Litterae Universales / scriptorium

歴史からも詩からも離れて ―ドン・キホーテと『学問の進歩』

小説の歴史について私が知るところは少ない。「近代小説」とは何かということも、ろくにわかってはおらず、かろうじて以下のようなことを聞き齧っている程度だ。明治初期の日本に西洋の小説が流入した19世紀後半、西欧ではもう小説というジャンルはすっかり確立しており、ディケンズだのユーゴーだのという有名な文豪たちが大長編を盛んにものしていた。日本ではおおよそ1880年代くらいから西洋の小説類、長篇も短篇もあれこれ盛んに翻訳されたり翻案されたりするようになり、西欧の真似をして新聞というものも新しくできて、新聞にも小説を載せるということが始まる。さてそこで、日本の新聞および新聞小説の分野を切り開いた黒岩涙香が、自分の発刊した新聞にデュマとかユーゴーとかそういう有名な西洋の作家、あるいはもう少し有名でない作家のロマン派的な作品をたくさん翻訳・翻案して載せるさいに、当初は「これはある老人が語った実話である」というような前置きをつけることを忘れなかったという。西洋ではそんな前置きはとうに不要になっていたが、19世紀に小説というものを新しく取り入れた日本では、それが人々の中に根付くまでの間、「これは本当にあった話です」というタテマエを丁寧に触れ混んでおく必要があったそうで、いつどこでそういう話を誰に聞いたのか、どこで読んだのか完全に忘れてしまったけれども、これはなかなかに面白い話だと思ったものである。「近代小説の誕生」に関して私がかろうじて抱いていた茫漠たるイメージはそのようなものであった。最近、といっても3年ほど前になるが(現在2021年である)、同僚2名とともにざっくりとした「文学」に関する学部生向けのリレー講義を行ったとき、うちひとりの同僚が「近代小説の始まり」について語るのを面白く聞いたが、かれによれば西洋においてもやはり当初は「これは本当にあったことだという触れ込み」が必要とされたそうで、それをかれは「表現形式のリアリズム」と呼んでいた。「本当にあったことだという触れ込み」のもとで叙述を行うということは、言い換えれば歴史叙述を模倣するということに他ならない。「近代小説」の嚆矢とされる作品としてかれは『ドン・キホーテ』を取り上げ、そのもろもろの「小説」的特性を解説する中で、「書き手が歴史家のふりをする」という「ジョーク」に触れた。それが私にはことさら興味深く思われたので、ひとまずかれがそのときハンドアウトとして配布した資料から、『ドン・キホーテ』の引用を二カ所ほど又引きしてみる。

ところで、この物語の信憑性について何か疑義が呈せられるとしたら、もっぱらそれは、作者がアラビア人であることに由来するものであろう。嘘をつくというのはあの民族の本来的な性質だからである。しかも、彼らはわれわれに激しい敵意を抱いているのであってみれば、同じ嘘でも、作者は事実を誇張するというよりはむしろ書き渋るという傾向にあることが推定されるし、実際わたしにはそのように思われる。というのも、あれほどあっぱれな騎士の称賛にもっともっと筆を揮うことのできる、いや揮ってしかるべき時にあっても、なぜかそれを意図的に黙殺しているからである。これは由々しい事実であり、ひどくよこしまな考えにもとづくものである。なぜかと言えば、いやしくも歴史家たる者、あくまでも精確を期し、真理を求めるべきであり、決して感情に左右されたり、なんらかの利害や恐れ、あるいは私怨や愛憎に影響されたりして真理の大道から足を踏みはずすようなことがあってはならないからである。あくまでも重要なのは真理であって、その母たる歴史は時間のライバル、出来事の保管所、過去の証人、現在の手本にして教訓、そして未来への警告なのである。さて(……)

(『ドン・キホーテ』牛島信明訳、岩波文庫、第3章
2018年度「人文学入門(文学)」尾方一郎講義配布資料より)

ここでいう「この物語」とは、『ドン・キホーテ』全体の著者であるという体裁の者がとある市場で「発見」した騎士物語、すなわち『ドン・キホーテ』物語の原型という設定の叙述資料のことらしい。『ドン・キホーテ』はメタフィクショナルな自己言及とセルフ・アイロニーに満ちた複雑な入れ子構造を持っていて、それが近代どころか「現代小説の祖」などと呼ばれる所以になっているようだが、そのことはさておき、上の引用においては、語り手が「歴史家のふりをし」て「真理」「の母たる歴史」叙述を称揚し、みずから真実を語ることをもっぱらめざしているかのような姿勢をもっともらしく呈示しながら嘘八百を語る、という「ジョーク」が思うさま展開されていることは遺憾なく感知される。他方、

「わしの想像するところでは」と、ドン・キホーテが言った、「この世の人間にまつわる話で浮き沈みのないものはないが、騎士道を主題としたものの場合はとりわけそうじゃ。なにしろ武運めでたい事柄ばかりからなる騎士道物語など決してあり得ないからの。」

「そうではありましょうが」と、学士がひきとった、「あなたの物語を読んだ者のなかには、ドン・キホーテ殿があちらこちらの合戦で受けた無数の棒打ちを、作者がいくらかでも忘れていてくれたらありがたいのだが、と言う者もおりますよ。」

「そこにこそ物語の真骨頂があるんだよ」と、サンチョが言った。

「だが、公平という観点からすれば棒打ちをいくらか黙殺してもよかったであろうて」と、ドン・キホーテが言った。「べつに物語の本質を変えたり歪めたりすることのない事柄で、それが物語の主人公の名誉を汚すおそれがある場合には、そんなものをわざわざ書くには及ばぬからじゃ。まったくの話、アエネアスはウェルギリウスが描いているほど信心深い男ではなかったし、オデュッセウスもホメロスが書いているほど思慮深い男ではなかったはずだからの。」

「それはたしかです」と、サンソンが応えた。「しかし、詩人として書くのと歴史家として書くのとでは、おのずから違いがあるんです。詩人は事柄をあるがままにではなく、こうあれかしと述べたり歌ったりすることができます。これに対して歴史家は、こうあれかしではなく、事柄が実際に生起したままを、真実に何ひとつ付け加えたり省いたりすることなく書かねばならないのですから。」

(同上)

「物語」をメリハリのある面白いものにするためには、多少の虚偽や誇張も時には必要で、細部まで真実にこだわらなくてもいいのではないかという意見に対して、サンソンなる人物は、いやいや同じ「物語」でも「詩人として書くのと歴史家として書くのとは違う」、詩人は、メリハリのある感動的なものにするために真実に脚色を加えて「かくあれかしという理想」を歌うので構わないが、歴史叙述はそれではいけないのだと主張する。今スペイン語の原文に当たることができないが、おそらくこの「物語」は historia なのであって、フランス語の histoire 同様、現代でも「物語」と「歴史」というふたつの意味を併せ持った単語であるから、上の引用で「そこにこそ物語の真骨頂がある」と訳されているサンチョのせりふは本来「そこにこそhistoriaの真骨頂がある」の意であろう。「historia の真骨頂」なるものをサンチョは、「事実をありのままに述べること」だと捉えているのであり、ドン・キホーテは「だが(……)historiaの本質を変えたり歪めたりすることのない事柄で、それがhistoriaの主人公の名誉を汚すおそれがある場合には」事実の叙述にも多少の手加減があって構わぬはずだと主張する、それを受けてサンソンなる人物が、それは詩人がhistoriaを書く場合のことだ、と述べるわけである。この「ドン・キホーテの物語 historia」は果たして詩をめざしているのか、はたまた歴史叙述をめざしているのか、そのあたりをめぐって当の物語の登場人物が侃々諤々意見を交わしているという、そのセルフ・アイロニックな趣向が楽しい「ジョーク」たりえているのはよいとして、historia をめぐるこうしたトピック自体は至って真面目なトピックであって、言ってみれば、虚構の作品としての物語がそういうものとして花開いていこうとする時代にいまだそれを歴史記録から区別する単語がなかった(言語によっては今でもない)ことに拠って来たる、まことに深刻とさえいえるトピックなのであった。historia という枠組みで、一体どこまでやっていいのか? そしてこのトピックは単に破天荒な稀代の文筆家セルヴァンテスがその天才的想像力を以て花火のように突如打ち上げた、刹那的な趣向に由来するものでは決してなかった。

『ドン・キホーテ』は前篇が1605年、後篇が1615年に刊行されたとのことだが、前篇が出たという奇しくも同じ1605年に、有名なフランシス・ベーコンの『学問の進歩 The Advancement of Learning』もまた出版されている。この書物に記されている諸学問分野とその分類は、現代の図書館における図書分類の基盤となったことでも広く知られているが、当然ながら現代のわれわれが学術分類ときいてパッと思い浮かべるそれとは大いに趣を異にしている。まず大きく「人間(の知力)による学問」と「神(の啓示)による学問(神学)」の二種類に大別されているのはよいとして、前者は、

  • Ⅰ. 歴史学(記憶力がつかさどる学問)
  • Ⅱ. 詩学(想像力がつかさどる学問)
  • Ⅲ. 哲学(理性がつかさどる学問)

の三種に分かれている。明治初め、東京帝国大学の「文科」に哲学・歴史学・文学の三つの学科が置かれたことに端を発するという「哲史文」なる分類がいまなお時に云々されるが、この非常に伝統的な三区分はもとをたどればベーコンに行きつくわけである。ただし三区分それぞれの内実は現代とは相当に異なっており、「文」にあたる「Ⅱ.詩学」には、「Ⅰ」「Ⅲ」それぞれにおいてたくさん列挙されているような下位区分がなく、「詩学」オンリーであってしかもページ数が「Ⅰ」「Ⅲ」に比して極端に少ない。文庫本で400ページになんなんとする全体のうち「詩学」に費やされているのはわずか5ページにすぎない。その中でかろうじて「詩」の中の小区分として「叙事詩」「劇詩」「風刺詩」の三種類が挙げられる。そしてこれら各種の詩がどのようなものであるかについて、それぞれ歴史叙述との関係性において述べられているのであった。『ドン・キホーテ』の中でサンソンがいう、「詩人は事柄をあるがままにではなく、こうあれかしと述べたり歌ったりすることができ」るのに対し「歴史家は、こうあれかしではなく、事柄が実際に生起したままを(……)書かねばならない」という考え方は、基本的にベーコンの記述とも共通しており、また現代人の感覚にもごく自然にマッチするものだが、ただしベーコンの学問観においては「詩 poesy」と「歴史叙述 history」とはやはりもとから画然と分かたれているものではなく、「詩」自体そもそも一種の歴史叙述であり、ただし大いにフィクション要素があるもの、と捉えられているようである。もっとも、「詩」という言葉はベーコンのこのテクストにおいては、これまた現代の我々が「詩」ときいてパッと思い浮かべるようなものとはかなり異なる文の範疇を指す。「詩」の区分として「叙事詩・劇詩・風刺詩」とあって「抒情詩」が入っていないのは、およそ「学問」の対象となるようなジャンルとしての「抒情詩」はこの時代まだ成立していなかったゆえである―もちろん、恋の歌や愛の歌、哀悼の歌、恨みの歌など、現代ならば「抒情詩」と呼ばれるであろうような詩、ないし「うた」そのものは、人間の記憶が遡りうる限りはるか昔から歌われていただろうし、17世紀初頭のこの時代、すでにシェイクスピアが数々のソネットを書きもし、上流階級における社交の一手段としても、抒情詩的な詩はいくらでも流通していたのだが、ベーコンの「学問」分類の対象としては、いまだ数え挙げられてはいないのであった。

詩は、韻律の点では大いに制約されているが、しかし他のすべての点では、極度に無拘束な学問の部門であって、ほんとうに想像力に関係するものである。想像力は、物質の法則にしばられることなく、好き勝手に、自然がひきはなしているものを結びつけ、自然が結びつけているものをひきはなし、自然の法則に反する結婚や離婚をさせるのであって、「画家や詩人には、創作の自由がある」(ホラティウス『詩篇』九)といわれているとおりである。詩は、その言語を考えるか、その素材を考えるかによって、二様の意味に解される。第一の意味では、詩は一種の表現様式にすぎないので、言語の技術の問題となって、当面の問題とはならない。第二の意味では、詩は、(まえにも述べたように)学問の主要な部門の一つであり、ほかならぬ仮作の歴史であって、韻文で書かれたものでも散文で書かれたものでもそういうことができる。

(フランシス・ベーコン『学問の進歩について』服部英次郎・多田英次訳、岩波文庫、p.146-7)

ここでいう「想像力」に関してはひとまず別稿を参照されたいが、この時代のこのベーコンがどういう意味でこの言葉を使っているのかについては、軽々に挙言することは難しいからここでは措く。「その言語を考えるか、その素材を考えるかによって、二様の意味に解される」云々とあり「第一の意味では、詩は一種の表現様式にすぎないので、言語の技術の問題となって、当面の問題とはならない」というのはすなわち、具体的な詩作技術および、技術的な詩の構造、については「詩学」が扱う範疇にはなく、思うに「Ⅲ.哲学」のうち「人間哲学」の中で扱われている「伝達の術」において扱われる範疇にあるということである。そして「詩学」は、「第二の意味」において詩を扱うのであり、この「第二の意味」すなわち「その素材」に関わる限りにおいて、詩は「詩学」が扱う範疇のものである。そしてその「素材」とは「歴史」であり、「詩」とは、「歴史学」が扱う歴史とは異なり「仮作の歴史 feigned history」、フィクショナルな歴史だというのである。feignというのは現代ではあまりお目にかからない単語だが、辞書によれば「~を装う、~のふりをする」の意であり、かの同僚が『ドン・キホーテ』について言ったところの「書き手が歴史家のふりをする」ジョーク、という文言はまさしくベーコン言うところの feigned history なる文言と歩調を合わせているのであった。そしてベーコンによれば「韻文で書かれたものでも散文で書かれたものでも」ひとしくこの feigned history は「詩」なのであり、サンソンに言わせればそれがすなわち「詩人が書く」「歴史 historia」なのである。

この仮作の歴史の効用は、世界のほうが人間の魂 soul よりもその品位がおとっているので、事物の本性が人間の精神 mind に満足を与えないような場合に、ある満足の影のようなものを与えることであった。そうしたわけで、詩には、人間の霊 spirit の要求に応じて、事物の本性に見出されうるよりも豊かな偉大さと、厳格な善と、完全な多様性とがあるのである。こういう次第で、ほんとうの歴史上の行為とか事件とかは、人間の精神を満足させるほどの偉大さをもたないから、詩はそれよりも偉大で、かつ英雄的な行為と事件とを仮作するのである。ほんとうの歴史は、行動の結末と成行きを、因果応報の理に応じて述べないから、そのゆえに、詩は、それらがもっと正しく応報をうけ、神の示された摂理にもっと一致するように仮作する。ほんとうの歴史は、行動と事件を整然と、変化とぼしく描きすぎるから、そのゆえに、詩は、それらにさらに多くのめずらしさと、さらに思いがけない、あれこれとさらに多くの変化をつけ加える。こういうわけで、詩は、寛容と徳行に、また、愉楽に役立ち貢献するように思われる。そして詩は、いくらか神性をおびているとつねに考えられたが、それというのは、理性 reason が精神 mind をねじまげて事物の本性 nature に従わせるのに反して、詩は、詩に現れる架空のできごとや人物を精神の欲求に従わせることによって、精神を立ち上がらせ直立させるからである。そして現にわれわれのみるとおり、詩は、このように人間の本性 nature に合致しその快感にたくみにとり入ることによって、なおそのうえに、詩が音楽と合致し連繋していることによって、他の学問が存在していなかった未開の時代にも、野蛮な地域にも、もてはやされ、とうとばれたのである。

(同上、p.147-8)

読みにくい日本語であって、原文の英語で読むほうがわかりやすいのではないかとも思うが、それはそれで厄介なので、読みにくいままに少しく繙いてみる。「ほんとうの歴史上の行為とか事件とかは、人間の精神 mind を満足させるほどの偉大さをもたないから、詩はそれよりも偉大で、かつ英雄的な行為と事件とを仮作」し、「ほんとうの歴史は、行動の結末と成行きを、因果応報の理に応じて述べないから」「詩は」「もっと正しく」「神の示された摂理にもっと一致するように仮作する」―ここでは、現代の我々の目から見れば「人間の魂」やら「精神」やらがひどく過大評価されているようにも見えるが、「魂 soul」のほうに限って述べるならばそれは「神の似姿」としてのそれであり、あらゆる物質性から解放されてあるところの、あえていうなら純粋な精神性である神の似姿として、その「偉大さ」のいくぶんかを分有しているはずのものである。その「魂」がやがて救済され昇天するときには、地上のできごとであり物質的な事象であるところの「ほんとうの歴史」は所詮打ち捨てられるべき低位のものにすぎない―神がこの世を創造したときに籠めたはずの偉大で完全な「摂理 providence」は、「ほんとうの歴史」をありのままに語るだけではとうてい語り表すことはできないが、「詩」として、すなわちフィクショナルな工夫を施しつつ語るならば、その「摂理にもっと一致するように」歴史を語ることができるだろうというわけだ。他方ここで「精神」と訳されているのは原語は mind であって、この英語のmindなる語は私にとっては極めてわかりにくく、spirit あるいは soul という旧来の神学用語では語りきれない文脈において要請された非常に近世的ないし近代的な語、すなわち今でいう「心脳問題」というか、身体器官のひとつである脳の働き、にやがて対置されるべく浮上してきつつあった語であるように思われるが、一知半解でものを言うのは控え、ここではこの「精神」はわりあいに普通の意味で「心/こころ」と訳されるべきようなものに当てられた語であって、神学的に言うところの「魂」とは異なり、むしろ現代の信仰薄いわれわれが「魂」などとしばしば呼びたがるような、その人固有の知性のありかたからさまざまな俗世的な欲望や感情までもひっくるめて、ひとりの人間がこの世にあって日々様々なことを考えたり思ったり感じたりする「こころの動き」が座するところのもの、の意であると理解しておく。「理性が精神 mind をねじまげて事物の本性に従わせるのに対して、詩は、詩に現れる架空のできごとや人物を精神 mind の欲求に従わせることによって、精神を立ち上がらせ直立させる」という部分は一見少々混み入っているが、原文を見るに、

And therefore, it was ever thought to have some participation of divineness, because it doth raise and erect the mind, by submitting the shows of things to the desires of the mind; whereas reason doth buckle and bow the mind unto the nature of things.

(Project Gutenbergのページより)

詩 poesy が「mind を立ち上がらせ直立させる」ことができるのは、詩が「ものごとの見かけ shows of things」を「こころの欲求に従わせる」ことによってであり、これに対して reason は「こころ」のほうを「ものごとの本性 nature of things」に「ぐっと曲げて従わせる buckle and bow」。この時代の、このベーコンが reason という語をどのように使っていたのかについて正確なことを私は語ることができないし、そうでなくとも英語の reason はドイツ語の「理性 Vernunft」よりもはるかに意味が広いから、ここでこの reason が「理性」と訳されているのが至当であるのかどうか俄かに判断することができないが、shows of things と nature of things が対置されているように、poesy と reason もまた対置されているのならば、この reason は理性というよりもむしろ「道理」とか「理屈」などと訳すべきものなのではないかと思わないこともない。逆にもしreason が「理性」と訳すべきものならば、poesy のほうもそれに応じて、実は「詩」ではなく「詩情」等と訳すべきものなのかもしれない。しかしそれこそ一知半解のまま考察しても何ら得るところはないから措くことにし、ここでの poesy と reason の対置はあくまでも「詩」と「歴史叙述」の対置の一環として理解することにする。そうすると、重要なポイントとして、詩は「ものごとの見かけ」をして「こころ」の本性に従わしめ、他方歴史叙述は「こころ」をして「ものごとの本性」に従わしめる、というシンプルな図式が抽出され、これが、ベーコンのこの短い詩論において、詩と歴史叙述の根本的な差異を明示する図式であることがわかる。「ものごと things」すなわちこの世界を構成する事物は、「人間の魂 soul よりも品性がおとって」いるので、それらの本性に従わされるとき人間のこころ mind はその上にかがみこむ bow ような形でゆがめられ、屈託させられるが、そのような事物 things にあっても、その「見かけ shows」を人間の mind に従うように配列することは可能であり、そのようにものごとを配列することで、人間の mind が屈託しなくてよいように「直立させる」のが詩の役割だということなのである。これは叙事詩についての話だが、劇詩についても根本は同じで、ここでは要するに、偉大かつ善なる世界に対する正しい認識のために人間の「こころ」を解放すること―「おとった」ものごと things のくびきから「こころ」を解放して、それらのものごとの「見かけ shows」を利用して人々を「直立」的にすなわちダイレクトに、偉大かつ善なる生へと向かわしめること、が第一に念頭に置かれているのであって、言い換えれば民衆の教化ということが「詩」の第一の機能であり社会的役割であると考えられているのであった。中世に非常な人気があったボエティウス『哲学の慰め』が対話と詩文とで書かれていたのも、(いろいろな「歴史」的経緯があるだろうが)ひとつにはそういう観点からも大いに納得されたことだろう。「なおそのうえに、詩が音楽と合致し連繋していることによって」この機能はたいへん強化されていたというのが、具体的にどういうことであるのかについては、残念ながら『学問の進歩』には書かれていないが、17世紀に至っても、音楽というものがそもそも神の手になるこの世界全体の調和 harmonia をそのまま反映している/すべきものであるという考えが根強くあったことを考え併せれば、ものごとの「見かけ」に加えて聴覚的な harmonia の一端がこれもまたダイレクトに「こころ」に作用することによって、この直立的教化というべき詩の機能がよりいっそう効果的になると考えられたとしても決して不自然ではないだろう。

その特性から考えて、詩にもっともよくあてはまる区分は、(……)叙事詩と劇詩と風刺詩との区分である。叙事詩は、歴史の単なる模倣にすぎないのであるが、ただ、さきに述べたように、現実をこえたところがある。そしてその主題として、ふつうは、戦争と恋愛を選び、国事を選ぶことはまれであり、ときとして逸楽と愉楽を選ぶ。劇詩は、まのあたりにみる歴史のようなものであり、歴史があるがままの、(すなわち)おこったとおりの、行動の映像であるように、劇詩は、まのあたりに見るようにみせかけた行動の映像である。このあとのほうの種類の、寓意的な知恵は、アイソポスの寓話や七賢人の箴言や象形文字の使用よってもあきらかであるように、むかしはもっとよく用いられたのである。そしてその理由は、当時、一般人が理解できないような、鋭くて、微妙な、なんらかの理性の結論を、そんなふうに表現することが必要であったからであるが、それというのも、当時の人びとは、いろさまざまな実例も鋭敏な知力も欠いていたからである。そして象形文字が表音文字以前のものであったように、寓意は論証以前のものであった。それにもかかわらず、寓意は、いまも、またいつでも、大きな生命と力をもっているのであるが、それというのは、寓意を必要としないほどに、理性が曇りなくあることも、実例が適切であることもできないからである。

(同上、p.147-8)

「一般人が理解できないような、鋭くて、微妙な、なんらかの理性の結論」というのもわかりにくく、「理性の結論 point of reason」はここでもむしろ「道理でものを考えていく場合の要点」というようなことであろうかと考えられる、すなわち、何でもいいが例えば「人を呪わば穴二つ」とかそういった「鋭くて微妙な」、「アエソポス」すなわちイソップの寓話にみるような簡潔な教訓のようなものを、「鋭敏な知力を欠いた」「一般人が理解」できるような「寓意」に変換して呈示するのが「風刺詩」のひとつの役割である、という。他方劇詩 representative (poesy)については「まのあたりにみる歴史のようなものであり、歴史があるがままの(……)行動の映像であるように、まのあたりに見るようにみせかけた行動の映像である」という、この箇所は原文では以下のようである。

Representative is as a visible history, and is an image of actions as if they were present, as history is of actions in nature as they are (that is) past.

(Project Gutenbergのページより)

すなわち、劇詩 representative poesy とは「視覚化された歴史叙述 historia」であって、「あたかもそれが今まさにそこにある present かのような像 image」(として呈示されるもの)であり、他方(本来の)歴史叙述とは、その(ものごと things としての)本性 nature のままにかつて生起した past ところの行為(の連鎖)、すなわち(that is)過去 past を語る語りなのだ、ということである。訳文には反映されていないところの present と past の対置が面白いが、この「像image」はむろん「想像力 imagenation」という語に含まれているところの「像 image」の意であって、ものごとを理解・把握するに際しての視覚的な手がかり、ないし、諸概念が視覚化 imagenate されたもの、ということであって、visible であるということはすなわちそれが image であるということに他ならない。このことは、「劇詩」なるものが実際に台本化され目に見える舞台演劇として上演されるときのことを考えれば容易に理解できるだろう。劇化し、時に実際に舞台に上げることによって、観客の目の前で今まさに歴史が展開しているかのように見せる、その営為もまた show と呼ばれるが、そうした show すなわち「見せもの」によって、歴史上のできごとは過去から現在へ引き写される、それが劇詩 representative の核心とされていることは、まさしくこの re-presentative なる名称から理解できることでもある。過去には実際に現在であったところのものごとを、「再び」現在の舞台に載せるのである。1605年という年はシェイクスピアの『リア王』が書かれた年でもああったが、同年に前篇が上梓された『ドン・キホーテ』の主人公が、過去の historia としての騎士道物語に夢中になるあまり、みずから今まさに騎士道物語の主人公たらんとした、それはまことに本質的に representative な営為なのであった。

ところで、このころには活版印刷がすでに相当に普及して、写本時代よりもはるかに書物というものが手に入りやすくなり、ひとつの同じ書物がヨーロッパ全土に普及する速度がずいぶん増していたと思われるが、ベーコンのこの『学問の進歩』は、学術に関する論文のようなものとしては最初に英語で書かれた書物であるとされている。学術的なテクストは西欧では中世以来ラテン語で書かれるのが普通であり、ラテン語が当時のいわば学術グローバル言語としての役割を果たしていたのが、14世紀ごろからだんだんと、英語やドイツ語やフランス語やスペイン語やそういう各国言語、土地言葉ヴァナキュラーでものを書くということが始まり、17世紀に至ってこの趨勢がいよいよ強まった。ここにはおそらく活版印刷の普及というテクノロジー革命も大いに作用していたと思われるが、他方、絶対王政の時代がきていわゆる国民国家の形成が進んだこともあり、中世以来長く続いたラテン語グローバリズムへ叛旗を翻すという意味あいもあっただろう。ルネサンスを経て、学問そのものを新しく展開させようという動きと、それを記述する言語を新しくしようという動きが連動するのは当然の話だし、ラテン語は古い言語であるから、神とか聖書とか善悪とかを論じているうちはいいけれども、新しい時代の新しい事象をつぶさに記述していくのにはどうしても不便だということもあった。現在、ラテン語を公用語としている唯一の国はバチカンであり、バチカン市国の国家元首はローマ法王で、この法王の権威のもと、今でも定期的に、ラテン語に新しい語彙が公式に加えられる。古代以来のラテン語にはない単語を時代に合わせて新しく作って、ラテン語の公式語彙に加えるという宣言が行われることになっているのだが、確かつい十数年前のこと、「CD」「ミニスカート」などの単語がラテン語に加わったというニュースを見た記憶がある。ミニスカートの加入がずいぶん遅かったなと思ったものだが、ことほど左様に、古い古代言語をアクチュアルに使用し続けるにはそれなりの苦労があるのだ。それはともかく17世紀ごろから徐々に誰もが自分のネイティヴ言語でものを書くようになっていき、その趨勢の中でベーコンは英語で『学問の進歩』を書き、セルヴァンテスは『ドン・キホーテ』をスペイン語で書いた。この2人の著書が同じ1605年に出たからといって、お互いがお互いのものを読んで書いたとか、どちらかがどちらかのものを読んでから書いたとか、どちらかがどちらかを剽窃したということにはむしろならず、たまたま同じ年に出たふたつの、言語もスタンスも全く違う著作に、詩と歴史に関する似たような記述があるということは、そうした考えが西欧全体においてひとつの共通了解をなしていたということに他ならないだろう。『ドン・キホーテ』の「ジョーク」は、この共通了解を前提としてはじめて成り立つものであったし、その「ジョーク」としてのその本質はやはり、「書き手が歴史家のふりをする」ということよりも、そうしたベーコン的な枠組みについて当の主人公たちがメタフィクショナルに談義を交わすなどして構成が入れ子状に増殖していくことで、historia という概念がそもそも内包する境界不明瞭性がとめどなく自己増殖していくところにあるだろう。「書き手が歴史家のふりをする」のが詩人の詩作の「真骨頂」であるとして、「ならば、どこまでその re-presentation をやっていいのか」という至って生真面目な冒険こそが、ドン・キホーテの冒険そのものに他ならないのではあるまいか。荒唐無稽というものは常に、大真面目にそれが行われるところにしか出現しないものである。

現在の私たちの目から見れば、『ドン・キホーテ』のような荒唐無稽でメタフィクショナルな幻想物語が歴史叙述と詩のどちらに近いかときかれたら、おそらく即座に直感的に、詩のほうに近い、と答えそうである。ドン・キホーテやサンチョやサンソンや「学士」が上のような対話の中で「詩」と「歴史叙述」の違いなどを教養深げに語り合うのを見ても、『ドン・キホーテ』が純粋な「ほんとうの」歴史叙述ではないこと、したがって両者どちらかといえば「詩」の範疇に入るであろうことは、誰の目にも明らかである。韻文で書かれてはおらず詩の形をしてはいないけれども、フィクション要素や「想像力」をふんだに盛り込んだ「文学作品」、「作り物語」でありフェイクの歴史、 feigned history に他ならないこのようなものが「ほんとうの歴史叙述」ではなく「詩」であるという考えかた自体は、しかしどちらかといえば、現代的な直感よりもむしろベーコンの論述にこそ全く沿ったものであるといえる。フィクションと荒唐無稽とをふんだんに施されて、歴史叙述の「模倣」でありながら「ほんとうの歴史叙述ではない」ような作品、それはすなわちベーコンの分類によれば「叙事詩」の範疇にあるものであり、ホメロス以来厳然と屹立するひとつの古いジャンルに属するものであって、そのような類のものは、過去の文学史に接続しこそすれ、新しい時代の文学形式を開きはしないだろう。だが、かの同僚が語ったように、また巷間にしばしば言われるようにもし『ドン・キホーテ』が真実「近代小説の祖」たる特質をその内に胚胎させていたのであれば、この作品が「ほんとうの歴史叙述ではない」こと以上に、「しかし、詩でもない」ということのほうが、むしろはるかに重要だったはずである。「ほんとうの歴史」のふりをしながらそうではなく、ふんだんな演出を施されていながら、「にも拘わらず、詩でもない」何か別のものだということこそが、おそらく『ドン・キホーテ』において革新的な、レヴォリューショナルなことだったのであり、この「にも拘わらず、詩ではない」ものが、「小説」と名づけられて、やがて自立的に成長していったのだ。小説というのはこのようにして、詩の変化形としてではなくまず歴史叙述の変化形として生まれたがゆえに、「本当にあったことだという触れ込み」を伴う「表現形式としてのリアリズム」が初期段階において必然的に要請されたのだが、それはそもそも「仮作の歴史」たる「詩」においても、というより「詩」においてこそそうであったはずである。『オデュッセイア』であれ『平家物語』であれ何であれ、吟遊詩人が語り歩く叙事詩もまた「本当にあったことだという触れ込み」を伴って語られ、聴かれ、泣かれた。だがそういう「詩」のありかたにも、「小説」はやがてすぐに叛旗を翻した、すなわち「本当にあったことだという触れ込み」を廃棄し、廃棄することで「小説」となったのだと、ひとまずはそのように理解される。そしてそれとほぼ時を同じくして、「歴史」ではないもの、すなわち過去を現在に引き写すのではない形で最初から現在のことをうたう「抒情詩」というジャンルもまたジャンルとして成立した。抒情詩をめぐるそのあたりの事情と経緯については、また別のテクストを参照しながら、別稿においてやがて学ぶこととし、今はこれ以上深入りすることをしない。

なお、ベーコンの「詩学」の項目には、抒情詩的な詩についての言及も全くないわけではない。最後の段落は以下のようである。

この学問の第二の部門すなわち詩においては、なにも欠けるところをわたくしは報告することができない。というのは、詩は、本式に種をまきもしないのに、台地の勢いからはえてくる植物のようなものなので、他のどんな種類のものよりも大きく成長し、広く枝をひろげたからである。ところで、当然認めるべきものを詩に対して認めるためにいうなら、詩が感情や情念や堕落や風習を表現してくれることにかけては、われわれが詩人に負うところは哲学者の著作に負うよりもより大であり、機知と雄弁にかけては、演説者の長広舌にもたいしておとらないのである。しかし、劇場にいつまでもとどまるのはよくない。これから、もっとうやうやしく、注意して近づき眺めなければならない、精神の法廷または宮廷に進んでゆくことにしよう。

(同上、p.151)

そうして次の「哲学」の項目へと記述は移ってゆく。この書物は、英国国王に捧げる形で、既存の諸学問を体系的に解説しながら、個々の分野においていまだ欠けていて今後鋭意補ってゆくべき点を指摘することを目的として書かれたが、「詩においては、なにも欠けるところを報告することができない」―詩は、他の由緒ある諸学問と異なり、自己発生して鵺のように展開してきたものであるから、そもそも完成形がどのようなものであるべきなのか想定することができない。そこにはいったいいかなる「摂理」が働いているのか? 全体がわからなければ、「欠けたところ」を指摘することもできないのは理の当然である。詩が抒情や叙景に長けているのは誰もが知っていることであるし、そのことを称賛するにやぶさかではないにせよ、「しかし、劇場にいつまでもとどまるのはよくない」という。詩の居場所は、学問の殿堂ではなく、なおあくまでも劇場=見世物小屋、show-room なのであった。そのようにしてベーコンのこの著作においては、学問の殿堂よりも劇場は少しく低い位置にあるものとして扱われたが(「学問の進歩」が主題なのだから当然ではある)、人も知る通りまさにこの時代、世界を把握するためのメソッドとして「劇場」という概念ほど華々しく流行したものもまた、他に類を見なかったのである。

2021.11.07

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