Litterae Universales / melanchologia

サトゥルヌス曖昧症候群 ( J.P.クリアーノの記述より)→【解題】

(……)古代の心理学は非常に興味深い四分法によって作られている。それは主要な気質を、四体液の一つが人体を支配することから導き出している。黄胆汁、粘液、血液、黒胆汁 arta bilis。この最後のものはギリシャ語で黒胆汁(メライナ・コレー)といい、これから melancholy「憂鬱症」という言葉が生じる。四大、基本方位、一日と人生の区分などは人体のこれらの四体液と対応する。黄胆汁の系列は、火、東南風(エウルス)、夏、白昼、成熟などを含み、粘液の系統は水、南風(アウステル)、夜、老齢を、血の系列は空気、西風(ゼピュロス)、春、朝、青春を、黒胆汁は血、北風(ボレアス)、秋、夕暮れ、六十の齢などを含む。四体液のいずれかの多寡が四気質を決定する。すなわち胆汁質、多血質、粘液質ならびに憂鬱質である。肉体的特徴、あるいは「体質」(ラテン語 complexio は「体液の混合」)は、性格と密接な関連を有する。

憂鬱症は一般に、「最悪の気質 pessime complexionati」である。痩せて陰気で、そのうえ不格好でむさ苦しく、無味乾燥で無気力、臆病で横柄、もの憂げで怠惰―要するに、宗教も法も眼中になく、人間関係に対する配慮もない人間たちである。黒胆汁気質の象徴は、地べたに寝ている老守銭奴というところであろう。

四つの基本的心身類型のなかで、もっとも不幸なものについてのこの容赦ない性格規定は、占星術における惑星間の嫌われものについての伝統的記述に対応するものである。すなわちそれは磨羯宮と宝瓶宮の主(ぬし)たる土星 鍵である。/(……)土星は冷たく乾いた星である。/(……)

すでにテオプラストスは憂鬱症の二つの種類の区別を行っていたが、これをのちにアリストテレスが追認した。冷たい黒色胆汁によって生ずる憂鬱症は、上述の特徴に対応するものであるが、もう一つの「熱い」体液の支配によって生ずるものは、天才固有の精神的な不安定と変りやすさを人に付与するものである。アリストテレスによれば、以下のような症状が「熱い」憂鬱症には明らかに見て取れるのである。「陽気の発作、陶酔、変り易さ、霊感」。もし胆汁の温度が調節されるならば、これらの奇矯な行動は、その異常な能力を損なわずに天才の憂鬱症の行動から消失するのである。

憂鬱症患者のこのような例外的傾向とは何であろうか? アルベルトゥス・マグヌスによれば、熱い憂鬱症、あるいは「蒸気憂鬱症 melancholia fumosa」 は、患者の幻想活動に対して二つのはなはだしく重要な効果をもつという。第一の効果はこの精妙な組織内における幻想の「動きやすさ」にある。第二の効果は、気息に「刻印された」幻想のもつ大きな能力にある。このことは途方もない記憶力のほかに、幻想活動につねならぬ分析能力を付与するのである。フィチーノが「一芸に秀でた人物は、生得のものであれ、孜々として瞑想に励んだ結果であれ、憂鬱気質である」と述べる所以である。しかしながらゲントのヘンリクスは、憂鬱症気質者の高度に発達した幻想的能力に基づく特殊な芸術能力は認めるものの、抽象的思考能力は否定しようとしていたのである。フィチーノは憂鬱症気質と土星気質を同一化することによって、この過ちを是正した。前者が伝統的に気まぐれな天才性と見なされてきたとすれば、後者はまたその導きの星によって、気むずかしさ、あるいは高度の思弁能力を付与された孤独者のいずれかとして、機能的な曖昧さを示してきたのである。

土星は死すべきものらの共通の性質と運命の掟を定めず。ただ人間をして聖なるか禽獣なるか、幸福なるかはなはだしく不幸なるかの区別を樹つるのみ。

土星が、上記の肉体的、精神的に不快な性質に加えて、その支配のもとに形而上的思考と「抽象的」推理(対象の助けなしに。すなわち最小限の幻想作用をもって)への例外的な性向を与えるということは、ヘレニズム占星術と同じくらい古い起源を有する思想である。地上からは最果ての地にある土星は、アリストテレス=プトレマイオス=トマスの体系において恒星天に至近の位置、それゆえに至高天に接する位置を占めている。これはバビロニア占星術において土星に帰せしめられているもっぱら否定的な性質とは相容れない特権的な地位である。この曖昧さは霊魂の地上への下降の教義においても残存している。マクロビウスとプロクロスは、土星に観想能力(テオレテイコン)と論理能力(ロギステイコン)を付与した。これに対してマリウス・セルヴィウスは痴呆と不機嫌を、ヘルメス主義に立つ『ポイマンドレス』は虚偽を、さらに中世においてはマクロビウス注解のフィレンツェ稿本は「苦澁 acidia」あるいは憂鬱症と同義語の「憂愁 tristica」を付与した。すでに述べたように、フィチーノ自身はマクロビウスとプロクロスに倣っているのである。

クリバンスキー、パノフスキー、ザクスル、ヴィントらは、憂鬱症の症状と「サテュルヌス現象」の融合はフィチーノによって完成されたことを証明した。最近ではジョルジョ・アガンベンが、憂鬱症のこのような曖昧な性格はすでにキリスト教中世においても知られていたという説をもって上記の学者たちに反論したが、これはフィチーノの独創性は新しい概念を述べたことにあるのではなくて、既存の概念を新しい方法で結合した点にあることを理解しないためである。事実、サテュルヌスの曖昧さは中世においても、古代においても決して未知のものではなかった。しかしフィチーノこそはおそらく「サテュルヌス現象」の二つの面を、憂鬱症の二つの面―動物的な面と天才の面―に重ねあわせたと信じられるべきなのである。この同一化によって、憂鬱気質者も原則として自己に否認されてきたもの、すなわち形而上学の能力を土星から獲得することができたし、土星気質の人間も、憂鬱症によって与えられた想像力と預言能力を誇ることができたのである。

不幸の星はまた天才の星でもある。それは厳かに霊魂を仮象から引き離す。それは霊魂に宇宙の秘密を開示する。不幸の星は憂鬱症の試練を通じて、透徹した感受性を身に着けるべく鍛え、「サラニ高ク、秘カナル観照ニ導クモノナリ ad secretiora et altiora contemplanda conducit」。

アグリッパ・フォン・ネッテスハイムはアルブレヒト・デュラーの「メランコレア Ⅰ」を触発したが、彼は伝統的な分類にとらわれずにフィチーノ思想を継承した。アグリッパの分類によれば、デュラーの有名な版画の題名において用いられている「第一」という数字は、「想像力が理性を支配する」土星気質の人々―偉大な芸術家や職人を指していた。これは以前ならば、言葉の矛盾とされたであろう。というのはサテュルヌスの長所とは、まさしく理性能力であって、想像力ではなかったからである。ただフィチーノが憂鬱症を土星気質と同一視したことによってのみ、普通ならば明確な区別が存在するこれら二つの型の性格をアグリッパが混合することを可能にしたのである。

しかしながらフィチーノもアグリッパも憂鬱症が一種の「無化 vacatio」、霊魂の肉体からの分離であって、透視と予知の能力を付与するものであると主張したとき、何ら新しいものを主張したのではなかった。中世の分類では、憂鬱症は睡眠、失神、孤独と並んで、「無化」の七つの形式の一つであった。「無化」の状態は、霊肉の不安定な結合によって規定されるものであり、これが霊魂を感覚的世界から独立させ、霊魂としてのいわば独自の活動を展開するために肉体の刻印を忘却させるのである。霊魂が自由の意識をもつとき、それは叡智界の観照に専心する。しかし霊魂がたんに彼此(ひし)の世界を彷徨しているにすぎないときでも、それは時空における遠隔の場に生ずる出来事を記憶に留める能力を失わないのである。それというのは、単純でもなく一義的に解決可能でもないこの問題をあえて単純化して、時間は叡智的世界においては、「展開」しているのではないということができるからである。過去、現在、未来は画然と区別されることなく、万物は「永遠ノ相ノモト sub species aeternitatis」にあるのである。時間の永遠の元型をかいま見た霊魂が、過去や未来について感覚的経験からは生ずることのない知識を得ることができるのは、このゆえにこそである。(……)

(ヨアン・ペーテル・クリアーノ『ルネサンスのエロスと魔術 想像界の光芒』桂芳樹訳、
工作舎、1991、p. - )

【解題】
メランコリーに関する論述は世にあまたあるが、元々極めて多面的な性質のものゆえ、論考によって、視点も、また拠って立つところもまことに様々であり、群盲象を撫でるの感はなはだしい分野のひとつである。先人が残した膨大な文献を網羅的に読破し、最も適切な概説をもくろむなどということは、私などの手にはおよそ余ることであるし、仮にそのようなことを試みたとしても、群盲にさらなる一を加えることにしかならないだろう。膨大な参考文献のうちどれとどれが「信頼に値する」のかを判断することすら全くままならないありさまであるから、これはと思ったものを、ひとまず論評を加えることなく呈示しておくことが、後々おそらくは重要でもあろうかと思う。上で名を挙げられているクリバンスキーらの『土星とメランコリー』は今もってmelancholology の重要な古典であるが、その中でフィチーノ、アグリッパ、デューラー、ゲントのヘンリクスらがそれぞれ展開するメランコリー論相互の食い違いについて記されている部分に対して、クリアーノによる上の記述はとてもわかりやすい補足をなしてくれており、併せて、メランコリーという概念が時代とともに多面性を輻輳させてきたその歴史の中の重要な一局面がたいへんコンパクトにまとめられていると思うので、ここに挙げておくのである。なお「サトゥルヌス曖昧症候群」というタイトルは、ここに上記部分を引用するにあたって私がつけたパネルタイトルであり、引用元の書物にあるものではないことをお断りしておく。

2016.05.17. | 解題 2021.05.15

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