによれば、「商人の多くは計算で生じた端数を無視して、手元に残った金はすべて自分の店の所得としていた」。だが、顧客はこうした状態にいつまでも我慢していなかった。商取引には複雑な要素が絡み合っている。時が経つにつれて、当事者が変わる場合もある。利子にも単利と複利がある。二種類あるいは三種類、時にはそれ以上の通貨を扱わなければならないうえに、通貨の価値は波立つ海のように常に激しく変動している。15世紀には、商人はしばしば280分の197というような分数を扱っていた。時には、4320864分の3345312というような、分数の流砂に飲みこまれそうになった。彼らを流砂から救い出したのは、十進小数法だった。小数の萌芽は早くも13世紀に現れていたが、それを標記する実用的な方法得られるまで、さらに300年を要したのだ。

(p.157)

商業の現場から徐々に定着していったアラビア数字による記数法に、やがて演算記号や、既知数未知数をアルファベットで表す表記ルールが加わってゆくその先に、「ガリレオ、フェルマー、パスカル、ニュートン、それにライプニッツ」らがいて、彼らは西ヨーロッパが何世紀もかけて獲得・確立した「精密な代数用ジグ」を受け継いで「17世紀が天才の世紀と称される所以となった赫々たる業績をあげたのである」(p.160)。そしてそのときにはすでに印刷物がデフォルトの流通媒体になっていた。クロスビーは西ヨーロッパにおける「数量化・視覚化」の急速な進行と印刷術との関連については、「紙に印刷された文字から知識を得ることを渇望していた」西ヨーロッパの「こうした渇望がもたらした結果を網羅的に考察するのは、本書の容量を超えている」として最終章で触れるにとどめているが、そこに記されていることはやはりたいへん啓発的である。

西ヨーロッパでは1400年代から1500年代にかけて、科学や工学技術分野の挿絵がその芸術性において最初のピークに到達した。活版印刷された最初の書物が出現する以前の半世紀の間に、マリアーノ・ディ・ヤコポ、通称タッコラ[1381~1458]がジョットとアルベルティの(絵画を、それを通して画家が単一の視点から現実の情景を眺める窓とみなすという)絵画技法を応用して、近代的な製図法の先鞭をつけていた。タッコラの次の世代やその次の世代の画家や画工たちは、カッタウェイ図[内部の見える説明図]や断面図や透視図など、今日でも用いられているさまざまな図法を発明した。エンジニアや建築家、解剖学者や植物学者たちはこうした図法を用いて、言葉では明確に表現できないことがらを説明している。フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ[1439~1501頃]はピストンが交互に動く二連の往復ポンプを図示しているが、この構造を言葉だけで説明するのは不可能だろう。レオナルド・ダ・ヴィンチは一枚の絵の中で人間の頭蓋骨を二分し、その左側は外面を、その右側はカッタウェイ図の手法で神秘的な内面を描いている。

印刷術の発明によって、正確に描かれた技術的な挿絵の有効性と重要性が急激に高まった。文字だけであれば、写字生はせいぜい些細な書き洩らしや書き誤りをするくらいで、正確に原本を書き写せただろう。だが、複雑な図は精緻な図を正確に模写することはできなかっただろう(学費を稼ぐために定住出版人の店で写字のアルバイトをしている貧しい学生に、ダ・ヴィンチの頭蓋骨の絵を100枚模写してほしいと注文することを想像してもらいたい)。それに引きかえ、印刷業者は原画の素材が木でも金属でも石でも、印刷機を使えさえすれば、その完璧なコピーをいくらでも作り出せた。

(p.292-293)

「些細な書き洩らしや書き誤り」は、自然言語によるエッセイであれば読者がみずから読みながら頭の中で修正することもできようが、複雑な数式による新たな証明などは、おそらくそうはいかなかったであろうし、帳簿を印刷するということはあまりありそうにないことだとはいえ、いわばゼロをひとつ落とすだけで桁の違う話になってしまうような世界において、正確な複写技術の普及が「渇望」されたことに不思議はない。精緻な図」の「正確な模写」ということがことさら要求されたもののひとつが「海図」である。「大洋を航海する船乗りが進路を正しく書きこむためには、地球表面を幾何学的に正確に描いた海図が必要だった」

碁盤目状に引いた線の上に地図を書くという技法は、14世紀前半にはすでに西ヨーロッパその他の地域で知られていた。現存するポルトラノ海図の一部は、この技法で描かれている。だが、これらの場合、碁盤目状の線は船乗りのスケッチを再現する手段として使われていたにすぎないようだ。こうした技法が発展するためには、古典古代の数学と科学理論の援護が必要だった。(……)

西暦1400年頃に、プトレマイオスの『地理学』の写本がコンスタンチノープルからフィレンツェにもたらされた。(……)当地の船乗りは試行錯誤しながらアフリカ大陸の西岸を南下し、大西洋への航路を模索しているところだった。彼らは長距離の航海に使える海図を必要としていた。陸上の目標が見えなくなろうと、あるいは陸地がまったく見えなくなろうと、それがあれば航海を続けられるような海図を。

地図製作術に対するプトレマイオスの貢献を一言で言うなら、諸々の天体の位置に基づいて計算した直交座標系を、すなわち前述した碁盤目状の線を地球に引いて、地球の表面をニュートラルな空間として扱ったということである。15世紀のヨーロッパ人は『地理学』によって、地球を平面上に描く方法として、数学的に矛盾のない三とおりの投影図法を知った。これらの図法は球面を平面に投影する際に必然的に生ずる歪みを、その点を理解していれば容認できる形で処理していた。16世紀までに、プトレマイオスの投影図法は西ヨーロッパの地図製作者の間に浸透した。彼らが描く地球はいまや、経線と緯線の網目に覆われた球体となり、その表面はビリヤードの玉のように均質でむらがなかった。南北アメリカ大陸と太平洋が突如として西ヨーロッパ人の前に出現したとき、その地図を正確に描く技法はすでに確立されていたのである。

(p.132-133)

地球という球体の表面がこのように「均質でむらがない」グリッドに分割されて可視化されるに先立って、時間のほうはすでに14世紀には、同じく「均質でむらがない」単位の連続として把握されるようになっていた。「ドイツでは早くも1330年に、イングランドでは1370年頃に、定時法が不定時法に代わって広く採用されるようになった」―「17世紀以前の技術史全体を通じて、時計ほどすみやかに普及した複雑な機械装置はなかっただろう」といい、また、機械時計というものの起源がおそらく中国であるにせよ、「時計に対する熱狂ぶりと、不定時法から定時法に一気に移行したという点で、西ヨーロッパが特異な反応を示したことは疑問の余地がない」ともいう(p.111-112)。14世紀の時計にはまだ針がなく、鳴鐘によって時刻を知らせるのみだったというが、針によって時刻どころか分・秒までをも表示する形態がいつから一般化したにせよ、それが時刻を「均質でむらがない」ユニットに分割して視覚化する装置として機能していったことは言うを俟たない。

名高いストラスブール大聖堂の時計は1352年に建造が始まり、その二年後に完成した。この時計は時刻を告げるだけでなく、自動式のアストロラーベ、万年暦、賛美歌を奏でる組み鐘カリヨン、幼子イエスを抱いた聖母マリアと彼らに礼拝する当方の三博士の像、羽ばたきしながらときをつくる機械じかけのオンドリが付属していた。さらに黄道十二宮と人体各部との関連を描いた銘板がついていて、瀉血するのに適した時刻がわかるようになっていた。もし、この時計が時刻を示すことだけを述べて、それ以上のことに言及しなかったら、この大聖堂の窓にはめられたステンドガラスについて、それが光線を通すことだけを説明するようなものだろう。

ストラスブールの時計は何世代もの間、数十万の人々が毎日目にし、日ごと夜ごとにその鐘の音を聞いた唯一の複雑な機械だった。この時計は彼らに、見ることも聞くこともできない切れ目なく流れる時間が、量で成り立っていることを教えた。この時計はかねと同様に、ものごとを数量的に把握することを人々に教えたのである。

(p.116-117)

他方また、「中世およびルネサンス期のヨーロッパ人が現実世界の一部としての時間をどう認識していたのかを考察しようとするなら、この時代の音楽を検証する以上に適切な方法はない」とクロスビーはいう。機械時計の導入により不定時法から定時法へ一気に移行したのと並行して、音楽の技法においても当然のようにパラレルな変革が生じていたのだが、その変革を記述するに先立ちクロスビーが取り上げるのは「西ヨーロッパで最初に書き記された音楽である西方教会の単旋聖歌プレインソング(または単声聖歌)」グレゴリオ聖歌の様相である。

グレゴリオ聖歌はローマ・カトリック教会の典礼音楽である。これは一つの旋律からなる単声音楽モノフォニーで、音の高低や強弱にドラマチックな変化がない。現代人にとって聖歌の最もきわだった特徴と思われるのは、音の強弱や長短に基づくリズムを欠いていることである(さらに言うなら、耳の肥えていない者は、拍子に類するものを全く聞きとれない)。グレゴリオ聖歌は一般に知られている音楽の中で、音の長短を厳格に規定したいわゆる定量音楽から、最もかけ離れた音楽である。そのメロディーの構造は、典礼ごとに定められたラテン語の歌詞の意味と、礼拝の超俗的な性格によって規定されている。

グレゴリオ聖歌は、数量的に表現できるルールに基づいてつくられた音楽ではない。たとえば、一つの音節に一つの音が割り当てられるシラブル型の聖歌では、一つの音節を歌い終わるまで一つの音が維持される。ある音の音価はそれ以外の音の音価と、必ずしも厳密な比例関係をなしていない。要するに、ある音の音価は、その音が割り当てられた音節を歌うのに必要な時間の長さということになる。グレゴリオ聖歌は、時間が持続する長さがもっぱらその時間が担う内容によって規定されるという、独特の時間概念を明瞭に示している(……)。

(p.188)

「その音が割り当てられた音節を歌うのに必要な時間」とはいったいどのくらいの「長さ」で、それが「もっぱらその時間が担う内容によって規定される」というのがどういうことなのかは、俄かには理解しがたいようであるけれども、例えばLaudate Dominum(神を讃えよ)という歌詞を歌う場合、「Lau-da-te-do-mi-num」それぞれの音節の長さは、あらかじめ計量的にそれぞれ規定されているのではなくて、「神を讃えよ」という意味内容にふさわしい、すなわち神を讃えるにふさわしい長さと音節相互のバランスを以てそれぞれにたっぷりと充分に歌いきるだけの長さ、で歌うべし、ということである。こうした「定量音楽から最もかけ離れた」性質ゆえに、むしろはるか東洋日本の16世紀において、グレゴリアン・チャントはすみやかにキリシタンたちの間に普及しえたのではないかと思わないこともない。禁教により400年間潜伏している間に変容してしまった「おらしょ」だが、今に残る「らおだて」も現代の耳にはむしろ定量的なリズムを十分に持っているように聞こえるのであって、10世紀の典礼で歌われていたLudate Dominumはおそらくもっとはるかに「リズムを欠いた」「拍子に類するものを全く聞きとれない」謎の音楽であったのではないかと思う。それが16世紀に宣教師たちによって日本に伝えられたときには、すでにずいぶんとリズム化されていたに違いない等という思いがつい馳せられるのであるが、ともかくも、元来そのような性質のものであったところから、西洋音楽は14世紀までの間、数世紀の時間をかけて「他に例を見ない」ほどの大変容をとげた―音楽そのものと、それを書き留め再現するための記譜法とが、ともどもに両輪となってミューズの歩みを運んだのである。グレゴリオ聖歌はむろん「聖歌」であるから、当初は「それぞれの聖歌を正しく演奏する方法も、ただ一つであるべきだった。そのためには、音楽を書きとめる手段が必要だった」、そこから生まれた最初のネウマ記譜法は「初期の数世代の間は、音高の相対的な関係を表す記号体系にすぎなかった」のが、やがて一本の横線が引かれ、二本三本と増えて最終的に五本になり、音の「長さ」と高さとを共々に表す「音符」が開発されて、他のさまざまな記号を伴いながら「小節」に区切られた五線の上に整然と配置されるようになっていった。他方、当初「正しく演奏する方法も、ただ一つ」であり楽曲自体の変更も容易に許されなかった教会音楽といえども、都市の生活の中で営まれる限り、「猥雑な」世俗音楽の影響をいつまでも免れてはいられず、ただでさえ数多くて覚えきれないほどになっていた聖歌に、9世紀ごろからさまざまに華麗なヴァリエーションが加わっていった。酒場や祭り広場で踊り楽しむためのダンス音楽にはもちろん明瞭なリズムがあり、体と共に心をも躍らしめるためのそれらリズムは教会堂の中にまでおのずと浸透してゆかずにはいなかった。他方、楽譜の線が一本から五本に増えていったようにメロディラインもまた徐々に増えて、12~13世紀には本格的な多声音楽ポリフォニーが誕生した。

音楽家たちは定量音楽のルールを駆使して、才知を発揮した。抽象的な時間を流れる音は―すなわち、羊皮紙や紙の上に記される音は―細かく分割したり、逆行させたり、上下をさかさまにすることができる。定旋律として高音の声部を支えなくてはならないテノールでさえ、飛んだり跳ねたりするようになった。たとえば、13世紀につくられたオルガヌムでは、テノールが主(Dominus)という神聖な言葉を偏執狂的に歌う一方で、付加声部はこの言葉を逆に―Nusmido と歌っており、神聖なグレゴリオ聖歌のメロディーさえ逆方向に進んでいる。さらに大胆なある作曲家は(残念なことに、制作年は不詳だが)「主よ! どうして生きていけましょう―栄えあれ、女王様」と題するモテットを作曲した。このモテットでは、テノールが伝統的な聖歌を歌い、中声部は処女マリアの栄光を讃えている。そして、なんと上声部はこう歌っているのだ。

神よ! どうして私がパリで仲間と暮らせましょう? けっして暮らせますまい。それは、彼らがあまりに楽しそうだから。ひとたび彼らが集まると、誰もが声を立てて笑い、楽器を奏でながら歌い興じるのです。

(p.203-204)

こうした複雑な構造の音楽を、つまり当時の記譜法はすでに受け止めることができたのである。そして、受け止めてくれる記譜法があるからこそ、「飛んだり跳ねたり」する錯綜的な技法をフルに駆使した壮麗な展開可能性を、音楽は自在に、のびのびと追及することができるようになった。

パリという西ヨーロッパの文化的革新の震源地で、音楽家たちはグイードの言う両足で大きく前進した。その第一歩がレオニヌスとペロティヌス[ポリフォニーの最初の大成者=引用者註]であり、二歩目は音楽理論家たちだった。単に斉唱するだけであれば、歌い始めるのも、歌うのも、歌い終えるのも難しいことではない。だが、ポリフォニーの形式で歌おうとすると―すなわち、複数の独立した声部に分かれて歌おうとすると―同時に歌い始めることは容易でも、歌い始めた瞬間から、ややもすると無秩序状態に陥ってゆく。そうならないためには、歌い手たちがよりどころにできる形式と、時間の進行を示すものが必要である。つまり、自分たちが曲のどの部分を歌っているのか、どのくらいの速さで歌ったらよいのかが、わからなくてはならない。(……)

音楽は、中世の高等教育を受けた者すべてが履修した自由七科のうちの四科に含まれていた。四科のほかの科目は算術、幾何学、天文学だが、これら三つは数学的な科目であると誰もが認めるだろう。けれども音楽に関しては、これらと同類とみなすことに違和感を感じる向きもあるかもしれない。音高と音の持続時間を扱う音楽は、ピュタゴラスからアルノルト・シェーンベルクにいたる数多の理論家が認めているように、数学的な分析を高度に必要とする学問なのだ。ものごとを数量的に把握し、現実世界を数学的に考察するという姿勢を一般に広めるうえで、音楽は並々ならぬ影響力を発揮した。その理由を一言でいうなら、音楽は四科の中で唯一、計測と実践が直接結びついていたからだ。(……)数量化と実践を結びつけるという特性の中に、音楽の総合的かつ学問的な意義が存在するのである。///

たとえばヨハネス・ディ・ガルランディアは(……)まず個々の論題を主題全体の中に位置づけてから詳細に分析するというスコラ学者の手法を採用し、個々の論題をしばしば数学的に分析した。ペロティヌスを筆頭とするノートル・ダム楽派の音楽家が作曲したいわゆるアルス・アンティクア[古い技法]の音楽は、リズム(時間の配列)という問題を提起していた。ガルランディアは、このリズムの問題に全面的にとりくんだ最初の理論家である。彼はさらに、音の休止の相対的な長さを表す各種の休符も発明した。休符は音を表す記号ではなく、音が存在しないことを表す記号である。存在しないものを示すゼロという奇妙なインド・アラビア数字が当時の西ヨーロッパにすでに普及していたことは、ここで指摘するだけの価値があるだろう。/

こうして、西暦1200年前後に音楽の実践者たちによって発明されたものが、理論家たちによって承認され、体系化された。それは、その内容とは独立して存在する物差しとしての時間、これを使えば存在するものばかりか存在しないものも計測できる抽象的な時間であった。ケルンのフランコはこう述べている。「時間という尺度メジャーを用いれば、音が持続する長さだけでなく、音が省略される長さも計ることができる」。つまり、従来のように時間の内容がその長さを規定するのではなく、時間がその内容を計量するようになったのだ。(……)/

アルス・アンティクアの音楽家たちが音と無音の長さを計量したのは1200年頃、西ヨーロッパで最初の機械時計がつくられる50年ないし100年前のことだった。そして、機械時計の発明とほぼ時を同じくして、音楽理論家たちが音楽を計量することを公認し、体系化した。彼らが数学的な比率と音が人間の耳に及ぼす効果の双方に敬意を表して築いた礎のうえに、今日正統とされているあらゆる西洋音楽が築かれたのである。

(p.197-203)

ものさしを当てて鉛管の長さを測ったり、レンガの数を正しく数えたりする計測・計量の営みは、古代においては「黒胆汁質」の人間にふさわしい卑賎で非創造的な営為とされていた。黒胆汁質すなわちメランコリー・タイプの人間には創造力が欠如していて、ともすれば極度の憂鬱・無気力に、あるいは悪徳・犯罪行為に陥りがちであるから、妙に独創性を発揮して社会的に華々しく活躍しようなどと思わず、地道にものを測ったり数えたりする職業について真面目に仕事をこなしていれば道を踏みはずすこともなく自他ともに安全であるとされていたのである。それがルネサンスに至って、マルシリオ・フィチーノをはじめメランコリカーを自称する人文主義者が数多く出て西洋思想を牽引した、その全般的な「メランコリーの復権」の背景にはそもそも、元来彼らにふさわしいとされていた計量・計測の職掌自体のかかる大々的な地位向上がまずあったのだということを、クロスビーの本は明瞭にかつ生き生きと教示してくれる。駆け足で読んできたこの本からもう一カ所だけ、妙なところを引用しておきたい。「ルネサンスから数学への最後の贈り物」、対数を考案したジョン・ネーピアに関する記述である。

ネーピアは1590年代に対数の研究にとりくんでいたが、熱狂的なカルヴァン主義者だったために、宗教改革をめぐる当時の騒然とした社会状況に気を逸らされがちだった。彼は『ヨハネの黙示録』を考察した論文の中で、ローマ教会を「あらゆる精神的背信行為の源」と決めつけた。そして、巨大な鏡を組み合わせて、敵軍の船が「いかなる距離にあろうと」正確に太陽光線を集めて焼き尽くす、というもくろみを述べていた。一般大衆はネーピアを悪魔の手先とみなしていた。もっとも、おおかたの数学者はその手合いと見られていたのだが。こうした事情で、彼がようやく『驚くべき対数の法則の記述』を出版したのは、1614年のことだった。この本はどのページも数字が列をなし、数字がさながら滝のように途切れることなく続いている。

(p.299-300)

測れるものの全てを測りつくそうとする数量化の営みに邁進することで、はたして人類が陰惨な悪徳犯罪や極度の憂鬱の到来を阻み得たかといえばむろん決してそんなことはなかった。しかしながら、古代において最も忌むべき劣悪な気質の源とされた黒胆汁が、初期近代の西欧において無数の計測結果で紙面を埋めるべく「滝のように途切れることなく」流れる黒インクという形で一世を風靡し、かつては誰ひとり思ってもみなかった特異で宏大な「驚くべき」創造性を誰はばかることなく燦然と発揮したことだけは確かなようだ。

2020.12.03

ornament

back to paneltop