Litterae Universales / melanchologia

調和の霊感 Akkorde und Melancholie

1 musica universalis―ついうっかりとキルヒャーを参照する

詩人がすべての人々の心を動かすのは 何によってか

何によって詩人は四大元素のすべてをわが支配の下に置くのか

それは胸よりわきいでる調和の響き(Einklang)

世界を心に受け入れる調和の響きによってではないでしょうか。

自然が永遠に切れることのない運命の糸を

気ままに縒りをかけつつ無理にも錘に巻き取る時

そして雑多多様な万物が

腹立たしくも乱調子な(unharmonische)音を響きつづかせる時

誰がその単調に流れ行く無限の列に区切りを与え

躍動するリズムを生み出す(rhythmisch regt)のでしょうか

誰がそむき合う万物を聖なる普遍の香気に浴させて

美しい諧音(Akkorde)の響きをかなでるようにさせるのでしょうか

誰が荒れ狂う嵐に情熱の激しさを託し

赤く燃える夕焼けのうちに真摯なる思いを見出すのでしょうか

誰が恋人たちの歩む小径に

美しい春の花を惜しまず撒くのでしょうか

誰がただひたすらに緑なる樹々の葉を

いさおし高き人々の名誉の冠へと編み上げるのでしょうか

誰がオリュンポスの山を守り 神々をそこに集わせるのでしょうか

それはみな詩人 詩人のうちにこそ現れる人間の力ではありませんか。

(ゲーテ『ファウスト 第1部』柴田翔訳、新潮文庫、p.18-19)

西洋の文学にようやく親しみ始めた少年のころに『ファウスト』の日本語訳を読んで、これが「詩」であると即時に納得する者はおそらく稀だろう。詩のように行分けされていることは一目でわかるが、なぜそのようになっているのか、すんなりと腑に落ちることはまずあるまい。西洋語の韻律は日本語に訳せばすべて跡形もなく失せてしまい、頭韻も脚韻も翻訳にあたってはほぼ全面的に諦めるしかない。原文、あるいは、原文の「響き」をある程度まで反映させることの可能な西洋諸言語で読めば、ここで「詩人」が語っているこのせりふがそれ自体「詩」であることを感知もできようし、詩の力について語る詩人のその言葉のかたちと意味内容とがしっくりとした諧音を奏でているであろうその「調和の響き」をも、場合によっては聞き取ることができるかもしれないが、日本語の、それもリーダブルな口語訳においては、「響き」やら「調和」やらと「詩」なるものとがここで織りなす関係性は、あくまでも言葉の意味として読み取られる抽象的なものにとどまってしまう。日夏耿之介あたりが『ファウスト』を訳したらどうなっていたかわからないが、現存して容易に読めるものは森鴎外訳でさえデスマス調の口語であって、私自身、このせりふにおいて語られているような「詩」のめざすところを、このせりふを含む『ファウスト』全体が「詩」の形で書かれていることとの関連において少しでも考えてみようかと思うようになったのは、ごく最近ようやくドイツ語を眺め始めて以来のことである。とはいえ、考えてみようかとは言い条、さしてたくさんのことが考えられるわけではない。『ファウスト』冒頭の「舞台での前狂言」は、幕が上がる前に緞帳の手前で観客ご一同様への挨拶代わりという思い入れで「座長」「詩人」「道化」の三者が交わす会話だが、俗受け狙いの興行主VS芸術志向の詩人の路線争いを道化がうまく調停しつつ、何やかにやでめでたく開幕へ持ってゆくその過程で、酸いも甘いも噛分けた苦労人めいた道化役と、何といっても「興行ってもんをわかってる」らしい座長とにはさまれて、詩人はいくぶん旗色が悪く、抽象的な意味だけを取り出して読めばその理想主義はいかにもナイーヴなものとも見え、座長と道化がふたりして詩人坊やをなだめすかして、おだてて台本を書かせようという一幕にさえ見えなくもない。しかし西洋語で読むならば、詩人のみならず座長・道化のせりふもまた韻律・脚韻相伴って三者ひとつの響き Einklang をもって「前狂言」を紡いでいるとわかるわけで、詩人ゲーテは一方で自己批判的に「詩人」を茶化してみせながら、他方では、詩人を茶化す言葉つきをも詩として繰り出すことによって、詩人が語る「詩の力」なるものを前狂言全体に浸透させ、ひいては『ファウスト』全体に行き渡らせようというのでもあるらしい。高校生のころに初めて読んで「何これ詩なの、意味もなく行に分かれてて超読みにくい」などと思って以来40年、この程度のことに今更思い当たるとは何たる鈍物であるか。わざわざ事新しく記すようなことでもあるまいが、ものの順序として書いておく。

詩人と言い、また詩、詩と言っているが、上の箇所でその「力」について述べられているものは、よく読めば詩よりもむしろ音楽であると言ってよい。Einklang(相和す響き)、Rhythmus(リズム)、Akkorde(和音)、そしてHarmonie(調和、ハーモニー)という語こそないが unharmonisch(不調和な)、これらの語はむろん詩についても用いられる語彙ではあるが本来音楽の用語でもある。「胸よりわきいで/世界を心に受け入れる調和の響き der Einklang, der aus dem Busen dringt,/Und in sein Herz die Welt zurücke schlingt」、森鴎外訳によれば「その胸から迫り出て、全世界をその胸に畳み込ませる諧調」、すなわち、詩人の内奥から衝迫を以て響き出す Einklang は、その響きにおいて、全世界を詩人の内奥へと逆巻きにたぐり込むのだが、そのような「相和す響き」によって、そのような形で詩人は「四大を支配下に置く」という。互いに相和し、不調和なところのない和声的な響き、それがすなわち Harmonie(調和、ハーモニー)というものだが、詩人の内奥からHarmonieが響き出し、そのとき同時にそのHarmonieによって全世界が詩人の内奥へ巻き戻るというようなことが起こる、という考え方の根底にあるのは、全世界なるものが本質的にHarmonieでできている、あるいは、全世界の本質がもともとHarmonieそのものであるという考え方であろう。「事物の本性はあらゆる点で、音楽やハルモニア harmonia の比率に関連がある」とアタナシウス・キルヒャーは『普遍音楽』(1650)の中で述べた。「全世界の本質は完全な音楽に他ならない」

我々としては、あらゆる事物の本性は全能なる創造主の偉大にして真実の力に他ならない、と言いたい。そのような力は全てのものに浸透しており、全てを秩序よく配置し保つハルモニア的比率に他ならない。これは、あらゆる不可思議な作用の根源でもあり、自然の懐に隠されているのだ。我々が自然の事物のあらゆる段階を吟味してみると、据えてのものに、隠された一致と対立、自然の調和と不調和、敵対と友好の法則が見出される。これによって全ての事物は友好的な集合体としてまとまっている。(……)

(アタナシウス・キルヒャー『普遍音楽―調和と不調和の大いなる術』菊池貢訳、工作舎、2013、p.31)

キルヒャーのハルモニア論、といえば後述するようにそれなりに知られたものではあるけれども、彼のいう「ハルモニア」あるいは「ハルモニア的比率」というのがどういうものなのかを簡便に一言で理解するのは難しい。かれの書物の真骨頂は、哲学的な概論よりもむしろ個別具体的ないろいろな音についての詳説や、不思議な新発明のかずかず等の膨大な集積ないし散らかり具合にこそあって、概論部分は先行する諸文献にすでに書かれたものごとのアマルガムであるという。しかも訳者あとがきによれば、上掲の邦訳書はアンドレアス・ヒルシュなる人による1663年のドイツ語抄訳本に基づいていて、この抄訳本には詳細な(数論と密接に関連しているところの)ピタゴラス以来の音楽理論の部分がもともと欠落しているのだそうであり、そのせいもあってか、肝心な「ハルモニア的比率」の最も簡潔かつ明晰な学術的定義のようなものをこの邦訳から得るのはなかなかに困難であるので、ひとまずは、「神はオルガン奏者であるから、世界はオルガンと比較される」と主張するキルヒャーのその饒舌の中から、それがどのようなものを含意しているのか大体の感触を掴むことで我慢しなくてはならない。

偉大にして、その姿を捉えることのできない永遠の神は、自然を創造するにあたり、最高度に完全で十二分な善であった。困窮や欠乏もなかった時分に、無尽蔵な豊かさと自らの溢れる慈悲深さを示すため世界を創造せんとした。勿論、混乱した無秩序の道理に従ったのではなく、また偶然の効果によったのでもなく、作られたものの予期せぬ効果によるのでもない。そうではなく、言葉では説明できないほどの高度な叡智によって、人間を世界の息子として構成したのである。この世界という大建築物または世界の秩序、美、幸福、世界の侵すべからざる秩序、全く把握不能な事物を考察するとき、驚くべき全能の創造者を知り、驚嘆し、渇望し、愛し、敬愛し、永遠に所有できたらとすら思う。このように、世界は秩序と美点を兼ね備えた、不可視な神性のイデアであり形象であるから、全てのものを全く完全に自らに内包している諸イデアの中のイデアとして、最高の完全なモナドあるいは和合として、あらゆる数字の比率を、捕らえようもなく広い中心とともに自らの内に持つ。それはあたかも目に見え、感知できるように思われる。さらに、永遠の神は、終わりなき完全の数、際限のない重さ、計り知れない定量であるから、一定の量、数、重さを持つあらゆるものを作り出し、雑然とした多くのものをいわば一つの中心に集め、これを高度なシンメトリーとハルモニア的比率で飾り立て、表現せんとした。そうすることであらゆる被造物間の常に持続する愛、和合、調和、いわば完全なシンフォニーと調和が、創造主のもとに一体となることを望んだのだ。というのも、音楽つまりハルモニアはある種の数、量、重さに他ならないため、プラトーンの考えに従うと、世界は一つのハルモニアであって、全てはその中に把握されるわけだ。自然は神の御業、あらゆる事物をハルモニア的に一致させる力なのである。さらには、世界は神の完全なる似姿であるから、必然的に、原型と永遠のハルモニアのアナロジーからすると、世界と世界のハルモニアは神によって作られた、ということになる。また、世界の全ての活動における神の御業としての自然は、全体として音楽的な比率の上に見るべきものということにもなる。

オルガンを制作しようという職人は、様々な準備をして基礎部分を作り、次に風や空気を導くためのパイプや管を作る。ハルモニアが優美なものとなるように、様々なレジスターや響板を設置する。さらにふいごと風よけ―その動きに従って空気が出てくると管を通って風箱に導く―を設置して、最後に鍵盤を配置する。これが技術を最終的に管理するわけだ。これを指で押すとパルムラが下がり、弁が開く。レジスターを引くと、多様なハルモニアが生み出される。これと全く同じようなやり方で、神もまたこの大きな世界オルガンを自らの驚異的な智慧であたかも一つの協和 - 不協和として作り上げた。一、神の力の言葉によって、混沌としたカオスのようにまだ形をなさない塊を、形をなさないものの実体を作り出した。これによって、それに続くオルガンの構造にいわば基礎を与えた。二、神はパイプをかたどった。形のない塊の中に其の形が隠れているかのようである。三、神性の息を、形をなさない水の中を漂う空気と風がやがてオルガンと成るべく、吹きかけ、吹き込んだ。四、被造物を、レジスターを作るかのように様々な列に並べた。五、楽器全体に鍵盤を取りつけた。それは自然がその技術を行使して、あらゆる被造物に植えつけた魂や命のようなものだ。最後に楽器が完成すると、最高の音楽家がオルガン全体に自らの魂の息を吹き込み、活性化させ、鍵盤を押す、つまり自然がその技を奮うと、不可思議のハルモニアが生み出された。今日に至るまで、我々は驚嘆をもって聴いてきたはずだ。

(p.308-309)

神への尽きせぬ賛美を込めたこうした概説的な箇所は随所に見出されるが、実のところ、(翻訳のせいもあろうが)控えめに言っても到底わかりやすいとは言えず、どちらかといえば非常に混乱的であって、このように書写しながら感銘を残すのは、おそらくピタゴラスやヘラクレイトス、プラトンあるいはマルシリオ・フィチーノ等を直接に読むほうがはるかに簡明々晰にそれぞれ理解可能であろうところの理論がほとんど無秩序に絡まりあったような論旨よりもむしろ、例えば「この世界という大建築物または世界の秩序、美、幸福、世界の侵すべからざる秩序、全く把握不能な事物を考察するとき、驚くべき全能の創造者を知り、驚嘆し、渇望し、愛し、敬愛し、永遠に所有できたらとすら思う」との畳み掛けから感知される情熱的な切望や、「(……)不可思議なハルモニア(……)今日に至るまで、我々は驚嘆をもって聴いてきたはずだ」というその率直な感動と確信である。キルヒャーの考える「ハルモニア」が今私たちが思い描く「ハーモニー」とどれほど異なっていようがいまいが、自然がかなでる「協和 ‐ 不協和」の「不可思議」に我々自身折にふれて日々「驚嘆をもって」耳を澄まし目を凝らしていることに間違いはないし、それら不可思議な協和 ‐ 不協和を構成するありとあらゆる事物・現象のいちいちに「驚嘆し、渇望し、愛し、敬愛し、永遠に所有」したいというあられもないほどの願望と憧憬は、ハルモニア理論そのものよりもはるかに明瞭に、この本の記述自体のいわばふんだんすぎる惜しげのなさにあらわれている。およそ音と音楽とについて書ける限りのことを書き尽くし、詰め込んでおこうとする、そのような姿勢は当時キルヒャーに限ったことではなかったにせよ、この本自体が一種のコレクションであり博物学的展示であるという意味で、実際にもハコものとして彼が運営していた博物館のありかたにこの本もまた相通じつつ、世界を「永遠に所有」する願望のありかたそれ自体をも遺憾なく展示している。驚嘆、驚異、驚くべき、不可思議といった単語が目白押しに並ぶところは当時流行の「驚異の部屋 Wunderkammer」の文脈で理解できるし、「数、量、重さ」に確信的な基盤価値が置かれているのは、古代以来のハルモニア理論もさることながら、13世紀以来急速にヨーロッパを席巻しつつルネサンスを補強した「世界の数量化・数値化」の趨勢が、伝統ある数理的ハルモニア音楽論を改めて裏打ちするように作用したことをおそらく示すだろう。「数、量、重さ」とは要するに「計測可能なすべてものの」の謂であり、「神は、終わりなき完全の数、際限のない重さ、計り知れない定量である」と言われるとき、それは「あらゆる数値を内包するところの無限」というような意味なのである。無限、という語は専門的にはごく難しい語で、下手に無限などということを言うと理数系の人に憫笑されるのが常だが、ともあれここではそのような意味であると見える。「音楽つまりハルモニアはある種の数、量、重さに他ならないため、プラトーンの考えに従うと、世界は一つのハルモニアであって、全てはその中に把握される(……)」―何もプラトンでなくともピタゴラスでも誰でもよさそうなものだが、理論篇というべき箇所において例えば「一から三の不思議な力が流出するということは(……)」「人間の創造はアダムから始まり、二へと流出した単一において、エヴァを作り出し(……)」「創造によらず最初から存在した三位一体は、次に増殖し知的世界の別の三位一体へと流出した」「三位一体が第一にして最高の単一なので、この三位一体の原型から流出できるのは、秩序、数字、音において把握される三位一体(……)」(以上p.401-403)等々、随所において神による創造を「流出」と言い換えているところだけを見ても、キルヒャーもまたフィチーノ同様ネオプラトニスティックな世界創造観を持っていたのは疑いのないところで、他方またものの本によれば、

ピタゴラス派の考え方においては数学的な法則が音程組織と天体組織の基礎と考えられ、音楽が天文学と密接な関係において捉えられた。具体的には、ある楽音や、一定の秩序をもった一連の音の並びとしての音階は、特定の惑星、惑星間の距離、天球におけるその運動と対応関係を有すると思われていた。惑星の回転によって生み出される音の世界は「天球の音楽」とされ、それは普通の人間には聴こえず、ピタゴラスのように宇宙の調和の真なる法則に通じた者にだけ聴こえるとされた。ところで、こうしたピタゴラス派の天球の音楽という考え方をさらに展開し、中世からルネサンスにかけての宇宙論と音楽論に決定的な影響を及ぼし続けたのがプラトンである。また古代末期にギリシアの音楽論を集大成してヨーロッパ中世へと引き継いだボエティウスも、音楽をMusica mundana「宇宙の音楽」、Musica humana「人間の音楽」、Musica instrumentalis「道具の音楽」の三種に分けていることで有名であるが、そこにはピタゴラス的なハルモニア概念が色濃く反映されているし、その後ルネサンスさらには近代初期に至るまで書かれた様々な宇宙論や音楽論にはHarmonia mundi「世界の調和」という観念が頻出し、そこでもピタゴラス=プラトン的な天球の音楽の考え方が決定的な参照対象となっている。

(伊藤玄吾「西洋古代からルネサンスに至るハルモニア論と教育思想」、シンポジウム「ハルモニアの思想史における音楽と人間形成」報告論文、教育思想史学会、2020、p.63)

伊藤氏のこの報告論文は、西洋におけるハルモニア論史の概略を、まずざっとではあれきちんと押さえておきたいと思う向きにはまことに有難い、貴重な小論である。「ピタゴラス的なハルモニア概念が色濃く反映されている」「ルネサンスさらには近代初期に至るまで書かれた様々な宇宙論や音楽論」のうちのひとつに、キルヒャーの『普遍音楽』も数えられるわけであり、Harmonia mundi を絶賛してやまないキルヒャーの筆においても、「ピタゴラス=プラトン的な天球の音楽の考え方が決定的な参照対象となって」いる。

天体の調和する音楽を探求するのが困難な企てであるのは確かだ。探求する者は数多いが、誰一人として根本を見極めていない、そんな仕事なのだ。耳にはそれ以外のものは何も聞こえなくなってしまうほどの卓越したハルモニアである。世界が音楽の作品として作られていることは、あらゆる事物の模範となっているイデアから充分にわかることだ。神はあらゆる事物のハルモニア的規範であるから、あらゆる事物をハルモニアの比率がとれた形で、韻律の秩序に従って作り出したのも不思議はない。アウグスティヌスはこのことについて次のような言葉を述べている。「世界の秩序を美しい歌のように、いわば対照句で神はお飾りになった。相反するものを相反するものに対照させる言い回しのように、言葉の雄弁でなく物の雄弁によって相反するものを対立させることで、この世の美は作り上げられるのだ」。ここでアウグスティヌスは世界を美しい歌、あるいはエピグラムと呼ぶ。多くの声と事物、多くの対立物、不快な多くの事物の確執が見出されるからだ。詩句で言えばこうだ。「寒さは熱さと戦っていた」等。ピュータゴラースも、世界は音楽的な方法で作られ、次にリラがその調和を模倣するようになった、という考えであったという。世界の音楽と被造物の音楽がどのようなものであるか、あらゆる事物の対立物はどのようなものか、秩序はどのようなものか、歌はどのようなものか、この世界の装飾と美とはどのようなものか、についてはセネカの『マルティリアス宛書簡』、アウグスティヌス『真の宗教について』第29章から詳細に読み取ることができる。確かにテルトゥリアーヌスは、この世界の美、装飾、秩序は巨大なため、古代の哲学者たちが驚いたと伝え、世界には始めと終わりがあると考えている。この秩序だった世界音楽、被造物のたいへん繊細なハルモニアについて、ダビデも繊細な言葉で書いている。詩篇19「その音は天に響き渡る」。つまり、その音楽は実に巧みに繊細に規則と規範に従って作られ、いくら驚いても足りないほどなのだ。だから、古代の哲学者たちはこう考えていた。世界はディアパソン(完全8度、1オクターヴ=引用者註)のハルモニアから成る。すなわち、地球から星天まで、完全なディアパソンである。地球から月までは全音、月から火星までは半音、火星から金星までは太陽からの距離と同じで、全音とその半分。実際、ピュータゴラース、プラトーン、トゥッリウス、プリニウス、マクロビウス、プロクロスや無数の人たち、さらには多くの教皇自らが、天は真にして甘美な音を生み出すと固く信じていた。「私の耳を満たすこれほど大きく甘美な音は何だろう」とトゥッリウスは言う。「周囲に広がるこの園から必然的に音は認識される。音は動きからしか生じないのだから」とマクロビウスは言う。プラトーンは『国家』の、天球の廻転について説く部分で、各天球にセイレーンが座し、歌や音楽をする際に、天球が動かされると神々に優雅な音楽が与えられることを示している。セイレーンは神が歌うことによって力を持つとギリシア人は考えている。天は自らの動きの調和によって優雅なハルモニアを絶え間なく生み出す。これは、我々の耳に到達しようとすると、我々の内部に不思議な愛の力と途方もない憧憬を呼び覚まし、食事を全て忘れてしまったかのようになり、もはや飲食をしようなどとは思わない。そして、山上のモーゼのように、天上で永遠の光明に至ったような気になる。付言すれば、このように、天は音楽の至上の楽器なのである。これによって人は神を称え、神を称賛に相応しく、音楽的に歌われるべき最高の父とする以外の結論はあり得ない。「これほど動きの速い天の装置をどのようにして静かに運行させることができるのか。もっともこれは我々の耳には届かないのであるが」とボエーティウスは言う。「この世界は音のハルモニアによって配置され、この天はハルモニアの旋律の下に廻転していると言われる」とイシドールスは言う。「七つの天球は極めて甘美なハルモニアによって廻転し、それが廻転することで極めて心地より一致が生まれる。それゆえに我々の耳には届かない。何しろ、空気を超えたものであり、その大きさたるや我々の貧弱な聴覚を凌いでいるのだから」とアンセルムスは言う。しかし、古代の人間が、この天上のメロディーを是とした理由は、彼らが世界を神の寺院と呼んでいたことである。なるほど、オルガン、音楽家、歌手がいないような寺院、教会ないし神の家は相応しくない。そこで(……)

(p.320-322)

どこまで引いてもきりがない感じであって、読めば読むほどかれの言う「秩序だった世界音楽」よりもむしろロバート・バートン「メランコリーの解剖」(1621)に言う「この世界を統べるものは秩序ではなく、ごった煮である」というテーゼのほうを強く連想させる筆致であり、伊藤論文とつきあわせながら読むと、古代の天球音楽論、中世の賛神、ルネサンス~近代初期のマクロ/ミクロコスモス観がほとんど一文ごとに綯い混ぜ合わされているのがわかる。だがそれよりも困ったことには、「相反するものを対立させる」こと、「多くの声と事物、多くの対立物、不快な多くの事物の確執」に触れながら、そうした「対立」や「確執」が「どのようなもので、それがどのようにして「秩序」へと回収されることになっているのか、についてのまとまった記述を探し出すのが全書を通じてたいへん難しく、上の引用箇所のように、「対立」や「確執」「相反」についてふと述べられても、すぐに記述は「繊細なハルモニア」と「秩序だった世界音楽」に関するあられもないほどの賛仰の言祝ぎへと向かってしまうのであった。そのあたりが、伊藤氏の編むハルモニア論小史の中に名を挙げてもらえるほどの権威と影響力とをこの書物が持ち得なかった理由でもあり、「訳者あとがき」においてさえ、「それにしても、結局のところ、キルヒャーは何も生み出しはしなかった」と言われてしまう所以なのでもあろう。「ひたすらに過去の智の集積に勤しんだキルヒャー。それを現実逃避の好古趣味と非難するのは容易い。(……)「こんなものは、何の役に立つのだ」とはありがちな言いぐさ。だがキルヒャーは言うかもしれない。「つまらないことを言うねぇ。要は君次第ではないのかね?」」―それはつまり、この一見したところ乱脈な論理破綻と「ごった煮」の記述そのものが「過去の智の集積」ならぬ「種々雑多な万物」を表象するものに他ならず、その「雑多多様な万物が腹立たしくも乱調子な(unharmonische)音を響きつづかせる時」、「単調に流れ行く無限の列に区切りを与え躍動するリズムを生み出」しかつまた「そむき合う万物を聖なる普遍の香気に浴させて美しい諧音(Akkorde)の響きをかなでるようにさせる」のは、読者としての「詩人」、詩人としての読者「のうちにあらわれる人間の力」以外ではないということなのだろうか?

太陽は、昔ながらの調べをなして、

同胞の星の群と歌の音を競い、

いかずちの歩みをもって、

その定めの旅路を全うする。

それを見れば天使たちは力づく、

誰ひとりそれを究めあかすことはできないが。

不可思議なる貴いみ業は、

天地開闢の日と同じく荘厳である。

 

そして速く、思議を絶した速さで、

華やかな地球はみずから回転する。

楽園のごとき明るい昼と、

深い物凄い夜とが交代する。

海は幅広い潮路をなして、

海底の巌にあたって沸きかえり、

巌も海ももろともに、

永遠に速い天体の動きに拉し去られる。

 

そして嵐は海から陸へ、陸から海へ、

相競うて吹きすさみ、

たけり狂って己がまわりに、

凄絶なる作用の連鎖を形づくる。

時には霹靂のゆく道にあたって、

雷火の破壊の炎が燃えあがる。

しかし主よ、おんみの天使たちは、

日々の穏やかな推移をうやまいまつる。

 

それを見れば天使たちは力づく、

誰ひとりそれを究め明かすことはできないが。

なべてのおん身の貴いみ業は、

天地開闢の日と同じく荘厳である。

(ゲーテ『ファウスト 第1部』柴田翔訳、新潮文庫、p.24-25)

壮麗な「過去の智の集積」であるという性質は1世紀半近く時代の下った『ファウスト』もまた併せ持っていて、戯曲全篇が詩という「音のハルモニアによって配置され」「ハルモニアの旋律の下に廻転」する「世界」たることを『ファウスト』なりに目指していると言えようが、「舞台での前芝居」に続く「天上の序曲」冒頭で天使たちによって歌われる上の賛神の言祝ぎは、キルヒャーが歌う(つまりは古代から多くの碩学がそう唱えてきたとキルヒャーが確信し賛美する)ところのハルモニア、天球の廻転の音楽そのものとしてのハルモニア賛歌とすっかり符節を合わせていて、その符節自体が「昔ながらの調べ」に他ならない。ただし二連目・三連目では、「楽園のごとき明るい昼と、深い物凄い夜」との「交代」、「海」と「海底の巌」とのぶつかり合い、「海」と「陸」とに「相競うて吹きすさむ」「嵐」が「たけり狂って」「凄絶なる作用の連鎖を形づくる」ありさま、そして「霹靂」、「雷火の破壊の炎」といかにもシュトルム・ウント・ドラング的な怒涛の語彙が荒れ狂い、「穏やか」な「定めの旅路」すなわち予定されているハルモニア的秩序よりもむしろ「対立」「確執」「相反」にこそスポットが当てられている。伊藤氏によれば、「異なるもの間の争いや対立を否定的に捉えるのではなく、逆にそれこそが本来の調和を成り立たせる積極的な契機であるとする、ダイナミックな調和概念の水脈」は、17世紀、すなわちキルヒャーのころよりも後にようやく顕著になりまさってきたものであるようだが

「ハルモニア」をめぐる思考と実践の歴史は、理想的な調和の実現の歴史というよりも、むしろ調和の飽くなき探求と失敗の歴史である。しかしながら、自らが調和の欠けている世界に生きており、それをなんとか克服せねばならないという強い意識、そこにこそ調和について広く深い考察を積み重ねていく執拗で強靭な思考の起源があることも確かであろう。また、調和というものが成り立つためのより確固な基盤を求めようとすればするほど、それは目の前にある具体的なアジェンダをはるかに超えてより普遍的な問いへと向かい、人間を超えた存在と繋がるような調和原理の考察へと至る傾向を持つことも確かであろう。

本稿において主に取り上げた内容は、どちらかといえば静的な性格の強いハルモニア概念の系譜であって、今日的な視点からは体制維持的、保守的、場合によってはいくらか全体主義的な印象をすら与えるかもしれない。むしろ現代の我々のアクチュアルな関心に応えるという観点からすれば、異なるもの間の争いや対立を否定的に捉えるのではなく、逆にそれこそが本来の調和を成り立たせる積極的な契機であるとする、ダイナミックな調和概念の水脈を辿ることこそが重要かもしれない。しかしながら、筆者が本稿を準備する過程において常に背後に鳴り響いていたのは、劇的な対立から劇的な調和へと転換するダイナミックで表現力の豊かな17世紀以降の音楽ではなく、様々な不協和音もその細部に含みこみながら、ある種の純粋な響きを追求し続ける幾つかの中世やルネサンスの楽曲の持つ、独特の宇宙的ともいえる静謐感であった。よってここでは、そのような音世界を作り出した人間、それを基礎付ける独特の調和への意志を丁寧に辿っていくことによって、我々自身が知らず知らずに陥っている調和や音楽についての近代的な思い込みからいくらかでも解放され、かつて「乗り越えた」はずの古びたハルモニア論の中に、人間の生き方の問題と教育の問題をより広い射程において考えるヒントとなるものを探ろうとした次第である。本稿はそうした探求に向かうためのひとつのささやかで拙き道標に過ぎない。

(伊藤玄吾、同上、p.69「あとがき」)

「ささやか」かもしれないが決して「拙い」とは思えないこの「道標」は、浅学極まりない私などにも多くの豊かな示唆を与えてくれる。文学史的には、「劇的な対立から劇的な調和へと転換するダイナミックで表現力の豊かな」作品群が前面に躍り出たのは(おそらく)18世紀以降、すなわちロマン派あるいは(高山宏氏ふうに言うならば)プレ・ロマン派以降と言うべきだろうが、50年も費やしたという執筆の過程で古典派的なものからロマン派的なものまでこもごもに相携えるに至った『ファウスト』はまさしく、「協和」とそれが内包する「不協和」の間の対立の捉えかた自体が「劇的」なものへと変化していった時期のその変移そのものを内包しているだろう。そして「遅れてきたルネサンス人」キルヒャーの筆致において、「あとがき」の言うように「百科全書的学智とあやしき奇譚が平然と同居し」、「面目躍如たるところは、音楽の魔術的側面の考察をはじめとし、人間の情念との関連を詳細に記した点」であるとするならば、それはルネサンスとゲーテとの間をはるかに世紀を隔てて繋ぐキルヒャー式ごった煮ヴァルプルギス・ナハトと呼んでよいのではないかとも思えてくるのである。

2 harmonia melancolica―「詩人」ファウストの魔術的冒険

「あやしき奇譚」の例を挙げるなら、どこでもよいのであるが例えば「魔術」の巻中「スウェーデンの海岸の不思議な音」と題された章は以下のようである。

これについてもオラウス・マグヌスが考えている。ボタニア海の最高峰を語るくだりでこう述べている。「音が激しく、誰も下って行くことはできない。波が高く打ちつけ、恐怖を感じる。直ちに逃げても助かるとは思われず、ひたすら恐怖のあまり死にそうになるほどだ」。しかし、この山の山麓部分には波が寄せ返しする際に曲がった裂け目ができる。内部に不思議な自然の隠れ場所があって、長い喉がおぞましい音を発しているという。同じ山についてボーヴェのヴァンサンが書いている。「冥界の近くに山がある。それほど大きくはないが、穴が開いていて冬の季節にはそこから激しい雷雨やすさまじい風が起こる。そんなときは危険なくしてそばを通ることはできない」という。バウサニアースによると、エーゲ海沿岸の浜辺はキターラの音を模倣する。打ちつける激しい波を受けている浜辺の洞穴の様々な状態が原因であることは確かだ。それは音を増大させ、離れている者に対してキターラのような印象を与えるわけだ。洞穴が大きく数が少ないからといって、それが空洞の音響体全体に一様に作用するのではない。樽にもさまざまな大きさがあるのと同じことだ。ラエティウスも『新世界の歴史』で、グアテマラ海の海岸近くのある山について書いているが、頻繁に風が吹くと、我々のオルガンの音とさほど違わない音が聞かれる。住民は神の踊りと呼んでいる。原因はまさに次のことだ。山の様々な大きさの水管の中に、海から駆り立てられた激しい空気が洞穴を通って入ると、管の吹き込み口に打ちつけ、フィストゥーラのような笛や他の不思議な物体から出たような音を出すのだ。だが、さらに驚くべきものについては、アレクサンドリアのクレメンスが『ストロマテイス』第6巻でブリタニアとペルシャの山々について書いている。「ブリタニア島には山の下に洞穴があって、頂上には大きな割れ目がある。風が洞穴に入り、割れ目の内部に打ちつけると、シンバルをたくさん鳴らしたような音を発し、森では木々の葉が濃密な速い風に動かされると、鳥の歌のような音が生まれる。また、ペルシャでは広い野原に山が三つ並んでいて、一つは、千人あまりの人間が一緒に叫ぶと、自ら音を出し、あたかも空中にいるかのような感じがする。二つ目は、ずっと高く明瞭な音を出す。三つ目は勝利の歌を歌っているように聞こえる」。補足によれば、音の原因は土地が凹面状になっているからで、入り込む風を押し戻し、そこから出ていくといっそう強く激しいざわめきが生まれるという。

(p.247-248)

こうしたトピックのどこが「百科全書的学知」でどこが「あやしい奇譚」、はたまたどこが自然科学的探究であると言うべきなのかまことに渾然一体としており、これらの「不思議な音」が「協和 - 不協和」の観点からしてどう評価されるべきなのかも、前後を読んでも俄かには判然としないのだが、「世界の七不思議」的な奇妙な現象の物語に思わず惹かれる子供のような、洞窟があればつい入ってしまいたくなる気持ち、そこに博物誌的なものがはるかに由来していることは疑いないと思われ、「協和 - 不協和」の理論の中にどう精緻に位置づけるべきか以前に、ともかくも書き留めておくに値する話である、書き集めておかねばと考える以前に書き集めてしまうコレクター習性のようなものが、この種の箇所にも強く感じられるのである。洞窟の奥は、いったいどうなっているんだろう、この不思議な音はどこから来るんだろう?―「一体此世界を奥の奥で統べてゐるのは何か、それが知りたい。そこで働いてゐる一切の力、一切の種子は何か。それが知りたい」(森鴎外訳)というファウストの心底の願望は、何も近代の知性の巨人などでなくとも本来誰しもが持ちうる、無邪気で根源的な願望であり問いである。「ママ、これは何、何するものなの、どこからきたの、なんで? なんで? なんで?」その問いが肥大すると「世界の成立ちを全部知りたい!」となるわけで、そのTotalityへの希求が近代的だと言えなくもないのかもしれないがそれも別段近代に限ったことでもあるまいと思う。でなければ世界各地の文明に洩れなく(かどうか)創世神話が伴っているはずもあるまい。「この世界は、一体どうなっているんだろう、知りたいよね?」―ただそのTotalityの希求にどこまで具体的実現性を期待しうるとされたか、いかなる社会的価値に裏打ちされて、誰によってどのようにどこまで営まれ、翻ってその営為にどのようにどこまで社会的価値が認められたか、そこに時代と地域の差異があるというわけなのだ……。古代ローマのプリニウスが「博物誌」を書いたころに比べて17世紀ヨーロッパにおいては入手可能な情報が比較にならぬほど増大していたが、再び「あとがき」によれば、「集められた膨大な情報と溢れるイマジネーションの邂逅から徒ならぬものが生み出されるが、その一方で、キリスト者としての意識が自然科学的態度の足枷となることもある」として、例えば「真空の存在を頑として認めない」あたりにキルヒャーの限界が見いだされもするという。「自然科学」なるものがそういうものとして厳然とその姿を現し、古い自然哲学からの独立を果たしたのは18世紀のことであるとされるが、そのころの文学者であり政治人でありつつみずから「自然科学」にも深々と片足突っ込んでいたゲーテはといえば、さすがに「キリスト者としての意識が自然科学的態度の足枷」となる度合いははるかに減じていたにもせよ、あるいは減じていたからこそ、『ファウスト』全篇は、自然科学にとどまらない学術的・実践的探究のこころざしと、キリスト教的モラルとの相克の物語を明らかなひとつの軸としている。そしてその相克、対立と確執のただなかで揉まれる主人公ファウストは、学者であり魔術師であり、詩人、すなわちハルモニアの探求者に他ならないのであった。

さてそのファウストだが、冒頭に引いた「舞台での前狂言」での詩人のせりふに続いて、道化役が次のように語る。

それならば その美しい力とやらを大いにふるって

詩人商売に精をお出し下さいましな。

そいつは恋の冒険にもげに似たりという奴で

手を出しはじめるのはほんの偶然

感じる 離れられぬ で いつしか深みに入る

嬉しい知らせのあとは 四面楚歌

楽しさにわが身忘れたむくいは 忍び寄る胸の痛み

たちまち成立するは 一巻の大ロマン

といった具合の芝居を一本 

人生の真只中にぐっと踏み込む奴をお願いしやす。

誰しも生きるは人生なれど 人生知るものは数少なし

あなた様がむんずと掴めば どのひとかけらだって面白いこと疑いなし。

定かならぬ影々 目もあやに織り上げ

誤謬錯覚を山とつみ そこに一瞬真実の火花を飛ばせれば

たちまち醸し出されるのは極上の美酒

世のため人のため 面白くてためになる極上品でさ。

そうすれば 若き世代の旗手たちは

あなたの芝居の前に集まりつどい ご託宣に耳傾ける

心優しき若ものたちは わが身を養う滋養にと

あなたの作品から憂愁の盃を傾ける

時としてあちらの思い、時としてこちらの思いがかき立てられ

誰もの胸に響くのです。

(ゲーテ『ファウスト 第1部』柴田翔訳、新潮文庫、p.19-20)

詩人のせりふがごく生真面目に掻き口説かれるのに対し、こちらは道化であるからいかにも洒落のめして詩人とその取り巻きを茶にするように見えるけれども、その実、語られる内容は両者ともに同一である。前者がハルモニア的世界観に基づいて天を見上げる憧憬のまなざしとともに語ることを、後者は地上の「人生」へ世俗のまなざしを投げながら語る。両者はまるでマクロ/ミクロコスモス構図のように類比的な関係を取り結びつつ、手を携えて「詩の力」なるものへ観客の耳を誘おうとする。「自然が永遠に切れることのない運命の糸を/気ままに縒りをかけつつ無理にも錘に巻き取る時/そして雑多多様な万物が/腹立たしくも乱調子な(unharmonische)音を響きつづかせる時」、「定かならぬ影々 目もあやに織り上げ/誤謬錯覚を山とつみ そこに一瞬真実の火花を飛ばせれば」すなわち「あなた様がむんずと掴み」調和的霊感 l'estro armonica をひとたらし、「そむき合う万物を聖なる普遍の香気に浴させて/美しい諧音(Akkorde)の響きをかなで」させれば、「たちまち醸し出されるのは極上の美酒」「面白くてためになる極上品」、誰もの胸に響くそれをもたらすのはみな「詩人、詩人のうちにこそ現れる人間の力」だという次第である。天球に、宇宙にハルモニアを込めたのは神、この世界というオルガンを製作したのは神であっても、ゲーテの時代、そのオルガンはすっかりと言わずともかなりの程度、人間の手に下げ渡され、雑多多様な万物と、山のような、けれども目もあやに織り上げられた誤謬錯覚の中で海へ陸へと吹きまくられながら、なお普遍の美しい諧音を奏でようとし、その音に耳と心を傾けるのは今や人間、なかんずくその代表選手としての詩人の使命である、とそのような次第になったのがつまり近代というものであるとも言い得よう。ネオプラトニスティックな流出説にのっとれば、神の単一至高のハルモニアから雑多な万物とそれら相互の対立相克へと流出したこの世界は、やがて神の恩寵と調和秩序の必然によって「穏やかな定めの旅路」を経てやがて神のもとへと還帰するが、「舞台での前芝居」においては逆に、神ならぬ人の身の詩人ひとりが、その「胸よりわきいでる調和の響きによって」「世界を心に受け入れる」と言われる。すなわちこのゲーテの時代には、ハルモニアは神ではなく詩人の心から流れ出で、その調和の響きに共鳴することで、世界はふたたび詩人の心の内奥へと戻るのである。ただし、ではその調和の響き、詩人の心からあふれ出るハルモニアはどこから来るのかといえば、それは霊感インスピレーションという火花によって詩人の心にもたらされるのであり、どこにあるともしれぬ始原のハルモニアとの感応、何らかの高みから何がしかのものによって in-spire される、すなわち人間精気に何がしかのものが介入するということがなければ、それはなおやはりもたらされ得ない。99パーセントが誤謬錯覚、妄想であっても、「一瞬真実の火花を混ぜる」その火花は妄想や夢や幻惑であってはならない、あるいは、その火花ばかりは始原からくる「真実」であるはずだという考えが、なおここにはある。18世紀初頭つまり『普遍音楽』と『ファウスト』のさらに間をつなぐ時代に作曲されたヴィヴァルディの L'estro Armonica は、日本では昔から『調和の幻想』と訳されてきたけれども、それは「幻想」であっては困るのであり、あえて訳すならばやはり「霊感」であるべきなのだろう、そこには人間が無為にも恣意にもゆらゆらと思い描く「定かならぬ影々」にすぎない幻想ではなく、宇宙の真実のハルモニアとの感応があるのでなくてはならなかった。でなければ無駄に壮大な予定調和の妄想などに何の意味もありはしないからだ。

荘厳な天球の廻転、壮麗な調和の夢をたまさか見てはやがて醒め果てて、ああ、失敗だった、所詮は見果てぬ夢、何の意味もありはしないと額に手を当て溜息をつけば、人はたちまち憂鬱の病に陥る。それをメランコリーという。上の道化のせりふの下のほうに「心優しき若ものたちは わが身を養う滋養にと/あなたの作品から憂愁(Melancholie)の盃を傾ける」とあるのは、いささかいぶかしいと見えまいか。現在『ファウスト』の邦訳は10指を満たすほどあるが、多くは「憂愁」「憂鬱」の訳語を用いている中で、最も古い森鴎外訳ではここは「さうすれば心の優しい限りの人があなたの作から/メランコリア(Melancholia)の雫を吸ひ取るのです」となっていて、あと一本も確か「メランコリー」と訳しているが、鴎外はただ「メランコリア」とカタカナ訳をするだけでは足りず「(Melancholie)」とわざわざ原語を補っている。これはおそらく鴎外のとても鋭敏なところで、カタカナ語を使いあまつさえ原語を付すときというのは一般に既存の日本語単語ではふさわしい置き換えができず、かつカタカナとしても聞きなれない言葉であるときであるから、鴎外はこの箇所の Melancholie という語は、「愁い」とか「憂愁」というような知られた日本語ではその含意を汲み取りきれないと判断したのであろう。「愁い」とか「憂愁」「憂鬱」、メランコリーというよりはヒポコンデリイと言うべきものの雫を「わが身を養う滋養にと」盃に汲みたがる「心優しき若者」が一体どこにいるだろうか―いやもちろん、青春特有の憂鬱に陥りがちな気質の若者は、みずからのその憂鬱に寄り添ってくれるたぐいの物語や情景や詩文をしばしばひどく好むものであって、それはそれで「身を養う滋養」になるに違いないだろうけれども、ハルモニアの霊感で「ごった煮」を豊かに醸し出したところの「世のため人のため、面白くてためになる」「極上の美酒」がよりによって「憂鬱」の雫に限定されるというのでは、鴎外ならずとも首をかしげるところだろう。少なくともキルヒャーの頃までは、そして遅くとも18世紀に自然科学が自然哲学を脱却すると同時に古来の「体液説」が棄却されるまでは、「憂鬱 Melancholie」とは、他ならぬハルモニアの不具合を代表する病のひとつだったのであるから。

協和音と不協和音の魔術は、魔法の音が持つ自然の力を呼び覚ますことに他ならない。自然の魔術あるいは見えない自然力の中でも少なからぬ場所を占める。音の中にも同様の不思議を起こし、状態を変えさせる力を持つものがあり、我々の智力では説明がつかないのである。この音楽の磁気、そして音楽の磁気が持つ牽引力のため、古代人は、その源はオルペウスにありとした。何しろ彼は自分のリラの魔術的な音によって、動物、森、石を従わせたのだ。これについて、クラウディアヌス『プローセルピナの誘惑について』の第二巻の序文に洗練された記述を読むことができる。音楽の魔術的な力は慣習的に比喩を用いたり、宗教的に解されるアレゴリーを用いたりして書かれている。古代人の考えでは、音楽は自分たちの魂を、様々な音やハルモニアを用いて蝋をこね回すように変える大きな力を持っており、同時に風習を作り、変えることができるものであった。とはいえ、音やハルモニアを変えるのとは違い、繊細な心の動きに影響を与えるのはたやすいことではない。そこでオルペウスは自身のリラの神的な音でもって、石、樹々、動物や、狂気で野蛮で粗暴な人間を引き寄せ、友好的で心安らぐ社会的生活へと誘惑したのである。(……)/

既に述べたことだが、音楽のリズムは特に八種の情動に働く。(……)愛と憎しみが一番強い気分であるといっても、音楽はそのようには働かない。愛と憎しみは、憎み愛する対象を必要とするが、音楽は心情や気分一般を動かすにすぎないからだ。喜びに対する愛が、一般的な気分から駆り立てられたとしても、音楽は悲しみを呼び覚ますことはできない。だから憎しみも呼び覚ますことはできない。悲しみは死に対する心情から生じるのに対し、音楽は生に向けられているのである。しかし、憂鬱な心は音楽を軽蔑する。このことに首をかしげる必要はない。原因は、精気または体液が、恐れまたは悲しみと「邪悪」なものを強くイメージすることによって、あたかも凝り固まっているかのようになっていることだ。精気はあらゆる刺激を投げ捨てて、力を失っている。

(p.209-214)

 

(……)ラビたちの証言では、「ダビデは、サウル王を治療する際、十弦のキターラまたはハープを弾き、セフィロトの数の木を手本として準備をした。十の神の徳が溢れ出し、豊作の果実さながらに、この効力を発揮することができた(……)」。(……)音楽が道を開き、憂鬱と狂気を駆逐した。煤煙を追い払い、閉塞から解放し、心を元気にするのは何よりも音楽の行為である。というのも、それは音から成り、音は空気の動きから成る。これが狂人の精気中のものを動かし、精気には動きによってより暖かくより敏捷な効果が生み出される。すると、憂鬱の湿気が混入したものはみな解放され、駆逐されるわけだ。そのような精気を落ち着かせ、激情が脳を傷つけないように、初めはゆっくりとしたハルモニアに従って、精気と苦しみの蒸気―胃や脾臓、腸から脳に上がっていく―がある程度穏やかになり、人間をいっそう安らかに解放するのだ。このようにダビデの音楽がサウル王を二通りのやり方で落ち着かせることができた。一つは、サウル王の精気と蒸気が動かされ、暖められ、縮小されたので、音楽は憂鬱質の体液を消散し、脳室から下に追いやり、あるいは希薄な期待へと分解し、汗として排出させた。二つ目は、その精気が憂鬱質の体液を残していても、精気が回復しない限りは荒れ狂うことはあり得なかった。その体液は体内で生じ存在するもので、生命精気と動物精気が抑制しない限りは、その体液は残されるが、ハルモニアを増大させるために耳を閉じると、その間、精気は活力を失い、狂乱は生じない。しかしそれをやめると、精気は回復し、ある程度軽快かつ機敏になっているので、一時の間憂鬱を追い払い、軽減させ、おそらく部分的ではあるが寛大で柔和なものとなったのであろう。/

心の闇にある蒸気が消散した後、悪魔が次第に消え去らざるを得なかったのはいかにしてか、という疑問がここから生じる。憂鬱の気分は暗黒で霧のかかった状態なので、悪魔にとって快適な居場所であるが、このせいで人間は不安にさせられる。悪魔に取り憑かれたり、これによって不安に駆られたりした人間は、奇異な行動をとる。(……)音楽は病気を起こす原因となっている気分を分解し、減少させ、または鎮める。それはまさに真夜中の風のようなもので、それが起こると毒に汚れた空気を完全に浄化するのが常である。

(p.220-221)

精気 spiritus という語と音楽の関係については、キルヒャーよりも、その先達であるフィチーノを参照して学ぶほうがはるかに理解がゆくであろうからここでは措き、ここでは仮初にかつ簡便に、精気とはメンタルな筋肉のようなものであると考えておくのがよろしかろう―それは常にしなやかで暖かく、感度よく滑らかに動きよい状態に保たれていなくてはならないものである。四体液説、すなわち血液・粘液・胆汁・黒胆汁の四つの体液がそれぞれの気質を統御しており、これらの四体液がバランスよくめぐることで人間の心身を健康に保っているという古来の説は、18世紀に最終的に棄却されるまで長らく命脈を保っていた。内海健氏によれば「17世紀になると、脳神経系が精神を司る器官であり、精神障害の座であることは、すでに医学的常識となっていた。さらに18世紀は(……)神経科学が俄かに発達した時期に当たる」が、「これと並行して、体液学説は病因を黒胆汁に置いたまま、その黒胆汁が影響を与え、メランコリー症状を起こさせる器官は脳である、と改訂された。それゆえ神経科学の隆盛も、体液学説にとってさほど大きなダメージにはならなかった」(内海健『うつ病新時代――双極Ⅱ型障害という病』勉誠出版、2006)のだそうで、上のキルヒャーの記述にも「激情が脳を傷つけないように」「憂鬱質の体液を脳室から下に追いやり」などの言及があるところから、この過渡期、あるいは過渡期の初期にかれがいたことが漠然と推察されるように思われる。「憂鬱質の体液」とはすなわち黒胆汁であって、これが過剰になると心身のバランスすなわち調和がある一定方向へ乱れて、憂鬱の病が発する、それに対して音楽が具体的にどのようにどう作用して何がどうなったのかについて上の記述から読み取ることは(当然のように)困難かつ納得しがたいのは確かであるものの、「サウル王」が現代のいわゆる双極性の病を発していて、これに対しては「二通りのやり方で落ち着かせる」こと、すなわち極度の鬱症状と極端な躁転とを共々に防いで、中庸かつ最も生産的な、穏やかな軽躁状態をなるべく保つことが肝要とされていたことは充分に見てとれる。それは多かれ少なかれ現代の精神医学に通じる認識であるといえようが、生半可なことを言うべきではないからそこは措くとして、ともあれ憂鬱(症)melancholy とはもともと「黒胆汁(メライナ・コレー)」に由来する名称をもつ病であって、どのようにしてか「追い払い、軽減させ」「浄化する」べきものであったのである。そのような考え方、すなわち黒胆汁をも含めて四体液学説が最終的に医学領域から完全に捨てられた後、では「メランコリー」という語はどのように扱われるようになったかといえば、別稿で述べたように、文学芸術の領域において改めて、捨て子を拾うようにして拾われ、飾られ、新たな美しき詩神ミューズとして鍵 育て直された。ゲーテが『ファウスト』を書いていた頃はまさにこのミューズの台頭・席巻の時期にあたる。奈落を徘徊するような、「恐れまたは悲しみと「邪悪」なものを強くイメージすることによって、あたかも凝り固まって」「精気」が「あらゆる刺激を投げ捨てて、力を失っている」極度の抑鬱を代償として、時に常人の思いおよばぬ高みへ飛翔する、それが「詩人」というもののあるべき姿として想定され、そうした激しい振幅のうちに「一瞬真実の火花」の霊感を受け取る詩人の営為をつかさどって甘美かつ心打つものとなすのが「メランコリー」というミューズだというのであった。学者であり魔術師であるファウストは、悪魔メフィストーフェレスと契約を結んで「取り憑かれ」「不安に駆られたり」して「奇異な行動をとる」、そしてファウストの傍らはメフィストにとって「快適な居場所」であるごとく、長い戯曲の進展の間つかず離れず二人は行動を共にするが、メフィストが(最終場面を除いて)終始極めて安定したメンタリティを維持するのに対し、ファウストは時に激しく落ち込み、何度か自殺を試み、そのつど音楽あるいは秘薬によって活力を回復しては、常人には思いも及ばない破壊的な思考と行為とに邁進する。かれは詩人と名乗ることはないが、そのメンタリティが持つ振幅はまさしくメランコリー・ミューズの申し子のそれであり、その意味において「詩人」に他ならないのであった。そのような詩人としてかれは「この世界を奥の奥で統べているものは何か」、その根源の「種子」を探求する―その語るセリフにおいて「四大を支配し」ようとし、みずからの躁と鬱との激しい対立・相克の中から「躍動するリズムを生み出し」「諧音を奏で」る。ダビデがサウル王に対してなしたような「憂鬱と狂気」の駆逐を、ファウストは自らに対し自らの手で行おうとする。第二部の最後、クライマックスの直前に、ファウストと「憂愁」とのひそかな決闘のシーンがあることはおそらく知られてもいようしここで詳説はしないが、そこでファウストがみずからきっぱりと拒絶するのはあくまでも「精気があらゆる刺激を投げ捨てて力を失っている極度の抑鬱」に陥ること、であって、かれの憂鬱気質自体がそこで消失するわけではない。『ファウスト』は言うなれば、憂鬱気質の詩人がその気質を保ったままにみずからの「憂鬱と狂気」に闘いをいどむ物語であり、その闘いを支援し見そなわすのがメランコリー・ミューズであるのだ。したがって「前芝居」で道化がいうようにこの作品『ファウスト』から「心優しき若ものたち」が「わが身を養う滋養にと/Melancholie の盃を傾ける」のであれば、その Melancholie は単なる憂鬱=抑鬱状態ではなく、こうしたこと全てを含意するのでなくてはならないのであり、西洋文化を席巻したメランコリー・ブームの狂熱いまだ醒めやらぬ19世紀に渡独した鴎外はおそらくそのことを鋭く感知していたのであろう。伊藤氏のいうような「劇的な対立から劇的な調和へと転換する」ダイナミズムの最たるものを、ファウストという「詩人」に造型された躁極と鬱極の劇的対立およびその劇的解消のメロドラマに見る。それは確かに、はるかロマンティシズムの時代のものであった。

2021.12.08 近日改稿予定

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