Litterae Universales / melanchologia

コレクション序説

「ものを増やすというのは、本当におそろしいことですね!」   ―スナフキン

世の中に蒐集家と呼ばれる人種がいる。風景庭園というものも一面においては、見るに値する風景 sight の屋外博物館に他ならなかったが、いわゆる博物館文化及び視覚文化 鍵との関わりにおける蒐集の文化史については多くの碩学の書が語っていることであるからここでは述べない。ここでは、メランコリカーがものを集める場合の話をする。

ものを集める人はむろん昔からいた。図書館ははるか古代からあったし、植物や虫を集めるのが好きな人などは有史以前からいてもおかしくない。集めるという行為は、コレクションという文脈においては、保存するという行為と必ず裏表であるから、人類が木の実や穀物を保存することを覚えた時点ですでにコレクションという活動は潜勢態として胚胎されていたのかもしれない。博物誌的な書きものにしても、何もプリニウスが嚆矢というわけでもないだろう。プリニウスといえば例の、記憶術ブームのきっかけになった逸話を書き残した人である。近代初頭にリバイバルした記憶術においては、記憶すべきもの、あるいは想起されるべきものとは世界全体の構造に他ならなかったが、もしも、世界全体の構造を体現するような博物館なりアーカイヴを作ろうというバベル的な試みが実際に完遂されたとしたら、それはそのままそうした記憶術を視覚化・空間化したものに他ならないと考えられただろう。大航海時代以来七つの海を股にかけて世界中から様々な面白いものを集めてきては分類整頓して秩序づけ、世界まるごとの可憐なミニチュアとしての模型世界を構成する。それは、世界を計測し測量する営みの一種である。大勢で大掛かりにやれば万国博覧会にもなるが、個人でやればオタクになる。集めるものは人によってさまざまだが、自分の部屋ないし住居の中にいろんなものを集めて、何十年もかけて集めたもののなかに埋まって暮らしてほとんど一歩もそこから出ない、集めたものにくるまって生きていてそこから出されると死んでしまう蓑虫のような生命形態の人たちがしばしば出現する。クラウス流にいえば、それはそうしてさまざまな断片を貼り合わせて構成したアーカイヴ自体がその人の自我そのものになっていて、その人の本来空虚な自我が、みずからのアーカイヴにみずから付与した価値、あるいはそのアーカイヴを構築するという役割、に同一化することによって仮構的な自我同一性を保っているということになるだろう。自分の部屋と同一化する、あるいは服装と同一化するというのは誰しも多かれ少なかれあることだろうが、クラウス言うところのマニッシュ・デプレッシヴァはやはりここでも過剰に同一化したりする。

ムーミン童話には、ものを集める人がたくさん登場する。いろんな種類のコレクターがいるが、例えばいつもくよくよしているヘムレンさんというのがいて、これは切手を集めている。彼がある日ことさら憂鬱な様子でよろめき歩いているので、ムーミンたちが、どうしたのと尋ねると、言うには、自分はもう世界中の切手を集めてしまった。持っていない切手はもうどこにもひとつもない、もう集めるものがないんだ、どうしたらよかろう、これからどうやって生きていったらいいんだろうといってめそめそ泣く。そこで誰かが、それなら今度は植物を集めたらどうか。植物ならとても集めやすいし、「いくら集めても、きりがない」―その案をきいてヘムレンさんは大喜びして、気をとりなおして生きていくことにするという話だ。この例ではヘムレンさんは「いくら集めても、きりがない」というところに喜ぶわけで、つまり彼は集めおおせて完成したアーカイヴの総覧的価値よりもむしろ、蒐集行為そのものに同一化しようとするクチである。かと思えば「世界の終わりにおびえるフィリフヨンカ」なる女性がいて、彼女はガラス細工の子猫とかそういうかわいいチマチマした小物をたくさん部屋に集めて並べ、いつもきれいに掃除していて、留守にするときはいつもそのコレクションが心配で仕方がないという人だが、これが、「世界の終わり」のヴィジョンにいつも脅えている。海辺に住んでいるからこれまたアグリッパ三段階理論に忠実にのっとりつつ大洪水と嵐のヴィジョンだったりするのだが、そこで彼女が何に脅えるかというと、その「世界の終わり」において自分の小さなコレクションがだめになってしまうことだという、そのあたりはダヴィンチとは少々違うところだ。

いったいにムーミン谷というのはあらゆる種類のコレクターのふきだまり、ついのすみかだといえる。ここでコレクトする、あつめるというのは、自分の部屋とか庭とかをきちんと整えてそこに落ち着いて住むといった営為をも含むわけだが、例えばムーミンママが庭をとても大切にしている。あるとき一家でムーミン谷を離れてどこか海辺の灯台で新しい暮らしをしてみようというので出かけ、いろんな冒険があってそれなりに楽しいのだけれどもムーミンママはそのうち重度のホームシックにかかってしまう。鬱々として、ムーミン谷の我が家が恋しくて何も手につかなくて元気が出ないという、まああからさまなウツの状態を示すようになるのだけれども、あるとき灯台の殺風景な台所の壁いちめんにペンキで色とりどりの花を描く。部屋じゅうの壁いちめんを花でうずめてしまう、それでやっと安心して元気になる。言ってみれば、自分が大切にしている我が家の庭というものとママは同一化していたところ、その庭から引き離されてウツになったのが、壁に庭の絵を描くことで観念的にその庭を取り戻し、自己を回復したという古典的なストーリーである。あるいはムーミンパパはいつもシルクハットをかぶっているのだがこれを何かの拍子にどこかに置き忘れたりして見失ってしまうと非常に落ち着かないとか―要するに自分が愛着している何ものかに自我の安定が大きく依存しているという、そういう人たちが集まって住んでいるのがムーミン谷であり、放浪の自由民であるスナフキンさえ実のところ例外ではない。彼はものを集めこそしないが、どの話だったか、あるときふとこういうセリフを言う、「ものを増やすというのは、本当に恐ろしいことですね!」―つまり彼は、ものを―所有物を増殖させるという行為がメランコリーにまつわる、死に至る病だということを本能的に察知しているのである。そして制止看板というものが嫌いで、「立ち入るべからず」とかそういう看板をみつけると即座にひっこぬいてしまう。ある境界の中に閉じ込められることを非常に嫌う人物であって、ものを集めたりするというのが、ある境界の中にみずからを閉じ込める行為であることをも知っている、知っているから、そういう境界を設けないということをポリシーにしているらしく見えるのだが、あるポリシーを持つということ自体が、ある境界を設けることに他ならないとすれば、彼もまた例外ではなく、ものを集めないこと、境界を設けず、境界は乗り越えるという行為に価値同一化している。そういう、価値同一化とかコレクションとかいうことと唯一何ら関わりがないように見える登場人物、独立した孤高の自我を持っているように見えるキャラクターがムーミン童話の常連キャラの中にひとりだけいるが、それはだからスナフキンではなくて、チビのミイである。彼女が気質としてスキゾイドであるかどうかは、目下私の判断の及ぶところではないが。……きいた話だが、童話の好みによる性格占いというのがあるらしくて、熊のプーさんとスヌーピーとムーミンとどれが好きかで大体の性格がわかる、というものらしい。プーさんが好きな人は、いわゆるピーターパンシンドロームというか、大人になりきれていない甘えんぼうの子供なのだそうだが、あと二つの性格がどういうのだったか聞き洩らした。スヌーピーが好きなのがどういう人なのかわからないが、ムーミンが好きな人は言わずとしれたメランコリカーで、これは疑いがない。もしその占いで別のことが言われているとしたら、それはその占いが間違っているのだ。

あらゆるメランコリカーがものを集めるわけではないし、またメランコリカーでなくともものを集めることはあるだろうが、繰り返すがここではメランコリカーがものを集める場合の話をしている。テレンバッハのいう単極性メランコリカー、「メランコリー親和型性格類型」の人というのがいて、ものを集めているとしたら、その人はきっと、集めたものを几帳面に細心に秩序正しく整頓したりしているだろう。しかし一元論化しつつある――というより一元論化のあおりでむしろ多元論化しつつあるともおぼしい現在ではこの性格類型は表面的にはあまり当てはまらなくなっており、ものを集める鬱病患者が必ずしも几帳面な性格であるとは限らない。ごちゃごちゃに積みあげていたりして、ほとんどごみためのように散らかった蒐集物のなかに埋まっているマニッシュ・デプレッシヴァはべつだん稀でも何でもない。部屋のなかにうずたかく積もった一見無秩序な堆積はそのまま、その無秩序な堆積のままで彼の内にとりこまれ、そのまま世界の縮図として、彼の部屋に準備されている。準備されている、というのはつまり、別述するようにメランコリカーにとっては、知覚される、されたものどもは、常に何らかの魔術的変容を伴ってはじめて「世界」を構成する要素となるからである。一見整頓してあろうとなかろうと同じことで、また一見して躁ないし軽躁状態であるかそれとも平常に落ち着いて見えるかにもこのことは関わりがない。コレクションするメランコリカーにおいて幸福は常に魔術的変容において発現する。発現すれば、例えばこれらごちゃごちゃなものどもと一緒に世界というひとつの有機的統一体の中にたゆたっているという unio mystica 的世界が現出しうるし、あるいは、世界はこんなにも豊穣であるという至福の喜びを得、あるいは花を丹精するムーミンママのように平穏で幸せな「我が家」を得ることもできる。

『メランコリーの解剖』の中でロバート・バートン (1577-1640) は「世の中を支配するのは叡智ではない、デタラメである」と断言し、また「世界はごった煮(マカロニコン)である」とも言うのだが、いろんなものがごった煮状態に、まるでゴミ屋敷のように散らかり放題散らかっているのが世界だというこの世界観は、べつにネガティヴなものとしてあるのではなく、それはすばらしいことでありうるではないかという逆説的な言明であって、有機的統一体へと魔術的に変容されるべく準備を整えているところの世界観であるわけだ。変容されたならば、無秩序は、無秩序のままでひとつの秩序体となりうる。「世界はこのように散らかっているのである」という、整った世界観のなかへ麗しく回収される。無秩序というものは、無秩序という言葉で遺憾なく表現される限りにおいて、メランコリカーにとっては本質的に決して無秩序ではなく、来るべき秩序のために準備されている無秩序である。越境行為もメランコリカーにとっては実は越境ではなく、むしろ己の境界領域を拡張するしぐさである。例えば脱構築というものをメランコリカーが夢中になってよろこんで行えばそれは脱構築という名の構築の営みであって、今こそ脱構築をめざそう、などといって脱構築のための体勢を整えたりして、脱構築の殿堂を築き上げるようなことにもなりかねない。何か一本の筋を通すなんてマッチョで保守的なことはいっさいご免だ、などという筋をマッチョに通してみたりする。ベンヤミンによれば、蒐集家は、ものをコレクトすることによって、そのものを「本来の使用価値から解放し、かわりに愛着価値を付与する」のだそうだが、つまり切手を集めるとして、集めた切手を蒐集家は使わないから、集めることによって切手から使用価値を奪うことになるけれども、それは蒐集家の側からすればあくまでも「奪う」のではなくて、使えるという使用価値から切手を「解放する」という方向になる。そして、使用価値のかわりに愛着価値を与えた切手を、まさにその切手という物体として愛する。「使われるもの」であった切手の本質を、「愛されるもの」という本質へと変貌させる。蒐集家はこのとき、その切手を愛するという行為、あるいは、愛される切手のその愛着価値そのものに同一化する、そういうかたちで、価値同一性が生じることになる。「切手が分身」といったことはこのようにして生じる。あるいは個々の切手の膨大な集積であるコレクションの総体がおのれ自身であるということになる。つまるところ、コレクションという営為は、ひとつの世界の構築への意志であるといえる―その世界が自分自身であるところの、その世界に同一化することによっておのれが存立し得るところの、世界、を構築する意志であり、したがって同時に己を構築する意志でもある。むろんこの「意志」は、当人がそれを意識して意志しているかどうかとは関係がない。だから場合によっては、この、集めて構築する意志は、集めたものを捨て、構築しかけたものを破壊しつづけてやまないという逆の形で現象することもある。自分が集めて構成した部屋なり世界なりに過剰に同一化することを恐れるがゆえに(つまりそれは自由を剥奪されるということだから)、一ヶ月ごとに引越ししてばかりいる引越し魔とか、あるいはスナフキンのように異常なまでに境界というものを忌避するとか、それはつまり、ある外部への依存・同一化を過剰に恐れるしぐさであるわけだ。それは、一方では、自己同一化したナルシスティックなありかたをルサンチマン的に忌避するしぐさでもあるだろうが、もう一方では、同一化が剥離したときの急転直下の索漠たる奈落、すなわち鬱転の到来を恐れるしぐさでもあるだろう。世界を支配するのががらくたである、あるいは具体的に自分の世界を構成するものがあるコレクションであるときに、魔術的変容が有効に働いているうちは幸福でありえても、魔術が効を奏しなければ、あるいはいったん生じた変容が失われたならば、がらくたは単なるがらくたであり、相互の連関を失っててんでんばらばらに散在するゴミ、塵芥にすぎなくなる。それら相互の関係も失われるし、それらと自分との関係も失われる。ある人が世界の「キップル化」という言葉を使ったが、身の回りのものがすべて、勝手に増殖する無意味な、全く意味も存在意義もわからないキップル(=がらくた)、無用なガジェットと化す。それらが組み合わされば何かすばらしい世界観が構築されうるということは頭ではわかっていても、その構築、魔術的変容が生じない、その局面から引き剥がされてあるとき、ガジェットは、決して組み合わせられることのない無意味なキップルとなって散らかってしまい、自分自身もまた、それらと同じ無意味なキップルのひとつにすぎないことになる。天国と奈落のその落差たるや、なかなかに恐るべきものである。デューラーのメレンコリアの版画には、女性像の回りにコンパスとか定規とか犬とかいろいろなものが乱雑に散らかっているが、これは、魔術的変容を待っている状態であり、場合によっては恐るべき無意味なキップルの散乱と化すこともありうる「ごった煮」の状態である。女性の強いまなざしは、すぐにもキップル化してしまうかもしれないそれらのものの―世界の散乱を、ぎりぎりの魔術のふちで食い止めようとする意志ならぬ意志をその内に秘めているのである。

ついでなので自己構築とナルシシズムという話をしておこう。この自己構築においてメランコリカーは、たいへん雑駁に言うとおおむね二つのタイプに分れることが観察される。「コレクター型」と「パフォーマー型」である。両方ともものを集めて愛着価値を付与し、これらのガジェットを配置・構成することで世界=自己を構成することにかわりはないのだが、コレクター・タイプは、自分の外側にものを集める。ものを集めて空間ないし擬似空間を構成してそこに住む。これに対してパフォーマー・タイプは、自分の内側、ないし自分の皮膚に密着したところにものを集める。いってみれば空間というよりは立体としての身体そのものを構築してその中に入って動く。構造原理は同じなのだが、集めたものと、自分すなわちそこに仮構築されるところの自己との具体的な距離のありかたが両者においては異なる。いずれも、構築がきちんと行われているかどうか、常に、あるいはしばしば、あるいは時に、確認したいという欲求を持つが、その確認は当然ながら、集めたものの様態を知覚することによって行われる。視覚によってとは限らないが知覚・感覚によって確認する。したがって、集められたもの、コレクションがどのような様態を呈示しているか、その現象形態、appearance が常に問題になる。

コレクター・タイプの場合は、集めたものが外側から自分をとりまいているから、コレクションから自分のほうへ向かっての―つまり外側から内側へ向かっての appearance が問題になるわけで、集めたものをきれいに並べたり、わかりやすいように整理したり、整理しなおしたりということが、(実際に行わないまでも)不断の必須の欲求となり、昔言われたところのメランコリー親和型性格における几帳面さ、というものに似た様相がそこに観察されることになる。一方、パフォーマータイプの場合は、集めたものが自分の身体に密着しているので、コレクションの appearance は、自分の身体そのものから外側へ向かうアピアランスとなる他はなく、それを確認するには、他人に見てもらうか、鏡を見るか何かするしかない。着るものにこだわる、いわゆるスタイリッシュな人などはこちらのタイプ(ボードレールのダンディズムなどもここに含まれる)であるが、このタイプをパフォーマータイプと呼ぶのはつまり、コレクタータイプにおいて、自分のコレクションを不断に整理しなおしつつ内側へ向かってちゃんと appear しているか否かを確認する行動が、こちらのタイプにおいては、自分の身体がちゃんと振舞えているか、外側へ向かってちゃんとした appearance を構成しているかを確認する、つまり自分の身体がちゃんとパフォームしえているかどうかを確認するという行動になるからで、こちらのタイプは、その確認行動があまりあからさまになって鏡ばかり見るようであると一般にナルシストと呼ばれる。それに対してコレクタータイプのほうは、あまりあからさまになってコレクションルームに引きこもってばかりいると一般にフェティシストと呼ばれる。この両者はそしておおむね相性が悪く、「鼻持ちならない気障野郎」「ダサいオタク」等々と互いに蔑みあう様子が見られるが、両者は、問題になるコレクションのアピアランスが外側へ向いているか内側へ向いているかが異なるだけで本質的にはさしたる違いがなく、ののしり合いも実のところ目糞鼻糞であるといえよう。もちろん両方の様相が混ざることも多い、というかたいていの場合は混ざっているし、アピアランスにこだわる度合いもむろん人さまざまであるけれども。ちなみに多くの学者はコレクター・タイプであり、芸人は一般にパフォーマー・タイプである(当たり前だが)。芸人の場合、身体に密着したところに集めるものとは当然、芸 鍵 ないしワザ ars そのものに他ならない。

2010.5.10 | 更新 2021.05.11

ornament

back to paneltop